1章5話 袋小路

倉庫を飛び出したアッシュは、配達で培った動きで街を駆ける。


石畳を蹴り、錆びた配管を伝い、壊れかけの非常階段を跳ぶ。

いつもの配達ルートが、今は命を救うための逃走経路だった。


「くそ...どこだ…!」


工場の煙が渦を巻く薄暗い街並みを、アッシュは必死に目を凝らす。


やがて、路地の奥で固まったまま震える二つの小さな影を見つけた。


(あいつらだ…!)


先日、パンを分け与えた兄妹。


しかし、彼らのすぐ目の前には、巨大な蜘蛛の化け物が迫っていた。


石畳を打ち鳴らすその脚音は、死神の足音のように不気味だ。


「逃げて!」


アッシュは咄嗟に瓦礫を掴み、蜘蛛の横っ面めがけて投げつけた。


荒い咆哮をあげながら、蜘蛛が無数の目を一斉にアッシュに向ける。


(よし、気を引けた…今なら!)


「早く走るんだ!」


二人の子供はハッとして顔を上げると、転びそうになりながらも必死に駆け出す。


兄が妹の手を強く握る。その手元には先日アッシュが渡したパンの包装紙がくしゃくしゃのまま握られていた。視線が一瞬だけアッシュに向き、唇を震わせている。


「お、お兄ちゃん…ありがとう…!」


その声に、アッシュはほっと胸を撫でおろす。


子供たちが路地の曲がり角へ消えるのを見届けると、彼もすぐに後を追うように逃げ出す。


(次は自分が逃げないと…)


蜘蛛の黒い塊が、カチカチと異様な音を立てながら迫ってくる。


アッシュは頭の中で必死にルートを組み立てた。


(この先の交差点を右に曲がれば、工場の煙で視界が悪い…うまく撒けるかもしれない)


全速力で走るアッシュの背後では、石畳を砕くほどの衝撃音が追いかけてきた。


はたして子供たちは無事に逃げ切れたのか。そんな不安を振り払うように、アッシュは塀を乗り越え、低い配管を飛び越える。


煙が濃くなる路地でアッシュは息を切らし、背後を振り返る。


巨体の蜘蛛が追ってくる気配は遠ざかったようだ。


辺りには途切れ途切れの悲鳴と瓦礫の崩れる音が混ざり合い、街中が混乱の渦に飲まれつつある。


(やったか…? とにかく一旦、孤児院へ戻らないと…)


そう思い、壁に手をついて荒い呼吸を整えた、そのとき――。


ドガァンッ!


大音響とともに、アッシュの左側の壁が突然粉々に砕かれた。


煉瓦の破片と粉塵が飛び散り、視界が真っ白になる。


「なっ…!?」


目を見開くアッシュの前に、節くれだった蜘蛛の脚がヌッと突き出てくる。

暗灰色の粘液が滴り落ち、飛び散ったコンクリの破片が石畳を叩いた。


(バカな...壁を...!)


完全に袋小路に追い詰められた。


無数の目が、獲物を捕らえた喜びに輝いている。人の顔が埋め込まれた体表が蠢き、歪んだ笑みを浮かべる。その歯の隙間からは、まだ温かい血が滴り落ちている。


(くそっ……どうやってこんな化物を振り切る!?)


異形の巨大な脚がガシリと地面を踏みしめる。粉々になったコンクリの破片が飛び散り、毒々しい臭いのする粘液が流れ落ちる。喉を突き上げるような異臭に息が詰まる。


アッシュは干上がった唇を噛む。動けない。

耳が警戒に震えているが、逆に頭が真っ白になってしまう。


怪物が大きく顎を開いた。不気味な低音を響かせる。


アッシュの足裏から力が抜けかけるが、意地でも膝をつくわけにはいかなかった。

こんなところで死ぬわけにはいかない。妹に生きて帰ると約束した。


だが、もう――


アッシュは覚悟を決める。

たとえ無謀でも、最後まで抗ってやる――そう覚悟を決めた、その瞬間だった。


闇の中から何かが一閃し、蜘蛛の脚を切り裂いた。

鋭い閃光とともに、ズシャッという音が響き、化け物が悲鳴を上げて身をよじる。


「っ…何だ!?」


粉塵の向こうに浮かぶ黒い影。

鋭利な鎖鎌を握る猫獣人の姿が立っていた。


「あんた、せっかく昼に忠告してあげたのになんでいるのよ」


「...ニコ?」


ニコの手には、漆黒の鎖鎌が握られている。

その鎌は赤黒く脈打つように光を放ち、まるで生きているかのように蠢いていた。

鎖の先端が微かに揺れるたび、工場の煙に照らされて血のような煌めきを放つ。

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獣人物語 成田勝平 @hyo1

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