食い物の恨みは恐ろしいという話。他

吾妻藤四郎

第1話 スッポンスープ事件

 紀元前605年。

 当時の中国は、後に「春秋時代(しゅんじゅうじだい)」と呼ばれる時期のまっただ中でした。


 洛邑(らくゆう。現在の河南省洛陽)を都とする周(しゅう)王朝(東周)を中心に、北に晋(しん。現在の山西省あたり)、南に楚(そ。現在の湖北省など長江流域)の二大国。東に、二国より一枚落ちるとはいえやはり大国の斉(せい。現在の山東省あたり)。西に準大国といえる秦(しん。現在の陝西省あたり)。

 この周王朝と四ヶ国の隙間に、中規模から小規模の国々がたくさんあるという状態でした。


 そのうちの一つ。

 周の少し南東に、鄭(てい)という中規模の国がありました。

 この国は、春秋時代初期こそ時代をリードしていたものの、時代が下るにつれ徐々に力を失い、この頃は「晋に攻められれば晋に従い、また楚に攻められれば楚に従う」ということを繰り返していました。

 ……鄭に限った話ではなく、周と楚の間にある国々はだいたいそうでしたが。


 改めて、紀元前605年。

 鄭の公子(こうし。第一位ではないが、君主の継承権を持つ人)の中に、姓を姫(き)、名を宋(そう)、字(あざな。正式な名前とは別に名乗る通称)を子公(しこう)という人がおりました。


 ある夏の日。子公が同じ公子の姫帰生(き・きせい)、字を子家(しか)という人とともに参内しようとしたところ、手の人差し指がピクリと動きました。


 思わず笑った子公に、子家が問いかけます。

「何いきなり笑ってんスか。キモいっつーか怖いんですけど」

「いやいや。今、食指(しょくし。人差し指)が動いてね。こんな時は、必ず珍味にありつけるのさ」


 えー? マジでー? うっそでーw と信じない子家と、別に信じてもらわなくてもいいもーん、な子公が宮殿に入ると、料理人がスッポンを捌いているのが見えました。

「え? あれスッポン? ……スッポンですよね?」

「どう見てもスッポンです。本当にありがとうございました」


 現代日本でもスッポンはコラーゲンたっぷりだの滋養強壮だので人気の高級食材ですが、古代中国でもやはり高級品でした。

「ヤッベwww 子公パイセンヤッベwww マジだったwww」

「だから言ったべ? 子家クンはもっと私を敬うように。えっへん」


 二人がゲラゲラ笑っていると、そこにちょうど、代替わりして間もない少年君主・鄭霊公(ていのれいこう)が通りがかりました。


「おお。子公叔父と子家叔父ではないか。……何二人して笑ってんのさ?」

「あ、これは我が君。実は子公パイセンがかくかくしかじかで……」

 と子家が説明するも、霊公は「ほーん」と興味ない様子で去っていきました。


「ありゃ。若殿は信じておられないご様子ですね」

「君だって信じてなかったろーが。それより、早く飯の時間にならんかなあ。スッポンは精が付くから、奥の分も土産に持ち帰りたいものだが」

「ちょwww パイセン昼間っから何言ってんスかwww」

「いやこれがさ、最近の方もいろんな意味で辛くってさあ……。コスプレとかイメージプレイとかもマンネリで……」

「聞きたくねえwww 身内の生々しい話なんか聞きたくねっスwww」


 そうこうしているうちに、食事の時間になりました。広間で二人がwktk(ワクテカ。ワクワクテカテカの略。古語)しながら他の大臣たちとともに座って待っていると、湯気の立つ大きな鼎(かなえ。鍋型の胴体に三本の脚を持つ器)が入ってきました。続けて霊公も入ってきます。


「よしよし。皆揃っておるな。……今日のメインは、楚から贈られてきたスッポンのスープだ! おかわりもいいぞ!」

 うおおおおーっ、と子公&子家を含む大臣たちは大盛り上がりです。


「おまいらもちつけ。料理人は全員に配るように。……ただし」

 ここで霊公は、ニヤリと悪ガキがイタズラを思いついた時のような笑顔を見せました。

「ただし、全員な」


 ……は? と、子公の顔が、鳩が豆鉄砲を食ったようになりました。その顔を見て、霊公は手を打って笑っています。それこそ、イタズラが成功した時の悪ガキのように。


 一瞬理解ができなかった子公でしたが、状況を把握するにつれ表情が消えていきます。場の空気も、比例して冷えていきました。

 ひとり霊公だけが気づかず、馬鹿笑いを続けたままです。「オメーのスープねーから!」なんて。


 ――そうかいそうかい。あんな話をしたもんだから、俺の分だけ取り上げて満座の中で恥をかかせようってか。……いい根性してんじゃネーかクソガキがヨ。


 中国人は、昔から面子メンツがとても大事です。「あいつが俺を馬鹿にしやがった」からタマの取り合いに発展することも珍しくありません。

 それは庶民のみならず、士大夫(したいふ)と呼ばれる貴族階級でも同様です。


 子公はやおら立ち上がると、顔面蒼白の大臣たちを尻目に、鼎のところまで歩いて行きました。そして先程動いた食指をスープに突っ込むと、素早く引き上げて舐めたのです。


「はいご馳走様! さようならァ!!」

 霊公を睨み付け、((((;゚Д゚))))ガクガクブルブルする大臣たちを振り返ることもなく、大股に広間を出て行きました。


 子公が出て行った後、空気が元大関・小錦よりも重くなった広間では、物音一つしません。ようやく我に返った霊公は、拳を握りしめて怒りに顔を真っ赤に染めました。


「子公め……。余を誰だと思っている! 余はこの鄭の君主、鄭公だぞ。百年くらい前は、中原諸国のリーダー的存在だったんだぞ。それをまだ若年と侮って……。野郎ブッ殺ス!!」


 完全に頭に血が上っています。大臣たちは、誰も何も言いません。たとえ心の中でどう思っていようと。


 さて一方、宮殿を出た子公の怒りはおさまりません。子家が帰宅した後、彼を捕まえて相談しました。

「あのバカ殿のことだ。どうせ私を殺そうとするだろう」

「わかってんじゃないスか……。謝りに行きましょうよ。オレも一緒に行きますから」


 しかし子公は首を振ります。

「わかってないな子家っち。私が死ぬか、それともあの孺子ガキが死ぬか。事態はもはや二つに一つなのだよ」

「んな大げさな……」

「ええい、つべこべ言わず協力したまえ。嫌だと言うなら、君の性癖をあることないこと国じゅうに言いふらすぞ」


 冗談じゃねえ、と子家は悲鳴を上げました。あることないことどころか、この人なら絶対言いふらす。間違いない。

 ことここに至って、子家も覚悟を決めました。子公抹殺計画を練る霊公を、二人で先手を打って襲撃し、殺してしまったのです。


 以上、「食い物の恨みは恐ろしい」by古代中国、というお話でございました。

 なお、この逸話から「食指が動く」という故事成語が生まれています(マジで)

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食い物の恨みは恐ろしいという話。他 吾妻藤四郎 @azumaatuteru

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