第2話 羊のスープ事件と後日談(前607年 宋)
第一話からさかのぼることわずか二年。紀元前607年のことです。
鄭(てい)の東に、宋(そう)という国がありました。
当時、宋の右師(うし。宰相)を務めていたのは、華元(か・げん)という人でした。
さて、この年の春のこと。南の“蛮族ども”を束ねる大国・楚(そ)の命令を受けた鄭の公子(第一位ではないが、君主の継承権を持つ人)、姫帰生(き・きせい。
宋に限らずこの時代の宰相は軍のトップも兼ねており、華元は付き合いの長い楽呂(がく・りょ)という将軍とともに鄭軍を迎え撃ちました。
当時の戦争というのは、「敵はどこだー」「見つけたぞー」「よしかかれー」というものだけではありませんでした。
互いに陣を張り、「それじゃあ明日戦いましょうね」とやりとりを交わしてから行われるものもあったのです。
実際に戦端が開かれるまで、もちろん前日は体を休めて英気を養いますが、当日は朝食を取る他に生贄を殺して神様に捧げたり、戦の吉凶を占ったりしていました。
戦争と信仰がまだまだ密接に繋がっていた時代だと言えましょう。
さて、鄭軍を率いる子家と宋軍を率いる華元との間で約束が交わされ、明日は戦だという夜のこと。
戦ともなれば、当然ながら死者も出ます。これが最後の晩餐になる者も少なからずいるでしょう。
そこで華元は、夕食に羊を殺してスープにし、兵士たちへ振る舞いました。
ところが。いったいどんな手違いがあったものやら、華元の戦車(兵車とも。古代ローマなどのチャリオットみたいなものです)の御者を務める羊斟(よう・しん)という人だけがハブられてしまったのです。
そして翌朝。朝食や捧げ物や占いは終わったのでしょうか。華元が戦車に乗り込んだところ、既にスタンバっていた羊斟が振り向きました。
落ちくぼんだ目はよどみ、昏い光をたたえています。薄笑いを浮かべた口が開きました。
「昨日の晩飯は、アンタが仕切ってくれましたけど。今日の戦は俺様が仕切りますんで。そこんとこ夜露死苦(゚∀゚)」
そのまま有無を言わせず、馬を爆!速!で走らせます。
もちろん、戦闘開始ヨーイドンの合図はまだ出ていません。
戦車はただ一台、宋軍の陣地を飛び出して鄭軍の陣地へ一直線です。
大至急の伝令とでも思ったのか、あるいは恐れをなしたか。あまりの勢いに陣の外にいた鄭兵たちは思わず道を空け、鄭陣の前までノンストップバス(何やそれ)でした。
陣に到着すると、羊斟はさっさと戦車を降り、どこかへ走り去っていきました。一人残されて呆然とする華元に、鄭兵が尋ねてきます。
「あの……、すいません、宋の方ですか?」
「そうです」
かくして、華元は子家の元へと連行されました。
さて子家。もうそろそろ戦闘開始の合図だなーというタイミングで、
「えっと……、華元サン? あなた宋軍のトップですよね? それがたった一人でここまで来るなんて、もしかして何か大事件でも起こったんスか?」
気持ちはわかります。戦闘の日の朝、大将が単身敵陣に乗り込んでくるなんて、よっぽどの事情がなければありえないだろ常識的に考えて。
「いやあそれが……。あはは」
事情を話し、困ったように笑う華元と、「どうすりゃいいのヨ……」な顔の子家。
その時、戦闘開始の合図が鳴り響きました。
「あ゛。……じゃあスイマセン、華元サンは、しばらくウチにいてもらえます?」
「あっはい」
ということで、華元は鄭軍の捕虜となりました。
気の毒なのは、頭を失った宋軍です。まともな指揮もならず、大惨敗を喫してしまいました。
自分は羊のスープをもらえなかった。もちろん不満は大きいでしょう。しかしその恨みを晴らすため、羊斟は関係のない多くの兵士たちも犠牲にしたのです。
なおこの戦闘で、華元と付き合いの長かった楽呂将軍も戦死しています。とばっちりじゃねーか。
結局華元は鄭の都へと送られ、賠償および身代金として宋から鄭へ戦車と名馬が贈られることになりました。
ただし、半分が贈られたあたりで、華元は鄭から脱出して宋へと戻るのですが。
さて、華元が無事に宋へと戻ったところ、道端で羊斟とばったり会ったではありませんか。なんで総司令官を敵陣に置き去りにしておいて平然と国に戻れたのか、その神経がわからない。
羊斟に対し、華元は穏やかに問いかけます。
「あれは、馬のせいだよね?」
羊斟がわざとやったのではなく、馬が暴走したことにしようという華元の心遣いでした。
しかし羊斟は、
「いえ、人のせいです」
と答えます。しかしこれは
「違います。私が自分の意志でやりました」
という意味ではなく、
「羊のスープ食わせてくれなかったテメーのせいだYO!!」
という意味なのですが。
そして今度こそ本当に、羊斟は宋を出奔してしまいます。
しかし華元は、自分の責任だと思っていたのか、国内に追っ手を出したり周りの国に国際指名手配をかけたりすることはなかったそうです。
その後、城壁の工事を行うにあたり、華元が責任者となりました。
工事の見回りを行っていたところ、人夫たちが
「出目金で太鼓腹、
という意味の歌を歌っているではありませんか。
さすがの華元もこれにはイラッ☆ときて、
「鎧の材料になる牛はいくらでもいるし、他の動物だっているし。鎧を捨てたっていいじゃない」
と反論しました。「逃げ帰ってきた」はイラッ☆ポイントではなかったようです。
そうしたら人夫たち、
「鎧はそれでいいとして、その鎧に塗る漆とかはどうするのさ」
と再反論してきました。
これには華元もぐうの音も出ず、
「行こう。これでは多勢に無勢だ」
と、あっさり見回りに戻ってしまいました。
……はたして多勢に無勢とかそういう問題なんでしょうか?
食い物の恨みは恐ろしいという話。他 吾妻藤四郎 @azumaatuteru
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