3話 猫の忠告

賭場は、トランキアの闇の中でも最も深い場所にあった。


朽ちかけた高層ビルの地下。錆びた非常階段を降りていくと、空気がより重く、よどんでいく。壁には「我らが祖、方舟より来たれり」のポスターが貼られているが、湿気で半分剥がれ落ち、まるで神の言葉すら届かない場所のようだった。


狐の配達依頼人の言葉が頭をよぎる。「気をつけて。ここ最近、賭場で配達員が消えるんです。配達したきり、帰ってこない」


アッシュは小さく息を吐いた。この仕事を始めてから何度も危険な目に遭ってきた。でも今回は、空気が違う。まるで地下に潜るほど、酸素が薄くなっていくような錯覚を覚えた。


階段を降り切ると、地下賭場の入り口。無言で立つ用心棒の耳が、ちぎれているのが目に入る。おそらく喧嘩の傷跡だ。その横顔には、これまでアッシュが見てきた用心棒たちとは違う、ある種の狂気めいたものが浮かんでいた。


「おや、また配達か」


用心棒は薄暗い通路を示す。アッシュは背筋を伸ばして前を向いたまま、足を進める。この通路は生きて帰れなかった配達員の噂で有名だった。誰かが血を流して這いずっていったような跡が、壁に残っている。


賭場の中は、煙草の煙が渦を巻いていた。獣人たちの怒号、賭け金を数える音、グラスが砕ける音。そして時折聞こえる悲鳴めいた声。アッシュは耳をピクリと動かす。心臓の鼓動が早くなる。できるだけ早く配達を済ませて立ち去りたかった。


ふと目に入ったのは、賭場の隅で行われている拷問だった。借金を踏み倒した客を、用心棒たちが取り囲んでいる。「次は指を折るぜ」という声と、それに続く悲鳴。誰も振り向かない。それが、この場所の日常なのだ。


「受け取り確認のサインを」


巨大なクマの用心棒が紙を差し出す。その腕には人間の顔の入れ墨が彫られていた。壁際では誰かが土下座をしているのが見えた。借金が返せなかったのだろう。賭場の用心棒が容赦なく蹴りを入れる。


「珍しく緊張してんじゃねえか、クソウサギ」クマが嘲笑う。「手が震えてるぜ」


「いえ、ただの寒気です」


震えながらサインを済ませたその時、賭場の奥から悲鳴が響く。振り向くと、黒髪の猫の獣人が、何人かの用心棒に追われていた。


「待ちやがれ!このイカサマ野郎!」


猫は軽やかに用心棒の間を抜け、テーブルを飛び越え、グラスを蹴り倒しながら逃げていく。その動きには明らかな慣れがあった。単なる素人ではない。客たちは悲鳴を上げて逃げ惑う。後ろからは「金を返せ!」という怒号が響く。


アッシュの横を駆け抜けた瞬間、猫と目が合った。琥珀色の瞳が、意味ありげに細められる。その腕には客から巻き上げたと思しき札束が握られていた。見慣れた手つきで数える指先。イカサマ賭博の玄人という雰囲気だった。


「ちょっとあんた、手伝ってよ!」


気づけば猫の獣人が腕を引っ張っていた。次の瞬間、アッシュは彼女とともに用心棒たちから逃げていた。


「なんで僕が!」

「さあ?」猫は札束を数えながら走る。「あんたの顔が気に入ったから?」


アッシュは「どんな理由だ」と突っ込みたい気持ちを抑えながら走る。


追っ手を振り切りながら、建物の非常階段を駆け上がる。アッシュの荷物の受け渡しも済んでいたので、いつもの配達パターンで逃げ切れそうだった。猫は追手の動きを読んでいるかのように、絶妙なタイミングで方向を変える。


「はー、助かった!あんた凄いのね」猫が息を切らしながら言う。「どうやってそんな動き覚えたの?」

「いや、重い荷物運びながら警備を避けて配達してたら自然と...」

「へぇ、面白い経歴じゃない」


建物の屋上で一息つく二人。猫は平然と札束を束ねていた。その手際の良さに、これが初めての犯行でないことは明らかだった。


「...どうやらイカサマで客の金を巻き上げてたみたいですね」

「あら、バレた?」猫は涼しい顔で言う。「でも、あいつらだって最初から客を騙すつもりだったのよ。私は詐欺師から金を巻き上げただけ」


アッシュは苦笑する。「間違えて悪人を助けちゃったな...」

「あんた意外と辛辣ね」猫はくすくすと笑った。その笑顔には不思議な魅力があった。危険な香りを漂わせながらも、どこか人を惹きつける雰囲気を持っている。


「あ、自己紹介が遅れたわ。私はニコ。あんたは?」

「アッシュです」

「配達の子ね」ニコが意味ありげに言う。「随分と危険な仕事をしてるみたいだけど」


アッシュは警戒心を強める。この猫は、自分の仕事内容を知っているようだった。しかも、普通の詐欺師とは違う。その動き、観察力、そして情報の質。裏社会で生きる者特有の空気を感じる。


「お礼に情報をあげるわ」ニコは真面目な表情になる。「今日は街の西側には近づかないほうがいいわよ」


「西側?どうして?」


「ただのアドバイスよ」ニコは軽く肩をすくめる。「私なりの恩返し」


そう言い残すと、ニコは路地の影に消えていった。その姿は、まるで街の闇に溶けていくようだった。賭場で見せた派手な逃走とは打って変わって、その消え方は妙に静かで、プロフェッショナルな印象すら感じさせた。


アッシュは思わず西側を見つめる。孤児院のある方角だ。ニコの警告が頭をよぎる。しかし、妹のサラがいる場所から、彼が離れることは決してできない。


背中の荷物が、急に重く感じられた。

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