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 六花はそれからコーヒーを一杯飲んで帰っていった。一口でカップ一杯を流し込んで、他にも配達あるからとあっさり手を振った。雨が窓を叩いては六花の残像を壊して、硝子に筋を残して落ちる。俺はコーヒー一杯を二十分掛けて飲んだ。


 今日は国宝に指定されている寺を見に行って、そのまま新幹線で帰るつもりだった。スマホを操作して新幹線の予約変更をして天気予報の画面に移動する。一日中雨。夕方止んで、明日は晴れ予報。

 寺は明日にしよう、それだけ考える。俺の頭は六花の顔と声でいっぱいだった。

 それも、笑顔ではなくて。


 なんかだめだ。

 気持ちを切り替えようとしたけれど、観光の検索のページの上を目が滑り、今日の予定は何も立たなくて、このまま明日帰ることになるんだろうか、明日は晴れるだろうか、明日、日の出を見られるだろうかと思うと、ざわっと心臓が膨らんだ。


 日の出を彼女と見られたらいいのに。


 朝日の中の六花は、想像だけで美しかった。世界の始まりの閃光を受けて目を細める六花が、髪を束ねて持ち上げる。ポニーテールの女神は、吸い込まれるように黄金色の朝日に向かって駆けていくのだ。俺はその遠ざかる背中に手を伸ばす。影ばかりが俺に伸びて、何も掴めずに。


 飲み終えてコーヒーカップを台所まで運んでいくと、暖簾の向こうで洗い物をしていたマスターが振り向いた。にゅ、と伸ばされた手にカップを渡して、沈黙したのはほんの一、二秒だったと思う。

 マスターに喫茶店の場所を尋ねた。





「いらっしゃいま———音鳴くん」


 カラン、と銅の鈴が鳴って開いた扉の先に、六花が立ち止まっていた。

 喫茶店は町中から少し離れて田園風景を背に建っていた。焦げ茶色の四角い建物は、焙煎したコーヒー豆の色で、民宿でマスターが淹れてくれたコーヒーよりも視覚に香ばしい。

 傘を畳む俺の足元が濡れているのを見て、六花がもしかして歩いて来たのかと聞いた。


「思ったより遠かったです」

「そうやろ。雨の中、どんなモノズキなん」


 雨は朝から見れば弱まっていた。音を吸い込んだ知らない世界の静かな神社の鳥居や、濡れて光る重厚な瓦屋根を眺めながらの散歩は楽しかった。

 黒色のエプロン姿の六花は呆れた顔をして、粗品と書かれたナイロンを破って俺に真っ新なタオルを渡した。店内に俺のほかに客はいない。ありがたくタオルを受け取って、傘でガードできなかった腕と七分丈のパンツから出ていた足を拭いた。六花はキッチンに戻っていて、「好きなとこ、どうぞ」と言った。下を向いているようで少し声がくぐもった。

 四人掛けの席がひとつ、窓際は二人掛けの席がふたつ。奥の窓際に座った。照明を落とした店内を見渡して溜息をついた。顔を上げた六花が溜息を聞きつけた。


「疲れたんやろ」

「いいえ、なんかほっとして」


 あなたに会えて安堵の溜息が出ました。あなたが嫌な顔をせずに俺を迎え入れたことに感謝の溜息が出ました。だって俺は、あの短い時間で、あなたを傷つけてしまったんじゃないだろうかと思ったから———何を言おうにも、我ながらキモイ。

 六花は言葉が続かない俺に少しだけ首を傾げて、コーヒーしかないよ、と言った。


「せんぞうさんのとこで飲んだのはスペシャルブレンド。サマーブレンドにしようか」

「あ、はい、じゃあそれを。ふたつ」


 俺の返事に六花の目に疑問が浮かぶ。反射的に答える。


「俺と、六花さんの分」


 六花は苦笑して、まあいいか、と銅色のケトルを持った。





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