第3話

 蒲田の、大学の校舎で模試を受けた日曜日。わたしは京浜東北線で大森駅へとまっしぐらに戻り、早足で家へ帰る。ピアノの練習がしっかりできる時間は、日曜の午後ぐらいしかない。

 『星のまたたき』は、譜面のあちこちに書き込まれた高橋先生のアドバイスを守りながらちゃんと演奏できるようになると、最初に先生が弾いてみせてくれたときのような、キラキラした感じをわたしも出せるようになった。そして『蟹のカノン』。ゆっくりであれば、わたしでも弾ける。自分の手で弾いてみると、ますます曲の面白さにひきこまれる。『スーパーカー』は、いくら弾いても好きになれない。でも、発表会で演奏しても恥ずかしくないくらいには練習した。

 そう。もうすぐ、年に一度の発表会なのだ。いやだけど。

 だって、みんなはきれいなドレスを着て、花飾りやリボンをつけておめかししているのに、わたしだけ学校の制服なのだ。白いシャツに、黒い半ズボンと革靴。去年の発表会の写真をみるたび、自分がみじめになる。


 夕方、お父さんが帰ってきた。ゴルフの練習をしてきたらしく、ポロシャツに、丈の短いズボンを履いている。ズボンから突き出た両足に、ふさふさした黒い毛が伸びている。

 お父さんは、ピアノを弾いているわたしをじっと見ていたが、

「りき。今から床屋に行くぞ」

と言い出した。

 わたしが無言でピアノを弾き続けていると、お父さんは、譜面を閉じ、わたしの両手をつかんで立たせ、

「りき。今から床屋に行くぞ」

と、もう一度言った。


 大森駅の真ん前にあるその床屋には、これまでも連れていかれたことがある。毎朝お父さんからただよってくる髭剃りクリームの香りを何十倍にもしたようなにおいとタバコの煙が充満する店内に入ると、

「こいつを、男らしい髪型にしてください」

 お父さんは、床屋のお兄さんにそう言って、わたしの後ろに腕組みをして立った。

 お兄さんがわたしに前掛けをつける。かさかさした前掛けの感触がわたしの首全体をおそってくる。

「気持ち悪い」

とわたしが言うと、お兄さんは、さらに前掛けのひもを強く縛ってきた。

「痛い! 気持ち悪い! 痛い!」

「うるせえなあ! この坊主は。お父さん、刈り上げていいんですね?」

 いやだ。刈り上げなんて、絶対にいやだ。

「ええ。男らしくやっちゃってください。りきっ! 静かにしろ!」

「じっとしてろよ、ちくしょう!」

とお兄さんはわたしの頭頂部をおさえつけると、バリカンを首元にあて、バリバリと刈り上げていく。泣き叫ぶわたしの前の大きな鏡のなかで、お父さんが満足気にうなずくのが見える。


 月曜の朝、目覚めたわたしは、布団をたたむとき、まくらに細かい毛が無数についているのに気づく。

 襖を隔てた部屋で寝ているお母さんと妹を起こさないように忍び足で台所へ向かい、インスタントラーメンを茹でて、無言ですすりこむ。台所のドアを開け、髭剃りクリームのにおいとともにお父さんが入ってくる。

「おう、りき。おはよう」

「⋯⋯おはよう」

 目を合わせずボソボソと返事をしたわたしを、お父さんは見つめてくる。

「男らしい髪型になったな。かっこいいぞ。りき。女の子にモテるぞ」

 からっぽの気持ちになっているわたしにまるでかまわず、お父さんは上機嫌で家をでていく。わたしは、夜中じゅう流した涙でぐちゃぐちゃになった顔を同級生に見られないよう、顔を洗う。鏡に映る自分の顔をみたくなくて、顔を背ける。


 制服に着替え、家をでて、橋をわたり、信用組合の建物の前のバス停で待つ。坂道を、東急バスがくだってくる。わたしを乗せた東急バスは、馬込銀座の交差点を右に曲がり、環七をどんどん走り、学校のあるバス停まであっという間に着いてしまう。なんでこんな日に限って渋滞がないんだろう。

 できるだけ、普段通りに、普段通りに。ヒマラヤスギが右側にそびえたつ校門をくぐり、校庭を横切り、下駄箱をあけ、すのこのうえで上履きに履き替えていると、同級生の女子が、

「おはよー」

と声をかけてきた。

「おはよう」

と返事をしたわたしの顔を、じろじろみたあと、

「金太郎さんみたーい。ギャハハ!」

と笑いながら、その子は廊下を駆けていく。

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