3

「ああ、いいよ。喜んで。二日酔い大丈夫け」


 もう一日泊まりたいと言った俺に、マスターは焼き魚を卓上に置きながら愛想よく答えた。湿度が高くて民宿は朝からエアコンが付いていて、晩夏なのに温かい麦茶を注いでもらった。湯呑のはと麦茶の薄い色から香ばしい湯気が上がる。

 ほ、と息を吐いて湯呑を口元に運んだ。


「地引網も週末までないし、何かおもしろいもの……雨やから日の出も見れんしなあ」

「日の出って、日本海ですよね」


 そこにあるのは日本の西側の海だ。


「ほら、湾になっとるやろ。今の時期だけうまいこと海から太陽が上がるんよ」

「へえ、不思議ですね」


 マスターはちょっと自慢げに「いいやろ?」と言って、明日晴れれば、でも雲がなあ、などと悩む様子を見せた。


「せんぞうさん、配達です」


 玄関が開いて、ごお、と海が、びゅおお、と風が鳴く。強くなった雨音に紛れて鈴のような女性の声がした。マスターは、ちょっとごめんねと断って玄関に出ていく。俺は座敷から背中を反って廊下を覗いた。


 幻だと思った。

 昨日の彼女が、玄関先にいた。

 髪は下ろしていて、黒無地のカットソーに履き込んだライトブルーのデニム、足元は白のスニーカーだ。彼女を取り巻く光の奔流にまばたきを繰り返す。清廉そのもの。女神だ。彼女の背景はどしゃ降りなのに、雨はなぜか地から天へ全力で駆け上がっているように見えた。

 驚きすぎて、正座のまま廊下に倒れた。べたん、と音を立ててしまったので、彼女とマスターの視線が俺に集まった。


「あ、どうも」


 第一声、第一印象をしくじるのはいつもの俺だ。旅先だからと自分の言動にミラクルは起こらない。

 マスターが「りっかちゃん、知り合い?」と女性に聞いた。りっか、と心に彼女の名前を刻む。りっかは考え込んだ。そこは、知り合いと、言ってほしい、ぜひ。


「昨日、道を聞いたんです。そしたら駐輪場を」

「ああ」


 俺の補足説明に、きみかあ、とりっかは笑った。雨が吹き飛ぶくらいの鮮やかさだった。目がちかちかする。


「数字の六にフラワーの花」

「え」

「また会えたらって言ったから」


 名前だ。俺が昨日聞いたことを覚えていてくれた、いや違う、思い出してくれたんだ。どちらでも構わない。一瞬思考が停止して、その後慌てて起き上がった。真っ直ぐの廊下を足をもつれさせながら進む。

 俺が半分転びかけながら近づいてきたのが面白かったらしく、六花は口を開けて笑った。


「きみは、ちょっとあわてんぼうだな」

「よく言われます」


 俺は玄関マットの上に正座する形で着地した。


「彼、失恋旅行で東京から来とる。懐かしいやろ六花ちゃん」

「別に、そんなに経っとらんよ」


 それより繊細な個人情報をさらっと言わんでよ、と六花はマスターを注意する。失恋旅行、確かにその通りだ。俺は気にしない。東京にいたんですか、と聞いた。答えたのはマスターだった。


「東京の大学で陸上してたんよ。有名人やよ。春に地元に帰ってきたん」


 だとしたら向こうでどこかですれ違っていたかもしれない。陸上競技場には縁がないから移動のバスとか、スポーツ用品店もあんまり行かないけどショッピングモール内のどこかとか、もしからしたら授業のフィールドワークでどこか道端とか、どこでもいい、すれ違っていてほしい。


 それも繊細な個人情報やよ、と眉を顰める六花の手から、マスターは知らん顔で紙袋を受け取ると玄関先のベンチを親指でくい、と指した。六花は戸惑いの表情で片方の唇を少し引き上げた。色の付いていないリップクリームの艶がゆる、と動く。「私がこのあわてんぼうの相手をするの?」という不満かも。


 六花はベンチに腰掛けて、正座の俺を見てしょうがないという風に笑った。こっち座ったら、と言われて俺は三和土にあった茶色のサンダルを引っかけて跳ねるようにベンチに移動した。


「おとなりです」

「お隣?」

「音が鳴る、で音鳴です」


 ごめん、なるほどね、と六花は言った。おとなりのおとなり、という擦り切れた自己紹介も今だけはこんなにも楽しい。


「あれから海見てきたん?」

「見ました。遊歩道を歩いて、立山連峰のシルエットも見ました。駐輪場も見て、写真も撮ってきました」


 取り出したスマホがぼやと光った。駐輪場の石壁の入り口から奥に向けて四角く切り取ってある。PVと同じ構図で写真を撮ってきた。夕方じゃない方がよかったな。青く撮りたかった。それで、人物が必要だ。制服のスカートをひらりと翻して振り向いてくれるひと。ここに彼女が入ってくれたら正しかったのにと惜しい気持ちが湧き上がる。

 六花はへえ、と俺の手のスマホに顔を近付けた。髪がさらりと肩から滑り落ちる。


「六花さん」

「ん?」


 馴れ馴れしさに疑問を抱かれた反応だった。まずい、だろうか。変な間ができた。


「……陸上部なんですね、納得しました。すごく速かった」


 話そうとしていた内容ではない。このフレームに入ってもらえませんかとかこの構図に付き合ってもらえませんかとか、自分の世界に傾きかけた俺の話題を転換しようとしたはずの世間話に、六花は、止まった。

 六花はベンチに手を付いて肘を伸ばし、胸を反らせて天井を見上げた。焦げ茶色の踏み天井にガラスのシェードの丸いランプがぼうと点っている。


「まあ、ほどほどやね」

「いえ、ほんと風みたいでした。走れることがすごいです」

「んー、まあ、走るくらい誰にでもできるよ。右足と左足を交互に動かせば進むんやから」


 それができない人種もいるのだと言うと、六花はそんなわけあるかと笑顔を見せた。

 ほっとした。

 奥からマスターがコーヒー入ったよと呼びかけた。六花は飲んでこようかと立ち上がった。六花は家が喫茶店をやっていて、コーヒー豆を民宿に卸しているそうだ。六花の父上渾身のブレンドを味わうことにした。


 軋む廊下を歩いて「前途ある若者のためになるような成功談はないよ」と、六花の呟きが宙を漂った。





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