第2話
その日は、いつもより一本早いバスに乗ったので、大森駅前に着いたのは午後四時半にもならない頃だった。わたしは、駅ビルRaRaの三階にある本屋さんへ向かう。
子ども向けの本が並んでいるところを眺めたあと、店を横切って、雑誌売り場にいく。こないだはじまったばかりのつくば万博が取り上げられている雑誌を立ち読みしていると、変な絵が目についた。
それはカニの絵だった。赤いカニたちが三列に並んでいる。左の列と右の列のカニたちは下を向き、まんなかの列のカニたちは上を向いている。カニって前にも歩けるんだっけ? と思いながら見ているうちに、赤いカニたちの背景のようにみえるのが、実は青いカニたちであることに気づく。青いカニたちも、互い違いに上へ下へと移動中らしい。
その絵の隣のページには、楽譜がのっていた。変な楽譜だ。左側に書かれているのは普通のト音記号とフラットだけれど、右側にもト音記号とフラットが書かれ、しかもそれらが鏡にうつったみたいにひっくり返っている。
レジの後ろの柱に取り付けられている時計が午後五時をさしそうになっていることに気がついて、あわててピアノ教室へと駆け込んだ。
「こんにちは、りきくん。ちゃんと練習してきた?」
塾のプリントで忙しくて、ほとんど練習なんかできてない。わたしはあいまいに頷いて、つっかえつっかえの演奏を高橋先生の前でする。
気まずい静けさが、狭い練習室を支配する。先生は、わたしがろくに練習してないことなんかお見通しなんだろう。わたしは、ごまかすように、
「先生、『蟹のカノン』って知ってる?」
ときいてみる。
俯いていた高橋先生は、
「えっ?」
と顔をあげて、わたしの顔をまじまじとみる。唐突すぎたな、とわたしは思い、教室に来る前に本屋さんに寄ったこと、つくば万博のことが書かれている雑誌を立ち読みしていたら、関係ないカニたちの絵と、その横の変な楽譜が目についたことを話した。
「ふーん。りきくん、科学に関心があるのね。でもよかった。小学生のりきくんに先をこされちゃったか、と思っちゃった」
と言ったあと、先生は、うふふ、とわらった。
なに言ってるのかな先生。とまどっているわたしに、最近発売されて、新聞などでとても評判になっている本のなかにも、カニたちの絵と、『蟹のカノン』の楽譜がのっているのだ、と先生は教えてくれた。その本は『ゲーデル, エッシャー, バッハ』という題名の本で、
「とにかく分厚くて、重いの。そして難しいの。でもパズルみたいで面白いのよ」
先生の通っている音大の同級生たちも、こぞって買って、挑戦中なのだという。
「難しいところは、読んでて寝ちゃうんだけどね」
と、ぺろっと舌を出してみせたあと、
「興味があるなら、こんど譜面を持ってきてあげるわ」
と先生は言ってくれた。
黒いピシッとした服を着たおじさんが、鍵盤の上に軽く手をそえて、こちらを見て笑顔をつくっている。写真の下には、そのおじさんの名前が書いてある。
野川奏。のがわかなで。
このおじさんの姿をみるのは初めてじゃない。日曜の朝の音楽番組で、オーケストラをバックに弾いているのを、パンをかじりながらみたことがある。
「あなたに、こういう名前をつけたかったんだけどねえ」
とお母さんは言った。
つけてほしかった。おじさんの名前ではあるけれども、「りき」なんかよりよっぽどいい。かなでちゃん。かなでさん。女の子の名前としても通用するだろう。
その日から、かなで、という名前が、わたしの頭にこびりついて離れなくなった。学校で、塾で、ピアノ教室で、家族から「りき」と呼ばれるたびに、わたしのなかで「かなで」が大きくなっていった。
わたしは、りきじゃない。わたしは、かなで。
「りきくん、五時だよ」
受付のお姉さんに言われて、わたしは我にかえる。受付の横の、いろいろな音楽雑誌の最新号が並んでいるところに今まで読んでいた雑誌を返して、高橋先生の部屋に入る。
ようやくつっかえずに弾けるようになった『星のまたたき』と、全然いい曲と思えないので練習もろくにしていない『スーパーカー』を先生の前で演奏する。
「りきくん、弾く曲によって全然表情が違うね」
と言ったあと、
「『蟹のカノン』の譜面を持ってきたわよ。約束したでしょ」
と先生は封筒から取り出したそれを、譜面台に置いてくれた。五線紙に、見慣れた先生の鉛筆書きで、音符が書き込まれている。
「短い曲だから、書き写しちゃったの。この曲ね⋯⋯」
と、先生は譜面の上段だけを右手で演奏してみせ、次に、譜面の下段だけを左手で演奏してくれた。
なんか、物悲しい曲だなあ、とぼんやりしていると、
「わかった?」
と、先生は、いたずらっぽい表情でわたしに問いかけてきた。
「上の段に書かれている旋律を、後ろから音符をたどっていくと、下の段に書かれている旋律になるのよ」
そう先生に言われ、わたしは上段と下段を見比べながら、一音一音、音符をたどってみる。
「⋯⋯ほんとだ」
「それでね。いっぺんに弾けば」
と、高橋先生は、こんどは両手で弾いてみせてくれた。二つの別々の曲のようだったさっきの演奏と同じ音が同時に鳴り、ゆっくり歩いているような、早足で動いているような、不思議な響きになった。
頭がぐるぐるするような、わくわくするような気持ちで譜面をみつめていると、
「目が輝いてきたね。面白い?」
高橋先生は、わたしの手に『蟹のカノン』の譜面を持たせて、
「そんなに難しい曲じゃないから、りきくんも、少し練習すれば弾けるわよ」
と言ってくれた。
「ありがとうございました!」
今日は、声がすんなりと出てくる。わたし、こんなに大きな声であいさつができるんだなあ。
「はい、また来週ね」
と、鍵盤を拭きながら、先生はわたしのほうに顔を向けて、
「ねえ、りきくん。音楽って、面白いものなのよ」
と言った。
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