1章2話 竜皮病
古い床を、小さな足音が駆けていく。朽ちかけた街の中で、孤児院だけは不思議と温かな空気に包まれていた。廊下の窓辺には手作りのカーテン、壁には子供たちの描いた絵が貼られている。床板は年季が入っているが、毎日の掃除で優しい木の香りを漂わせていた。
「はい、お着替えできた子から並んでね」
カリナ先生の声が、まるで小鳥のさえずりのように明るく響く。リス獣人の先生の両腕には、長年の洗濯作業の跡が茶色く染みついている。でも、その手は子供たちの頭を撫でるときだけは、母のような温もりを帯びるのだった。
窓の外では工場の煙が空を覆い、まるで灰色の布を引いたように光を遮っていた。その下では、錆びついた配管が蜘蛛の巣のように街を這っている。それでも、孤児院の中庭では可愛らしい野花が健気に咲き、小さな菜園では子供たちが育てた野菜が顔を出していた。
二階の一室では、サラが小さな鉢植えに水をやっていた。右腕の鱗模様が時折痛むのを我慢しながら、それでも大切そうに葉を撫でる。窓辺に並んだ植物たちは、彼女の愛情を受けて日に日に成長している。
「サラちゃん、見て」カリナ先生が部屋に入ってくる。「新しい芽が出たわよ」
「本当だ!」サラの目が輝く。「お兄ちゃんが帰ってきたら、見せてあげたいな」
右腕の鱗が痛むのを我慢しながら、サラは新芽に触れる。カリナ先生は、そっと背中に手を添えた。言葉はなくとも、その温もりが心に染みる。
廊下では小さな物音。こっそり覗き込む子供たちの姿。
「ねぇ」小さな子狐が、リスの子に耳打ちする。「今日はサラお姉ちゃんの調子が悪いみたい」
「じゃあ、お庭の掃除、私たちでやろう!」
「うん!びっくりさせよう!」
子供たちは内緒で、いつもサラがやっている庭掃除を始める。小さな手で落ち葉を集め、よちよちと水撒きをする。
窓辺から、サラがその様子を見守っている。小さな子たちの一生懸命な姿に、自然と微笑みがこぼれる。
「みんな、サラちゃんのこと大好きなのよ」カリナ先生が柔らかく言う。
サラは黙ってうなずく。目元が潤んでいた。
「先生、アッシュお兄ちゃんは?」
歯の抜けた子狐が、庭仕事の手を止めて尋ねる。
「もうすぐ帰ってくるわ」
カリナは笑顔で答えたが、その瞳の奥には心配の色が浮かんでいた。外では時々、配達員が消えたという噂を耳にする。でも、この孤児院だけは違う。ここは子供たちの笑顔が花開く、小さな安らぎの場所なのだから。
「た...ただいま」
玄関で足音が響く。肩で息をするアッシュの姿。シャツの裾は引き裂かれ、血の滲んだ擦り傷が腕に残っている。でも、孤児院の扉を開けた瞬間、その表情が柔らかく溶けていく。古い廊下から漂う木の香り、台所から流れてくる温かな匂い、子供たちの笑い声。この場所は、彼にとっても安らぎの港だった。
「お兄ちゃん!」
二階の窓から、銀色の髪をした少女が顔を覗かせる。アッシュの妹のサラ。12歳。その小さな体が窓枠に収まりきらないほど大きく手を振っていた。その仕草には、病気を忘れさせるような無邪気さがあった。
「サラ、窓から身を乗り出すなって」
兄の声には、愛情と焦りが混じっている。サラの右腕が、月明かりに照らされてうっすらと輝いた。竜皮病。世界でもっとも忌み嫌われる病の一つ。サラの腕には、鱗のような模様が浮かび上がっていた。
「痛むの?」
「ううん、大丈夫」
サラは微笑もうとしたが、その瞬間、鱗のような模様が蠢いた。小さな悲鳴を抑えるように、サラは唇を噛む。
「モーリス先生のところに行こう」
街医者のモーリスの医院は、孤児院から歩いて15分の場所にあった。道すがら、アッシュは妹の肩に手を回す。サラの体が、少し震えていた。
アッシュは妹の歩調に合わせて歩く。サラは時折足を止める。息が上がっているのが分かる。数日前から、サラは右腕を動かすのも辛そうになっていた。まるで、腕の中で何かが成長しているみたいに。
「お兄ちゃん」サラが小さな声で呟く。「私のせいで、大変な仕事を...」
「何言ってんだよ」アッシュは強がりの笑顔を作る。「楽しくてやってるんだから」
嘘だった。でも、妹の前では強くいなければ。アッシュは自分にそう言い聞かせる。
医院は古びた二階建ての建物で、入り口には「往診お断り」の札が下がっていた。扉を開けると、薬草の甘い香りが鼻をくすぐる。
待合室には他の竜皮病の患者もいた。皆、体の異なる部分が鱗に覆われている。中には全身が鱗に覆われ、もはや獣人の姿を留めていない者もいた。サラは思わず兄の袖を握る。
「やあ、アッシュ君」
医院で迎えてくれた狼の獣人のモーリスは、杖をつきながらゆっくりと動く。王都崩壊の時の怪我で、彼の体は不自由になっていた。それでも、患者を見る瞳だけは、決して曇ることがない。
「サラちゃん、見せてごらん」
診察台に座ったサラの腕を、モーリスは丁寧に診ていく。鱗のような模様は、一週間前より確実に広がっていた。サラの呼吸が、僅かに荒くなる。
「症状の進行は、他の患者さんに比べるとゆっくりだね」
「それは...良い兆候なんでしょうか」
「...」
モーリスは一瞬、目を伏せる。その仕草に込められた意味を、アッシュは理解していた。竜皮病は発症から1年以内に、9割以上が命を落とす。そして、その治療法は誰も知らない。
「ただ、君たち兄妹の絆が、病の進行を遅らせているのかもしれないね」
モーリスは微笑む。しかし、その表情の裏には、多くの患者を看取ってきた医師の無力感が滲んでいた。
「君のご両親にも、王都にいた頃は随分とお世話になったよ」
アッシュは10年前のことを思い出す。6歳の時、炎に包まれた街から逃げ出した夜。両親に背中を押され、妹の手を引いて走った。あの時の空も、今日のように灰色だったような気がする。
「立派な方だった」
モーリスの言葉に、アッシュは何も答えられない。記憶は曖昧で、ただ妹の小さな手を引いて逃げた夜の光景だけが、はっきりと残っている。
「最近、他の街の様子を聞いたかい?」
モーリスは窓の外を見つめながら言う。
「異形の化物が現れて街が滅ぼされたという噂だ」
アッシュは耳をピクリと動かす。
「化物...ですか?」
「目撃証言は様々で、信憑性は定かではないがね。しかし...」
モーリスの表情が暗く沈む。
「10年前の王都壊滅を思い出す住民も多いようだよ」
アッシュは黙り込む。
その時、診察室のドアが開く。
白装束の神船教神官が現れた。その姿は清潔そのものだったが、目には冷たい光が宿っていた。
「モーリス先生、お布施の時間です」
「すみません、今は患者の診察中で...」
「そうですか。では、診療停止の手続きを...」
「待ってください」
アッシュが封筒を取り出す。今日の配達の報酬だ。自分の分なんて、ほとんど残らない。でも、それでもいい。サラが治療を受けられれば。そう思いながら、封筒を差し出す。
神官は満足げに頷き、立ち去る。モーリスは申し訳なさそうな表情を浮かべる。その目には深い疲労の色が浮かんでいた。
その時、医院の入り口に人影が現れる。診察室の薄暗がりに、狐の獣人の姿が浮かび上がった。
「アッシュさん」黒い手袋の手が、汚れた封筒を差し出す。「新しい依頼です」
「賭場からです。...ご存知ですよね?あの賭場」
低い声が、意味ありげに続く。トランキアで最も危険な賭場。その名前を口にする者はいない。その場所からの依頼は、いつも命懸けだった。
アッシュは一瞬、サラの方を見る。妹は心配そうな表情を浮かべている。鱗に覆われた腕を、無意識に抱きしめるように握っている。でも、薬代は必要だ。
「...わかりました」
アッシュの声が、静かに診察室に響く。
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