4話 異変

朽ちた建物の屋根に、黒髪の猫獣人がいた。


「来たわね」


ニコは瞳を細める。単眼鏡の向こうに、黒い塊が蠢いていた。


工場の煙に覆われた空の下、町はずれの森から這い出してきたそれは、影そのものが生命を得たかのように揺らめいていた。近くの壁に貼られた神船教のポスターが、冷たい風に揺れる。


「神の御心は永遠なり」


文字が風に揺れ、剥がれ落ちようとしている。



夕暮れの孤児院。庭では子供たちが鬼ごっこに興じていた。


「待てー!」

「こっちだよー!」


無邪気な声が、工場の煙に染まった空に響く。転んでも、すぐに立ち上がって走り出す子供たち。その姿を、カリナ先生が優しく見守っている。


「あらあら、また服が汚れちゃったわね」

小さなリスの子の頭を撫でながら、カリナは微笑む。

「でもそれだけ楽しく遊べてるってことね」


窓辺では、アッシュとサラが寄り添うように座っていた。

「お兄ちゃん、見て」

サラは嬉しそうに庭を指さす。「みんな楽しそう」


アッシュは妹の笑顔に安堵の息を漏らす。今日も無事に配達を終え、こうして妹と過ごせる。それだけで充分だった。


その時、不意に――。


「あ...」


サラの体が強張る。右腕の鱗が、突如として不規則な明滅を始めた。

少女の顔から血の気が引いていく。


「お兄ちゃん...」

震える声が、穏やかだった空気を切り裂く。


「どうした?サラ」


サラの右腕が激しく脈打ち始める。鱗の模様が、まるで何かに反応するように蠢いていた。瞳が恐怖で見開かれ、小さな体が震え始める。


「何か...何か来る...」


サラの声に、アッシュは窓の外を見やる。

工場の煙に染まった街並み。一見、いつもと変わらない。


「サラ、何かって、一体...」


遠くの通りで誰かが悲鳴を上げた。


続いて、何かが壁にぶつかる鈍い音。血を流して倒れている獣人。


(事故...?)


アッシュが目を凝らした時、通りの向こうで何かが動いた。

工場の煙が渦を巻く中、その影がゆっくりと立ち上がる。


石畳を打つ音が、不規則な間隔で響いてくる。


カチ、カチ、カチカチ――。


「あ...」


最初に見えたのは、巨大な蜘蛛を思わせる姿。

だが、その足は人の腕ほどもある太さで、節くれだった表面には骨が逆向きに生えているかのような突起が並んでいた。それが一本、また一本と姿を現す。


工場の煙が薄れた瞬間、アッシュの喉が凍りついた。


蜘蛛の胴体には無数の目が埋め込まれていた。


不気味に輝く瞳が、まるで宝石を散りばめたように全身を覆い尽くしている。


その一つ一つが意思を持つように、獲物を追い、捉え、貪るように蠢いていた。


そして――その体表には人の顔が融け込んでいた。


苦悶に歪んだ表情、叫び声を上げる口、涙を流す目。まるで生きたまま呑み込まれ、消化されていくような、そんな無数の表情が蠕動していく。


この化け物は、もはや自然界の蜘蛛などではなかった。


異形の蜘蛛が脚を振り下ろすと、獣人の体が真っ二つに裂ける。


まだ温かい内臓が石畳に零れ落ち、巨大な口が一気に肉を貪り食う。


歯の隙間からは赤黒い血が噴き出し、その飛沫が周囲の壁を染め上げていく。


「な...何なんだ、あれ...」


アッシュの脳が現実を理解しようと必死に働く。

次の瞬間、蜘蛛の無数の目が、孤児院の方を向いた。


(まずい、見られた...!)


庭では子供たちがまだ遊んでいる。その無邪気な声が、今は耳に棘のように突き刺さる。


「みんな、逃げろ!」


アッシュは必死で声を絞り出す。


「今すぐここから離れるんだ!」


「どうしたの?アッシュ君」


カリナ先生が不思議そうに顔を上げる。その瞬間、彼女も異変に気付いた。


「ああ...!」


「先生、どうしたの...」


小さなリスの女の子が、カリナの服の裾を握りしめる。


「大丈夫よ。みんな、落ち着いて...」


カリナの声は震えているのに、それでも冷静さを保とうとしている。


「先生」アッシュが小声で言う。「この近くに配達用の倉庫があります。普段から使ってる場所だから...」 その目は、いつもの配達での経験を頼りに、最適な逃げ道を探っていた。 「裏口から入れば、隠れるスペースがあるはずです」


「でも……外はあの化け物が……」


カリナは子供たちを庇うように腕を広げる。幼い子狐がすがりついて離れない。


「ここにいても危険です」


アッシュは毅然とした口調で言う。


「今なら煙で視界が悪い分、見つかりにくい。みんな、足音を立てないように、しゃがんで走って」


子供たちは泣きそうな顔で必死に頷く。アッシュが玄関の扉をそっと開けると、外から漂う腐臭と煙が入り込んだ。遠くの通りでは何かが倒れる音が響き、すぐに獣人の絶叫が重なる。


「早く……走って!」


アッシュは戸口から飛び出す。子供たちもその後を震えながら追う。サラは右腕をかばいながらついていくが、痛みのせいか足取りが少し重い。カリナは年少の子狐を抱え、他の子の手も掴んで必死に走る。


「わああん!」


突然、子狐が大きく泣き出した。その声に、どこか遠くでコンクリを砕くような音がピタリと止まる。


「シッ……!」


カリナが急いで口元を押さえる。だが泣き声はもう響いてしまった。煙の向こう、町の奥深くから、再び石畳を打つ不規則な足音が迫ってくるのがわかる。


「こっちです!」


アッシュは大通りを避け、細い路地へと仲間を誘導する。工場の排煙があたりを濃い灰色に染めていた。ふいに横の建物がガラスを割られたのか、甲高い音が響く。悲鳴と怒号が交じり合い、獣人たちが右往左往している姿が遠目に見える。どの建物も扉や窓を固く閉ざし、外で起こる惨劇をただ震えながら凌いでいるようだった。


「アッシュ君、この道の先には……?」


カリナが声を詰まらせながら聞く。狭い路地はレンガ造りの塀が崩れかけていて、子供たちの足元に破片が散らばっている。足を挟んだら危ないし、下手に大きな音を立てれば蜘蛛が気づいてしまう。


「もう少し先に……倉庫の裏口がある!いつもなら荷物を受け取る場所なんだ!」


アッシュは周囲を窺いながら、子供たちを誘導する。頭上からはドロリとした水滴が落ちてきた。おそらく、どこかの腐食した配管から流れ出た液体だ。鼻を衝く異臭に、一人の子供が嘔吐しそうになる。


「がんばれ……あとちょっとだから……」


サラがその子の背中をさすりながら励ます。サラ自身も顔が青ざめていたが、どうにか踏みとどまっている。


再び、石畳を打つ足音が大きく響き渡った。


「速く……!」


アッシュは焦りを押し殺して走る。子供たちのすすり泣きが路地にこだまする。はるか後方から金属を砕く音が聞こえ、激しい咆哮がそれに続く。街のあちこちで混乱が広がっているようだ。


ようやく崩れかけた古い倉庫が見えた。扉は半分朽ちていて、裏口には錆びた鉄板が打ちつけてある。アッシュは大人の腰ほどの隙間を見つけると、子供たちを次々と押し込むように導く。


「ここ入って!」


アッシュが鉄板を持ち上げ、子供たちがしゃがみながら滑り込む。最後にサラ、そしてカリナが子狐を抱きかかえたまま身を屈めて中へと入った。


倉庫の奥は薄暗く、積み上げられた木箱の陰にかろうじて隠れられそうなスペースがある。アッシュは真っ先に周囲を確かめると、子供たちを奥へ急かす。


「みんな、声を出さないように……。ここなら煙で外からは見えづらい」


しゃがみ込んだ子供たちが小さく肩を震わせる中、カリナも荒い息を整えながら、子狐をそっと落ち着かせる。


そのとき、倉庫の外でまた何かが倒れる音が聞こえた。続いて、ガシャッと鉄骨が折れるような響き。


アッシュが崩れかけの壁の隙間から外を覗き見ると、かすかに見える街の通りを巨大な蜘蛛の脚が横切っていく。


窓から覗く蜘蛛の姿に、アッシュは息を呑む。


無数の目と人の顔が埋め込まれた おぞましい姿。 体表からは粘つく体液が滴り落ち、その一滴が石畳に落ちる度に、かすかな腐食音を立てる。


(通り過ぎろ……)


アッシュは唇を噛む。息をするだけでもこちらの存在を知らせてしまいそうで、胸の奥が軋むような緊張感が走る。子供たちは互いに手をつなぎ、泣き声をこらえるように口を結んでいた。


足音が、その場でしばらく停止したように聞こえる。誰もが喉の奥で固唾を飲む。湿った空気がやけに重く、鼓動がやかましいほどに響いた。


(頼む、見つからないでくれ……!)


心の中で祈るように願うと、やがて足音は倉庫の前を通り過ぎるように遠ざかっていった。


息を潜めていた子供たちの体から、少しずつ力が抜けていく。


「よかった...」誰かが安堵の吐息を漏らした時、アッシュの耳がピクリと動いた。


倉庫の外、通りの向こうから、かすかな悲鳴が聞こえた。


――お兄ちゃん…いやだよ…

――くるな…化け物…!


その声に、アッシュの体が強張る。聞き覚えのある声。


先日パンを分けた兄妹だ。


「先生、みんなをここに」アッシュは倉庫の隅を指さす。「僕が...」


「でも、アッシュ君...」


木箱の陰からサラが震える声で呼びかける。「お兄ちゃん、行かないで...」


「すぐ戻ってくる」アッシュは強がりの笑顔を見せる。「約束だ」


アッシュは一人、倉庫を飛び出した。

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