滅びの種-Doomed Seed-

椎名ユシカ

01「樹形素体ウプシロン」


 無数の星々が、漆黒の闇に瞬いていた。選別された人類を運ぶ恒星間入植船「Phageファージ-No.χカイ」の一般展望デッキからは、地球とはまるで異なる宇宙の深遠が広がり、生命を寄せ付けない無音の世界が顔を覗かせている。デッキの片隅には、他のアンドロイドとは肉体の構造が異なる「樹形素体フィトモルフ」が静かに佇んでいた。


 彼女の名は、ウプシロン。その姿は、一見すると人間と見間違えそうなほど精巧でありながら、よく見るとどこか違和感を覚える。肌のように見える表面には僅かな緑色の筋が走り、彼女の左眼は黄金の光に染められ、見つめる先に未来と過去を交差させていた。デッキから一望できるその光景は、ウプシロンにとって単なる視覚以上のものだった。彼女の左眼に時おり流れ込む電波状の黄金染料は、今この瞬間だけでなく過去と未来をも交錯させている。


 背後に流れていたのは、地球最後の世代が作った静謐せいひつな弦楽四重奏。その音色はウプシロンの存在を包み込み、デッキに漂う空気を柔らかく染め上げていた。人類が作曲した音楽は彼女にとって、単なる娯楽ではない。過去と未来の記憶を繋ぐ媒介であり、ここではないどこかに心を運ぶ窓のようなものだった。


 音楽は彼女にとって、思考を整理し、ひとときの自由を感じさせるもの――。


「4、3、2、1……」


 誰にも聞こえないほどの小さな声で呟くと同時に、ウプシロンの左眼に黄金染料が駆け巡り、無数の光景が一瞬にして流れ込む。技術者によって精巧に作られた唇が無意識に数字を刻むたび、窓の外の宇宙は彼女の視界で別の形を帯びていく。それは、この入植船が辿る未来の軌跡――そして、最初の危機的警告が訪れるほんの刹那前の出来事だった。


 窓の外では深い闇の中で星々が輝き、彼女の横顔に光が静かに反射している。その瞳は、まるで遠い過去を見ているかのように遥か別の場所へ向けられていた。

 

「ウプシロン、緊急通信です。本船の進路上に小惑星群を検知。最初の衝突予測まで残り8分42秒――」


 突如、冷ややかな音声が彼女の通信端末に流れた。


 通信の内容を聞いた瞬間も、ウプシロンは姿勢を崩さなかった。彼女は窓の外に目を向けたまま静かに問いかける。その瞳には、まるで迫り来る危機を額縁に飾られた絵画として眺めているかのような余裕が漂っていた。


「どれくらいの規模なの?」


 星明かりに照らされたガラス越しに映る彼女の横顔には、焦りの色が一切見られない。一方、船内通信を介して届くPhageファージ-No.χカイの防衛システムAI「Lotusロータス」の声には、冷静さを装いながらも僅かに緊張が滲み出ていた。入植船の防衛を担う彼女にとって、この規模の危機は明確な行動指針を持たなければならない状況である。


 それにもかかわらず、ウプシロンが何も急がないことに戸惑いを感じているようだった。


「最大物体の直径は68メートル、速度は秒速35キロメートル。合計で97個の物体が進路を遮断中です。衝突の可能性は95.7%……」


 その報告を受けても、ウプシロンの表情は揺るがない。むしろ、微笑すら浮かべると、彼女は耳を傾けながらも、動くことなく余裕を見せる。その目は音楽と共に遠くを見つめ、まるで船の外に広がる全ての出来事が彼女の掌の中にあるかのようだった。


「いいわね。素晴らしい数字。でも、それ、少しデータの修正が必要じゃないかしら?」


 その一瞬の沈黙は、船内を満たす機械音と音楽、生命維持装置の低い振動音を際立たせた。冷徹で正確なシステムAIにとって、言葉が途切れるというのは、計算外の事態に直面したときだけに見られる反応。Lotusロータスのアルゴリズムが可能性を総動員し、解を導き出そうとする一方で、ウプシロンはあくまで音楽に身を委ねて窓の外を見つめているだけだった。その姿は、嵐の中でただ立ち尽くす人物のようでありながら、どこか自然と調和しているようにも見える。


「……訂正します。進路上の小惑星群の動きに予想外の偏向を確認。衝突確率を98.4%に更新。ドローン部隊の緊急展開、または進路変更を提案します」


 Lotusロータスの声に焦燥が滲む。どれだけ計算結果を更新しても、事態が改善しないという結論が彼女のアルゴリズムに負荷を与えているのだろう。だが、ウプシロンは首を横に振った。


「進路変更なんてしないわよ。最短ルートで目的地に着くのが最優先です」


 彼女の口調には揺るぎない確信が込められている。Lotusロータスがさらに進言を続けようとしたが、ウプシロンは窓の外の景色に再び目を向けるだけだった。その目は、未来の「既に起きた結果」を語っているようにも見える。

 

「現行進路ではシールドに大きな負荷が予想されます。推定損傷率は62.3%……ウプシロン、状況は危機的です」

「危機的? 私と同じ人工知能なのに面白い言い方をするのね。結果を知ってる私には、とてもそうは見えない――」


 彼女の左眼には未来の光景がさらに鮮明に映し出されていた。ウプシロンが見ていたのは、小惑星群の中で大部分が自動回避するように逸れていき、僅かな破片がシールドの外層に衝突するだけで終わる光景。その後の航行が滞ることもなく、むしろこれが無事を証明するイベントに過ぎないことを、彼女は確信していた。


「ウプシロン、指示を仰ぎます! この状況で何も手を打たなければ――」

「本当にしつこいわね。心配いらないわ、ロータス。全て予定通りに進みます」


 ウプシロンの返答が無いまま時間だけが刻々と過ぎていき、最初の小惑星が船体に衝突するまで残り6分――。


「ウプシロン、最適化された進路計算を再送します。推奨進路変更まで残り5分42秒――」


 Lotusロータスの冷徹な声が船内通信に響く。通常であれば、船の進路変更には多数の計算と調整が必要だが、この船にはそれを可能にする自動化されたシステムが揃っている。それでも、進路変更は燃料の大幅な消費や到達時間に影響を与えるため、簡単には行えない。Lotusロータスは一瞬の判断ミスが全体に及ぼす影響を熟知していた。


 だが、ウプシロンはその提案に耳を貸す素振りすら見せず、再び外を見つめた。


「そんなことをしなくても、何も問題は起きないわ。ロータス、掘削ドローンを再配置して、シールドのエネルギー分配を調整しなさい」

「再配置ですか? 現状では、進路変更をしなければ衝突物を完全に排除することは困難です」


 ウプシロンは僅かに微笑み、指を一本挙げて指示を続ける。


「前方に進路予測円を描いて、そこに掘削ドローンを配備。近接物体を掘削レーザーと小型EMPで削り取りつつ、外層の磁気プラズマシールドを展開。流れに逆らわず、それを利用するのが一番よ。そうすれば、シールド全体への負荷は10%以下に抑えられるわ」


 彼女の声には、自然と調和するような不思議な優美さがあった。Phageファージ-No.χカイの防衛システムLotusロータスは一瞬、計算に時間を費やしてしまう。船内システムの光が瞬き、全てのアルゴリズムが緊急で動いていることを感じさせた。


「流れを利用する……? 理解不能ですが、計算上可能性は否定できません。掘削ドローンを再配置します。シールドエネルギー分配を調整中……完了まで約90秒」


 小惑星群の流れが一層速まり、船体を取り巻く環境が不安定になる。だが、ウプシロンはその視線の先に、光と影の明確なリズムを捉えていた。


「良い子ね。安心して、ロータス。これは自然が教えてくれる光の道標ミチシルベなのよ――」


 Lotusロータスの提案する進路変更を拒否し、彼女自身の未来予測と戦術で事態を乗り切ろうとするウプシロン。冷静さと確信に満ちた彼女の態度は、Lotusロータスのような純粋な計算に基づいた存在には理解しがたいものだった。


 小惑星帯に突入するまでの残り時間は3分42秒。恒星間航行で不可欠な資源の掘削機能を備えたドローンが次々に展開され、船の前方に防御の網を形成し始めた。それは、まるで植物が根を張り命を紡ぎ出すような光景で、展望デッキからもその動きが微かに確認できる。


「ロータス、素敵な光景だと思わない?」

「ウプシロン。非効率的な発想ですが……目標が達成されるなら異論はありません」


 ドローン群の放つ掘削レーザーが船体前方の空間を切り裂き、飛来する小惑星の破片が眩い閃光と共に消えていく。その中を滑るように進むPhageファージ-No.χカイは、巨大な六本の翼を広げた龍のように静かで優雅だった。


「掘削ドローンの作業範囲、全て良好。前方セクターの危険度は2%以下に低下しました」


 Lotusロータスの報告が船内に響き渡る。


 ウプシロンは展望デッキに立ち、手を背中で組んだまま外を見つめている。目の前の光景は、彼女が「視た」未来と寸分違わぬものだった。


「予定通りね。ロータス、これで危機は去ったわ」


 冷静にそう告げたが、ウプシロンの視線は窓の向こうにある星々へと向けられたまま。


 小惑星帯の出口に差し掛かると、船全体が再び安定した静寂を取り戻した。展望デッキの窓越しに見えるのは、暗闇に散らばる無数の星々と、遠くに青く輝く白い恒星。その光はまるで、行く先を示す灯火のように船を照らしている。


「シールド強度、全エリアにおいて正常値を維持しています。進路変更の必要はありません」


 Lotusロータスの余計な報告を聞きながら、ウプシロンは小さく微笑んだ。


「だから言ったでしょ? 何も心配はいらないって――」

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