最終話

 校舎の屋上で二手にわかれた体操服姿の生徒たちによる、激しいボールの応酬。いったいなんでみんなは、あんなに上手にボールをとらえることができるんだろう。わたしは、わたしを狙って投げられてくるボールから逃げ続けることしかできない。

 にやにやしながらわたしの正面にたった子の放ったボールをかわし、ほっとしたのも束の間、背後からきたボールが勢いよくわたしの背中にぶつかり、よろけたわたしは正面から倒れ、顔面をコンクリートに叩きつけた。


「ここ、先生がいいっていうまで、押さえておきなさい。じきに血は止まるから、心配しなくていいわよ」

 保健室の先生の手当てを受けたあと、わたしは額にガーゼを押しつけながら、傷の痛みに耐えていた。

 保健室のドアがきしみをたてて開き、算数の担当の小野瀬先生が入ってきた。このおばあさん先生はずっとずっと昔からこの小学校に勤めていて、子どもの頃のお父さんはとても可愛がられていたらしい。

 でも、わたしは、この先生に嫌われている。

 小野瀬先生は、保健室の入り口にたったまま、

「男らしくない子だね。たかがドッジボールで怪我するなんて」

とわたしをにらみつけた。

「勉強も運動も、お父さんとは似ても似つかないね」

 わたしは、小野瀬先生の姿を見たくなくて、保健室の窓に顔を向けた。校庭で、別の学年の生徒たちが、ソフトボールをしているのが見える。

「ほんとにこの子は素直じゃない」

 わたしのうしろで、小野瀬先生が吐き捨てるようにいう。保健室の先生が、困ったような表情で、わたしと小野瀬先生をみているのがわかる。


 髪を短く切られても、どんなに勉強しようとも、けっきょくわたしは、男らしくないと言われてしまう。

「お母さん。ぼく、ピアノやめるよ」

 わたしが受験させられる予定の中学校は、ぜんぶ男子校だ。いまのままの自分では、これまでよりもさらにつらい毎日になるのは目にみえている。ピアノを弾く時間があるなら、野球やサッカーのような、男らしいスポーツの練習をしよう。たぶん、練習すれば、ちょっとはうまくなるはずだ。

 お母さんは、黙ってわたしの顔をみていたが、急に、

「りきはいつもそうね。私を傷つけることしかしないのね!」

と泣き叫び始めた。

 なんでお母さんが泣いて怒っているのかちっともわからず、戸惑っていると、お母さんはピアノ教室に電話をかけ、来週でわたしを通わせることを終わりにする、と宣言した。

 電話をお母さんがかけているうちに、部屋に戻ってしまおう、と台所のドアを開け、廊下に出る。自分の部屋の引き戸に手をかけたとき、

「あなたなんかに、何がわかるのよ!」

とお母さんが叫ぶのが聞こえた。


「りきくんのお母さんに、こないだ怒られちゃった。先生やる資格ないって言われちゃったわ」

と言って、高橋先生は、ふふふ、と笑った。

「りきくん。ほんとうにピアノやめちゃうの?」

「⋯⋯うん」

「そう。先生、りきくんの弾くピアノ好きだったんだけどな」

 わたしは高橋先生の顔をみれなかった。先生が悪いわけじゃない。わたしが悪いんだ。わたしのせいでお母さんを怒らせ、高橋先生を傷つけてしまった。

「ごめんなさい」

「どうして謝るの? りきくん、なにも悪いことしてないじゃない」

 高橋先生はじっとわたしの顔をみつめ、

「ねえ、りきくん」

と、わたしの方に身をのりだし、鍵盤の上のわたしの手にそっとふれながら、

「りきくん。りきくんは、りきくんのままでいいのよ」

とささやくように言った。

 受付に戻ると、いつも明るく声をかけてくれるお姉さんが、

「りきくん、もう来ないの? やめちゃうの?」

と、首を傾げながらきいてきた。

 無言でうなずき、エレベーターに乗り込む。

 やめちゃうの? やめちゃうの? やめちゃうの?


 午後六時過ぎ。いつもの橋から見る川は、夕焼けに染まっていた。

 夢のなかでは、わたしは宙に舞う譜面を追いかけているが、自分で譜面を川に流そうとすると、高くそびえる緑色の金網が邪魔をする。ガードレールの下から、一枚ずつ川へと落とすことにした。

 最初に『スーパーカー』、次に『星のまたたき』。最後に『蟹のカノン』。

 あっけなく三枚の譜面は川に落ち、向こうの道路の下に口を開けた真っ暗な空間のほうへと流れていく。さようなら、ピアノ。さようなら、わたし。

 わたしのうしろから、歌声が聞こえてきた。よく知っている曲。『蟹のカノン』の下段の旋律だ。

 道路の下へと吸い込まれそうになっていた譜面が止まり、こちらへと戻ってくる。わたしの立っている橋の下へと流れていく。

 振り返って、橋の反対側へとわたしは急ぐ。緑色の金網に顔を押し付ける。橋の下から出てきたわたしの譜面は、さらに川の上流へと進んでいく。

 なんで川が逆に流れているんだろう、と思ったわたしは、金網の向こう側、上流にかかる橋の上に、淡いむらさきいろのドレスをきた、背の高い、髪の長い女性が立っているのに気づく。女性は、澄んだ声で『蟹のカノン』の旋律を歌いつづけている。

 ああ、わかった。

 あれは、わたしだ。かなでだ。

 わたしは、かなでが歌うのに合わせて、『蟹のカノン』の上段の旋律を歌い始める。緑色の金網の向こう、上流の橋の上で、かなでが、わたしに微笑みかけているのがみえる。

 旋律と旋律が交差するなかを、川面から三枚の譜面が浮き上がり、夕焼け空を舞い始める。むこうのわたしとこっちのわたしのあいだを、かなでとかなでのあいだを、譜面たちはくるくると輪を描くように踊りつづける。

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誰も呼ばないわたしの名前 千葉やよい @yayoichiba

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