第4話
タヒールの新たな棲家として提供されたのは、アサドの屋敷内の広い一室だった。豪奢な調度品が並ぶ2階の角部屋は漂流地の穴蔵よりずっと綺麗で、贅沢だ。居心地の悪さを感じながらも、タヒールは我慢することにした。自分は買われた身だ。劣悪な環境ではないなら、文句を言う権利もない。
開け放たれた天窓から潮風が入ってくる。この部屋からは、海が見えない。その部屋だけ本来あるはずの窓は全て塞がれ、外から住民の姿が見えないように設計されていた。
アサドはタヒールにこの部屋から出ない事を厳命した。1日1回の沐浴を除けば、部屋のドアを挟んで使用人の監視が付く。彼がタヒールを買った理由は、観賞用ではないらしい。
数日に一度、アサドはタヒールの様子を見に部屋の前まで現れる。右脚を引き摺り、廊下に杖の音を響かせながら。
「何か欲しい物はあるか、タヒール?」
「……漂流地の赤い実が食べたい」
「すぐに用意させる。明日には届くはずだ……」
翌日になれば、使用人を通じてタヒールの望みの品が届く。木箱に入った高級な果実は漂流地で食べたものより甘味が強く、明らかに美味だ。タヒールは、それにどうしようもない寂しさを覚えた。
数週間が経つと、監視を担当する使用人が変わった。前任者が解雇された事を、タヒールは使用人たちの雑談を盗み聞いて理解する。
「俺らもいつクビになるかわかんねぇよな。……タヒール様とちょっと会話を交わしただけだろ?」
「旦那様はずっと何かに怯えてんだよ。金しか信用してないんだろ」
「これは噂なんだけどさ、旦那様の右脚って……」
その傷は、自分の罪だ。タヒールの胸が痛む。
密猟者に襲われそうになった自身を助けたアサドは、拷問によって瀕死の重傷を負っていた。逃げずに治療していれば、彼は五体満足のまま生活することができたのだろうか。
そうして助かった自身の身柄も、10年後にまた捕えられるという形で無駄にしてしまった。アサドに買われなければ、タヒール自身の命さえもっと酷い形で使われていたのかもしれない。
タヒールは自らの立派に育った螺旋角をそっと撫でる。『大切な時に使え』という父の言葉の意味を、今にして反芻し続ける。
自ら角を折ることの意味を、タヒールは理解しているつもりだった。
使用人は何度も代わり、アサドが様子を見にくる頻度も増えた。彼の稼業にも影が差しているのか、その表情は常に険しい。金の瞳がタヒール以外の存在を常に捉え、その眼に射られた使用人は次々に辞めていった。
「頼まれていた土と鉢だ。……こんな物でいいのか?」
「ありがとう。花、育てたくて」
「花ならいくらでも買ってやるよ。この部屋がご不満なんだろ?」
口に出した後に棘がある言い方だったと気付き、アサドは苦々しい表情で舌打ちをした。ぎこちない表情で謝罪の言葉を口走ると、大きく溜め息を吐く。
「なぁ、タヒール。俺が怖いか?」
「何か嫌なことでもあった?」
「……そう見えるか?」
アサドは曖昧に笑う。その瞬間だけは、どこか少年の面影を残していた。
「大丈夫だ、なんでもない。少し古傷が痛んで気が立っただけだ。邪魔したな」
去っていくアサドを見送り、タヒールは持参した荷物の中から花の種を取り出す。漂流地に咲いていた花をどこでも育てられるように収穫した物だ。自分が肌身離さず持っていた意味を、タヒールは今になって理解する。
ヌール・バシャルが放つ光は、植物の生育を促進させる。天窓から射す陽光よりも早く、漂流地のオアシスのように色彩豊かに。育てた種は、数日で釣鐘のような花を咲かせた。
「……バッチリだ」
その花が咲いたのを見届けると、タヒールは満足げな笑みを浮かべる。やり残していたことが、ひとつ達成できた。
額から伸びる螺旋角を撫で、感嘆の息を吐く。あれほど小さかった象徴は、父の形見と顕色ないほどに育った。
この角は、どう生きたかを示す証のようなものだ。タヒールは所々に削り傷の付いた角を愛おしく思う。誇り高い父親は角を孤高の証として、自分は誰かを助けるための礎として、どちらも正しく使ったはずだ。
この部屋は立派で、与えられる物は全てが高級品だ。アサドがタヒールを買うために投じた私財にどれほどの価値があるか、タヒールは未だに理解できない。
命を助けてくれた。話し相手になってくれた。様々な事情で生き方が変わってしまっても、変わらず覚えていてくれた。それだけで、満足だった。
タヒールは、ただ
祈りながら、螺旋角の根元に指を滑らせた。
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