5
朝飲んだブレンドよりも酸味のきいたコーヒーは、向かいでエプロンを外して座った六花の姿との相乗効果でとても清涼だった。
旅行はどう、と六花が尋ねた。
「何か見るものあった? PV巡礼のためだけの旅?」
「違う世界を見たくて。いえ、その、ほら、失恋したんで」
慌てて弁明した俺から、言わなくていい単語が転がり出て、気まずそうにする六花に心が痛む。
「サークルとか部活とかやってないし、あんまり器用でもなくて、運動音痴だし。だから気持ちを切り替えようと思って知らない土地に。いいですね旅行。一人旅初めてだったけど。家とか大学とかとは違って、何もかも新鮮で美しいです」
六花は俺の話を聞きながらコーヒーを一口飲んだ。こく、と小さく喉が鳴る。
「国内旅行で目新しさもないやろ。旅先でフィルターが掛かってるんだよ」
「そんなことないですよ。実際すごくいいです、日本海。目が覚めます」
「目が覚める……ああ、そうか」
六花が納得した風に独り言ちて、もう一口コーヒーを飲んだ。六花は何かを理解した、だけど次の言葉はない。俺はコーヒーを一口飲んだ。重く喉が鳴った。
「夏休みだったんで。まだ一か月も休みなんですけど。他のことも何かしてみたいです」
「そうだね、大学生はまだまだ夏休みだ」
新しいことに挑戦するのはいいよね、と諭すような口ぶりだった。
「挑戦、ですか」
知らない土地を目指して旅するのもいいかもしれないけど、旅行はお金が掛かる。頻繁に旅行に出るのは学生には少し難しい。三年になって講義は減って時間はあるから、噂の青春十八切符がいいんだろうか。それともまずは新しいバイトか。単発でイベントスタッフのバイトをしているけれど、まったく違う業種のバイトを探すとか。
できそうで、できなさそう。
「六花さんみたいに走れたらいいのかもしれないけど」
「じゃあ、走ってみたら?」
「いや、俺、高校のスポーツテストの千五百メートルが最長ですよ。どうやって練習するのかもわからないし」
六花はふふと息をついて、椅子に背をもたれた。
「できないことをやるのが練習でしょ。身体ひとつあれば走り出せる。お手軽な気分転換だよ」
そう言われればお手軽に思えるけれど。
六花は雨が伝う窓を見た。細く息を吐いた唇が閉じた。見ているのは雨の向こうの雲の向こう。それは、いつも太陽が輝いていて、こことは違う世界。
「頭が空っぽになる。調子がいい時は体の重さもゼロになる。そしたら、何か見える」
「何かって」
「自分とか」
走る動作は、自分の足で前に進んでいくことだ。自分が動かなければ世界は動かない。自分の力で切り開いていく。進んだ先には知らない世界があって、毎日走っているうちに意味のある自分を見つけられるかもしれない。
一瞬だけできそう、と思えた。六花はポジティブに思えるって大事だよと俺を褒めた。良くも悪くも深く考えることがない俺には、それが新鮮で。考えることで存在を確かめて、自信に繋がっていくとか、何か聞いたことが。
「デカルトみたいな?」
「誰それ」
心の師は中学の時から室伏広治だよと六花は笑った。
「そのうち全国津々浦々ご当地マラソンとかいいんじゃない。あちこちでやってる」
「ああ、全国に旅もできて。そうだ、東京マラソンもやってますよね。六花さんは出るんですか」
「東京は……」
大規模な交通規制をしているから俺でも知っている。走る人なら誰でも出てみたいと思うんじゃないだろうか。
だけど、これは軽率な質問だった。俺はもっと考えて喋るべきだ。六花は答えなかった。俺は誤魔化して首の後ろをぽりぽり掻いた。
「六花さん、毎日走ってるんですか」
「ん、まあ」
六花は少し逡巡して、テーブルに頬杖を付いた。視線はぼんやりとテーブルの木目をなぞる。手で隠した口許から零れる言葉はたぶん、俺に向かってはいなかった。
「走って走った結果だけど、何がしたいのかわからなくなって、もう速くもなれなくて、限界だけを知ってしまった。どんなに走っても一番にはなれなくて、走り方以外には無知なのに、走れることが何になるのかわからなくて。でも、将来を諦めて地元に帰ってきても、結局走ってる」
その点きみには希望がある、と瞳をくるんと俺の目に合わせた。呼吸が止まった。
「恋なんて何度でもすればいい。踏み出せば、今は、すぐに過去になる。走れば、きっともっと早く時間は流れていって、振り返ってもすぐには見えないくらい遠くなるじゃない。だから、悲しいことがあるなら全力で走ればいい」
この旅は思い付きだった。振られた直後に聞いた曲のPVが心に刺さって新幹線のチケットを取った。別れたことはそれなりに悲しかったけど、何日も泣き暮らすようなことでもなくて、ああ、違う場所に行こう、そう思って。
「……俺は、逃げてきたんですね」
「脱出だよ。これが始まりかも。これから目標を見つけて、努力することが大事なん……」
六花は途中で言葉を飲んだ。ぬるくなったコーヒーは舌に苦みばかりを残した。
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