第23話
七
過澄聖は雨音に耳を傾けながら、ぽつり呟いた。まだ梅雨の時期だった。
「ねえ、櫻くん」
彼女の声音は落ち着いていて、雨音にかき消されそうなほど儚いもののように感じられた。僕は彼女の方を見た。彼女はいつものように屋上に続く扉に背中を預けて、僕を見ていた。少なくともこのときは彼女は僕に対してへんな感情を持っていなかった。僕も彼女も、ただ意味なく集まっていた時期だった。
「なに、急に」
僕が聞くと、彼女は笑って誤魔化すみたいに「や、そんな急用じゃないんだけどね」と早口になって息を吸った。雨音みたいな声だった。
「櫻くんはさ、優しいよね」
「なんだよ急に、きも」
僕が恥ずかしいのを隠すために言った言葉を彼女は笑い飛ばして、次は真剣な顔になった。
「だって、そうじゃん。私とこうやって関わってくれるんだし」
それは僕が彼女の事をろくに理解していなかったからだ。きっと理解していたら、関わっていなかった。彼女を理解するには何年もかかったけれど。今でもよくわからないことはあるけれど。
それに、僕は優しくなんかないだろう。優しさというものは自覚的でなければならない。自覚的でない客観的な優しさはただの自己犠牲と同じだ。
だったら、僕は自己犠牲を行っただけなのかもしれない。僕自身の人生を使って、 彼女の間違いを正す……いや結果論だが彼女を正解にするということを目指していたのかもしれない。
「ただの自己満だよ。僕は自分の信条を守ってるだけ」
なにも守れていないものだったけれど。
「信条?」
「僕は、完璧な人生を歩みたいんだ。他人とは違う、完璧な人生。特別な人生。アニメや小説のなかにいる主人公みたいな人間。僕はそれになりたいんだ」
言おうと思えば、いくらでも口から言葉が滑った。彼女が正確に言葉を理解してくれたのかわからなかったけれど、言えただけ良かった。
「そっか。特別な人間か」
ねえ、櫻くん。私は、君にとって特別になりうる人間なの?
彼女はそんな事を聞いた。僕はそれにどう答えようと思ったんだっけ。もう、覚えていない。けれど、きっと肯定しただろう。否定したとしても、僕にメリットがないのだから。
ああ、多分、それが僕の間違いだったんだろう。僕の人生唯一の間違い。彼女を特別と思ってしまったこと。
それならば、僕はどうすれば良いんだろうか。
ぼんやりと、天井を見上げている。大学に入ってから毎日見ている天井だ。日は数時間前に落ちた。御木本からのメールは数分前に止まった。バイト先から連絡は一件だけ。見限られた。
手元にはビールが一つ。手元に雨粒があった。指先は冷たい。花はなぜかラベンダーの香りを求めていた。脳内ではなぜか学校の階段。その踊り場が映されている。まるで鏡に投影されているみたいな儚さだ。
喉で炭酸が弾ける。舌の上で苦みが溶ける。手のひらは過澄聖という人間の体温を覚えていた。あの赤みがかった体温をしっかり覚えていた。それを確かめるみたいに何度か開閉させて、ぬくんだ掌をビールで冷やす。彼女は消えない。鼻先はなぜかペトリコールで満たされている。雨は降っていないはずなのに、なぜか地面は濡れ始めた。
息が少し揺れた。手のひらは彼女を求めていた。鼻先は宮枡さんを求めていた。
出会わなければよかったなんて想いたくない。
僕は彼女たちになんと言えば良かったのだろうか。彼女の間違いを正すため、なんて他人を縦にした言葉じゃなく、僕は僕の言葉を伝えるべきだったんじゃないだろか。
ただ、思考は回るだけだった。ただ、彼女は僕を乱しただけだった。彼女は独立していた。僕の中で主張していた。
今更、特別だと言ったところで遅いだろうか。今更、僕だけ救われようとしたことを謝ったところで遅いだろうか。
今更悲しがったってだめだろうか。
今更、自覚したところで遅いだろうか。
手のひらのなかで缶が潰れた。手のひらで彼女が散った。それが答えなような気がした。
〈了〉
アンダーグラウンド 宵町いつか @itsuka6012
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