雪が私を追ってくる
平本りこ
雪が私を追ってくる
今夜はひどい雪ですな。この地方にこれほどたくさんの降雪があるのは、本当に珍しいことです。幼少期より、雪から逃げるようにして全国を転々としてきたのですが、どうも私は寒さを引き寄せてしまう
雪が嫌いなのか、ですって? いやあ、遠くから眺めている分には、好ましい。はらはらと舞う粉砂糖のような白は心が洗われるようですし、ぼとりぼとりと降り注ぐ牡丹のごとく大きな結晶も、それはそれは風流です。何より、白銀の雪原はたいそう美しいものですよ。
はあ、なるほど。「雪から逃げるようにして」と言ったのが気になったのですね。これは口が滑りましたなぁ。
語るのは構いませんが、大して面白いお話ではありません。え、それでも良いから聞かせてほしい?
物好きなお方だ。ですが良いでしょう。どうせこの雪では、この山小屋から外に出るわけにはいきませんから、退屈しのぎには丁度良い。
……あれは、もう五十年以上も前のこと。私がまだ、
当時、私は東京の下町に住んでおりました。上野から北国への列車が運行を開始したばかりの時期で、新しがり屋な父の一声で、家族揃って雪国の親戚の家を訪ねたのです。
そこは小さな集落で、ぽつぽつと民家がある他には何もない、一面の銀世界でした。集落を囲む山々も白く染まり、まるで作り物の世界にやって来たかのようです。
幼き日の私はそれはもう興奮してしまい、その様子を見ていた
いえいえ、遠出と言っても、すぐ裏手の山ですよ。集落の端に、やや雪の浅い獣道がありましてね、山の上の方へと繋がっていたのです。
ところがどうも妙でして、どうやら誰かが雪を踏み固めたようなのです。こんな真冬にいったい何者が、雪深い山中と集落を行き来しているのでしょう。従兄も全く検討がつかないようでした。
私たちはほんの軽い気持ちで、獣道を辿ってみることにしました。
え、勇敢だ、ですって? いやいや、お気遣いなく。ただの無謀な振る舞いです。
東京育ちの私はともかくとして、雪国で生まれ育った従兄は雪山の恐ろしさを知っていたはず。帰宅してから炉端で聞いた話によれば、本当はすぐにでも引き返したかったらしいのですが、私があんまりにも浮き足立っていたので、止めるに止められず、ほんの少しだけ、という気持ちで進んだそうなのです。
ええ、ご想像通り、不穏の始まりです。
最初からちょっと乗り気ではなかった従兄は用心深く、分厚い雪から生えた枯れ枝に、細く裂いた紺色の手拭いを結びながら進んでおりました。道標にしたのです。
進み始めたばかりの頃はそれほど深くなかった積雪ですが、気づけば脛が半分埋まるほどに深まっています。ほんの少し前までは澄んだ冬晴れを見せていた空が灰色に濁り、やがてごうごうと音を立てて吹雪き始めました。
こうなってしまえばもう、薄暗い灰色の世界にひらめく紺色の小さな布なんて、目印になりやしませんで。すぐに、どちらの方角が集落なのかも判然としなくなりました。そう、私たちは愚かにも遭難してしまったのです。
ええ、あの時のことは、不思議なくらいよく覚えております。
全身が凍りつくように冷え切って、意識がすうっと遠のき始めるのがわかりました。従兄と身体を寄せ合い僅かな体温を分け合おうとしましたが、何の意味もない。ああ、こんな場所で死んでいく運命だったのだなぁ、呆気ないことだなぁ、と本気で思ったものです。
ごうごう……、と風が唸り、頭巾から飛び出した鼻先が凍てつく冷気に擦り切られるようで、やがて感覚すら無くなりました。
え、凍傷で鼻先が壊死する人がいる? なんとまあ、それは哀れなことで。
はい、この通り私の鼻は無事でした。無論、命も無事で生きながらえて、今やこんな爺さんになりました。身体中痛いですし処方される薬も毎年増えまして、ああ、年は取りたくないものですな。
……いや失礼。話が逸れました。とにかくそう、膝の痛みも肥えて緩んだ下腹も、全ては彼女のおかげなのです。
「もし。お家がわからなくなってしまったの?」
それは、小さな
あまりに薄着なので、彼女の方が氷漬けになってしまわないか心配するほどですが、あの時はそれどころではありませんから、特に不信がることもなく、従兄と私は凍った鼻水が張りついた顔で女童に縋りつきました。
歯の根が合わないほど震えながら、集落の方向がわかるかと問えば、彼女は頷き私たちを先導して雪を踏み分け始めました。
半信半疑で、小さく白い背中を追いかけます。いえ、残念ながら道中のことはあまり覚えておりません。何といっても
気づいた時には、吹雪で白く染まっていた視界の正面に、見慣れた家屋の陰がありました。私たちは倒れるようにして板戸を叩き、悲鳴混じりに私たちを呼ぶ伯母の腕に出迎えられました。
はい。おかげさまで、無謀な冒険から無事帰還できたのです。
火にあたり、熱い茶を飲みながら人心地つくと、白い着物の女童が少し離れた場所でこちらを眺めていることに気づきます。
いけないいけない。命の恩人をもてなしもせず、自分ばかり暖を取っていた。なんと薄情なこと。
きっと同じことを思ったのでしょう、従兄が口を開き、茶を出してくれるようにと伯母に頼みました。すると伯母は、言われて初めて女童に気づいた様子です。ええ、妙なことです。私たちは彼女に先導されて帰って来たのですから。
ですがね、もっと妙なことがあったのです。
女童を見た伯母の顔が凍りついたかのように強張りました。まるで、見てはならないものを目にした時のように。
従兄が怪訝そうに呼びかけると、はっとしたように肩を振るわせてから、ゆっくりと、ぎこちない笑みを作って言ったのです。
「寒かろう。こちらへおいでなさい。もうすぐ湯が沸くからね。温まるといい」
女童は何を言われたのかわからない様子でした。きょとんとした彼女と目が合った私は、この女童はもしや風呂を知らないのかと思い哀れになって、風呂はいいぞ、というようなことを言ったと記憶しております。もちろん、善かれと思って言ったのです。これだけは信じていただきたい。
とにかく、彼女は雪のように白く感情の薄い顔でこくりと頷いて、伯母と共に風呂場に向かいました。そして、ええ。それ以降、命の恩人の姿は見ておりません。
私自身はその晩、風呂に浸かることができませんでした。なぜですって? おわかりでしょう。風呂釜の湯にね、氷が張っていたのですよ。
たいそう疲れていましたから、私と従兄は暖かな炉の前で着膨れて、気づけば眠りに落ちておりました。
……そして翌早朝。私と父母は、親戚の家を後にして、駅へと向かっておりました。予定外に早い帰りです。
手足は霜焼けになり、痒いやら痛いやら。ついでに眠りも足りないもので、幼い私はだいぶ我儘を言い、帰るのを嫌がりましたが、父母は始終青い顔をして諭しました。やがて、幼いながらもこれはただことではないぞ、と気づきまして、大人しく列車に乗り込んだのです。
その数日後のことでした。従兄が、雪山の木に括りつけた布で首を吊って死んだと報せを受けたのは。
彼の命を奪ったのは、細く裂かれた紺色の布だったとか。実際に見たわけではありませんが、あれはそう、遭難した時に道標にしていたあの布だったのだと思います。
そしてその数日後、立て続けに伯父と伯母が失踪し、一家は断絶したのだとか。
それからです。私の家族が雪から逃げるようにして転居を繰り返すようになったのは。
暖かい地方に行ってもね、何年か経つと異常な豪雪に見舞われるのです。まるで雪が私を追ってくるように思えました。
子供の頃は、そんなものかと思い気にしておりませんでしたが、大人になって知見が広がると、これは妙なことだなと。
この件については
なんと、命の恩人である女童は、熱い湯に浸かって溶けてしまったそうなのです。
ええ、あなたもご存知の通り。彼女が風呂に向かうように後押ししたのは私です。
伯母はね、女童の正体に気づいていたらしいのです。ほら、雪国では有名な話でしょう? 雪山に住む、べらぼうに美しい女性とその子どもたちの話は。そう、雪女、だなんて呼ばれておりますな。あなたにとっては不本意かもしれませんけれど。
当時伯母は、息子と甥が妖怪に憑かれたと思ったようで、咄嗟に祓おうと考えて、何も知らない女童を熱い湯に浸けて溶かしてしまったのです。
はい、そうです。何度も言いますが、背中を押したのは私の一言です。悪意はありませんでした。ですがあなたにとってはそのようなこと、些末な問題なのでしょう。
幼少期の私が無垢だったのと同じように、あの女の子も無垢でした。いやむしろ、二人して無知だったのか。
だからいつか、こんな日がくることは覚悟しておりました。
え、なぜ正直にこのことを語ったのかって?
はて、どうしてでしょうか。もしかしたら年老いて、雪から逃れる暮らしに疲れてしまったのかもしれません。もしくは、心のどこかに罪の意識が引っかかっていて、私の精神を少しずつ氷漬けにして蝕んでいたのかもしれませんなぁ。
さて、独りよがりですが、こうして罪を白状したことで、心が少し軽くなりました。
しかし、なんとまあ。あなたは、最初から最後までとても静かなお顔をなさっている。こんな山小屋まで私を追ってきたからには、憎悪を叩きつけてくれてもよいはずですのに。
誰だって、我が子を殺められたとあらば、相手を同じ目に遭わせてやりたいと一度は願うものでしょう?
覚悟はとうにできております。あとはあなたの思うままに。
〈完〉
雪が私を追ってくる 平本りこ @hiraruko
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます