第5話

 アサドが異変に気付いたのは、事態が起きた数時間後だ。信頼する者の減った屋敷で、定期巡回のために雇った使用人が血相を変えて報告に来たのだ。


「タヒール様が、どこにも居ません!」


 沐浴の時間になっても姿を見せないことを不審に思っての声掛けだった。アサドは彼らにタヒールとの謁見を許可していない。報告が遅れた事を叱責し、すぐにタヒールの部屋に向かった。

 満足に動かない右脚に舌打ちをし、アサドは脳裏に過ぎる無数の不安に苛まれそうになる。先日雇った男はヌール・バシャルについて知らないと言っていたが、嘘を吐いたのではないか? 高い金で口を封じた使用人が、買収されて警備などの機密情報を漏らしたのかもしれない。


「タヒール……!?」


 ノックさえ忘れてドアを開けた瞬間、アサドの脳内を占めていた不安は一瞬で消える。後から入ろうとした使用人を制し、彼は呆然とその景色を眺め続ける。

 そこには、痕跡だけが残っている。タヒールが過ごしていた場所には根元から手折られた螺旋角が安置され、淡い輝きを放っていた。その傍らに置かれた鉢植えに咲く満開の花が、墓標のように不在を強調する。

 その花の名前を、込められた意味を、アサドは瞬時に理解した。カンパニュラ。自分が贈るはずだった花。遠い昔に交わした言葉がフラッシュバックする。


『向こうの国では、その花を感謝の印として送るらしい』


 どん、という鈍い音と共に、アサドは近くにあった壁を殴る。驚いた使用人が部屋に入ってこようとするのを断り、彼は剥がれ落ちそうになる冷たさを必死に保ちながら呟く。


「少し独りにさせてくれ、頼む」


 アサドは震える手で螺旋角を掴む。万能の秘薬、人々が熱狂する久遠くおんの象徴。母親も、自分も、その薬によって命を救われた。この角が無ければ、タヒールの種族は狩られることがなかったのかもしれない。

 密猟者は金で動き、オークションの観客は金を以て力を誇示する。この世界で我儘を通すために、アサドは必死に金を稼いだ。

 様々な繋がりやしがらみの果てに参加した非合法オークションで、彼の望む物はやっと見つかった。その為なら、なんだって犠牲にするつもりだった。

 そこまでして欲しかったのは、誰かに奪われないように守りたかったのは、ヌール・バシャルの角ではない。


 ……守りたかったのは。


 かつての親友が理不尽や悪意で壊れてしまわないように、自分のような汚れた“角無し”の欲望に近づいてしまわないように、アサドはタヒールと距離を置いていた。眩しすぎる光をかげらせる者は、誰であろうと容赦しなかった。

 そんな立場にあっても、アサドの愛すべき親友は自らの誇りを捧げて感謝を示すのか。

 角を失った彼の種族がどうなるのか、アサドは理解している。だからこそ、彼は再会後にタヒールの角で長年の怪我を治すことを良しとしなかった。


「ちがう、違うんだよ……」


 止めどなく涙が溢れ出す。感謝を言うべきは自分だ。救われたのは自分だ。あの頃のようにタヒールと一緒に過ごしたかったのは、自分だ。声にならない叫びと共に、アサドは子供のように泣いた。

 タヒールからの最後の贈り物を抱き留めれば、淡い光が腕の隙間から漏れ出す。そこに感じた確かな熱は、幻や蜃気楼ではない。ただ、そこにあるものだ。


「……ありがとう、タヒール」


 その熱が消えていくまで、アサドは親友の残像を抱き続けた。


    *    *    *


 目指す地点は、タヒールが思うほど遠くはなかった。

 ローブを陽避けに使ったのは彼にとって初めてだった。その身体は輝きを失い、一見すると角無しと変わらない。白くくすんだ髪が風を浴び、ふらつく脚で前に進み続ける。

 屋敷の門番がタヒールについて詳しく知らなかったことが功を奏した。使用人の入れ替わりが激しい屋敷内において、屋敷から出る角無しの顔を一人ひとり確認することはない。脱出は、彼の想像以上に簡単だった。


「……あれかな?」


 屋敷から脱出した彼が向かったのは、海だ。漂流地のオアシスよりずっと広い水源にはタヒールの知らない生物や巨大な船が行き来し、望遠鏡越しに水平線と遠くの岬が見えた。

 視界は既に霞んでいる。一歩ずつ歩くごとに額の先から光が漏れ、彼の足取りを徐々に重くさせる。

 額から伸びる種族の象徴は、既に存在しない。それを失った瞬間のことを思い返しながら、彼は海辺に横たわった。


『己の螺旋角を手放した者は、輝きを失う』


 輝きを失った同族がどうなるのか、タヒールは父親の姿を見て理解していた。ヌール・バシャルが数を減らし、角が高値で取引された理由も、この性質によるものなのだろう。

 だからこそ、タヒールはそれを選んだ。これは自分を救った親友に対する返礼で、あがないで、己の最後の望みへの最適解だ。

 その瞬間、彼は目を瞑った。暗闇の中で手を動かし、芯を捉える。花を摘むように優しく、タヒールは自らの角を手折ったのだ。


 命と引き換えに得た自由は、タヒールの魂に限られた時間を克明に刻みつける。彼が最後に望んだのは、かつてアサドが教えた外の世界の景色を目に焼き付けることだ。

 暮鐘ぼしょうが響く。西の海に落ちる太陽が海を紫に染め上げ、遠くに臨む鮮やかな緑は砂の荒野とも漂流地のオアシスとも異なる景色だ。

 アサドと出会わなければ、タヒールの世界は狭いままだった。小さな楽園の中、輝きは孤独なままついえて誰にも顧みられない。平穏で退屈な日常が死ぬまで続いていたのだろう。

 身体から放たれる淡い光が徐々に消えていくのを理解し、最後の“輝く者”ヌール・バシャルは穏やかに笑った。


「……ありがとう、アサド」


 その命は光と共に空に放たれ、タヒールは静かに眠りに落ちた。

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“輝く者”とカンパニュラ @fox_0829

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