6

 民宿の駐車場には県外ナンバーのワゴン車が一台停まっていた。今日は俺のほかにも宿泊客がいるらしい。早めに風呂に浸かってから、賑やかな夕飯を頂いた。六十歳代の夫婦連れの宿泊客はマスターとも仲が良さそうで、民宿にひとりでこんな若い子がと俺にも気さくに話した。

 雨は夕方には小さくなった。夕飯後、窓から外を覗く俺に、「音鳴くん、花火でもするけ?」とマスターが手持ちの花火セットを差し出した。


「おっちゃん付き合っちゃうよ」

「あはは、いいですね」


 駐車場の隅の小屋、庇の下のU字溝に腰掛けて、藍色の海に向かう。寄せては返す波音を聞いて息を吸って吐く。手慣れたものでマスターは細い蝋燭に懐のライターで火を点し、別のU字溝を風除けにして蝋燭を立てた。


「何か話せたん?」

「まあ、なんというか、励まされてきました。あとは反省することばかりで」


 走ればいいと六花は言った。俺にできるだろうか、闇雲に走ること。出口の見えない中でもがくこと。

 マスターは次々と花火に火をつける。細かい火の玉がきらきら弾けて、涙腺を焼く火薬の臭いがした。


「りっかちゃんは人のこと言えんからなあ」


 ふと呟いたマスターの言葉に、

 竦んだ。


「……マスター、ところてん、美味しかったです」

「おお、自家製だよ。うれしいね」

「それから、氷見牛の石焼も」

「うんうん」


 俺は、新しい花火に一本手を伸ばす。ひらひらした先端の紙は、ふわっと燃え上がった。


「また来ます」

「うん、また来られ」


 雨が、晴れる。





 午前五時。

 西の水平線から太陽が立ち上がる。水平線に描かれる光の直線と立山連峰の影、揺れる海面に乱反射する橙色。西の海からの日の出なんて異世界のよう。

 ———そう、旅先は、夢を見ているようだった。

 だけど六花にとっては。


 高岡方面への汽車の乗り場は対面式だが渡り階段はなく、線路の上を歩く。斜めのスロープを線路に降りて、左から続いてきて右に続いていくレールの上で一度立ち止まった。昨日の雨が濡らした敷石はまだ乾いていなくて、レールは昇った太陽が反射した。

 フェンスからはみ出した紫陽花の緑の葉に残る朝露に、墜落の太陽の熱に照らされた横顔に伝う汗を思い出していた。


 足音が頭蓋に反響した。小さめの歩幅、地面を蹴って送り出される膝、薄い身体に吸い付くウェアに宝石みたいな玉の汗が散る。

 消えてしまうかもわからない宝石は、君の世界に存在している努力の証で、残酷な現実で、目標で、夢で。

 オレンジ色に翳る民家の間の道を、君の後ろ姿が走り去っていく。


 これが始まりかも。

 六花はそう言った。


 顔を上げた。

 走り去る後ろ姿を捕まえたくて、手の平を目一杯広げた。指の間からホームの松の木の向こう、青色の湾が広がる。


 深く息を吸って、胸ポケットからスマホを出した。文字を打つ。


『東京に来ませんか』


 すぐにポン、と鳴って反射的に画面を見たが、メッセージが削除された通知だった。俺は無言でしばらく画面を見つめた。それから、数秒。カァンカァンと、着信音を掻き消して入線を報せる鐘が高らかに響き渡る。


『東京マラソン当選したらね』


 文字が画面の中で踊るような錯覚に、一度目を閉じてから、もう一度読んだ。返信を打つ指が、震えた。





(終)



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エンバーケイション——晴れを待つ 霙座 @mizoreza

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