第3話

 そして、現在。


 競売人の煽り文句を聴いて興奮する富豪の観客を尻目に、藍髪に金の瞳の男は表情を崩さない。10年前の無垢な表情とは異なり、その顔相には酷薄な厳しさが増していた。

 表情こそ違えど、アサドで間違いないだろう。そうタヒールは確信する。よく似た別人ではない。記憶の中で密猟者を睨み付けていたアサドの表情が、今の彼と同じだった。

 この10年に何があって、彼は悪名高いと噂される富豪となったのか。今のタヒールには知る由もないが、ただ“生きている”という安堵が先にあった。


「さぁ皆々様、生体のヌール・バシャルを見るのは初めてのはずでございます! この姿を見ても、まだ偽物だと疑われる方も居られるでしょう。その角に本当に効能があるか、さっそく試してみましょう!」


 競売人の演説とともに舞台の裏から連れて来られた老奴は、困惑した表情のまま衆人環視の中に晒される。傍らに立つ警備兵が剣を構え、観客たちは次に起こる事態を理解する。異常な状況の中、老奴だけが下卑た笑みを浮かべ、死の恐怖に震えていた。


「皆様、ご安心ください。いくら売れ残りとは言え、この老人も歴とした商品です。『命を断つ』などの無粋な真似は致しませんよ、彼の運さえよければ」


 小さな命乞いが断末魔の絶叫に変わる瞬間、老奴は縋るような視線でタヒールを見た。先ほどまで話していた相手が、間違いなく助けを求めている。ここで秘薬を差し出させるのが競売人や観客の狙いだろう。それでも、目の前で人が死なれるのは寝覚めが悪い。

 タヒールは伸びた角の端に鎖を括り付けると、その先端数センチを削り落とすように折る。自身の角を傷付けたのは10年ぶりだ。それを角無しに差し出すのも。

 檻の隙間から欠片を投げ渡すと、競売人は芝居掛かった仰々しい態度で一礼し、老いた奴隷の傷を癒す。生気を失っていた老奴の顔色が元に戻り、蘇生は即座に完了した。

 何が起きたか理解できない様子の老人が警備兵に連れられて舞台袖に戻り、感嘆していた様子の観客は我に帰って次々と不満を騒ぎ立てる。


「あの量の生薬で1000万はくだらないぞ!? あんな老いぼれに使うくらいなら、少しくらい我々にも……」

「貴重な角を傷物にするなァ! あれには資料的価値が……」

「輝く裸をもっと見せなさいよ! 退屈してきたわ!」


 喧騒の中で、競売人の仮面越しの表情は伝わらない。机上の木槌を叩いて場を掌握すると、声に喜色を滲ませながら高らかに宣言する。


「皆さまのご不満はごもっとも! ですが、今回の商品は今までと大きく異なることをお忘れでしょうか!? ヌール・バシャルは、“生きている限り”角が伸び続ける生き物です。末端価格が数百万の粉末も、資料価値のある立派な角も、或いは鑑賞にぴったりの輝く肢体も! この商品を買えば、その全てを独占できるのです!!」


 熱狂する観客の様子を目撃し、タヒールの心は冷え切っていた。

 今から自分は買われ、自由を奪われる。積み重ねてきた矜持や心意気は貨幣価値に換算され、誰かの所有物になるのだろう。父親が最後まで孤独を貫き通した意味を理解し、彼は身震いをする。


「さぁ、薬効は証明済み! 致命傷さえ癒す究極の治療薬にも、或いはどんな病気も治す万能の内服薬にも! そんな秘薬の原料となる角を持つ、絶滅寸前の希少種がここに! 今回の最低価格は5億、5億からスタートです!」


「5億4000万!」

「7億!」

「8億2500万!」


 俗世に疎いタヒールに、その金額の重みはわからない。ただ10年前のアサドとのやりとりの中で、見渡す限りの砂原を4億で買った男の話を聞いたことはある。大地の所有に値段が付くなどあり得ない、と当時のタヒールは思っていたが、自分の身柄にそれ相応の値段が付くのにも違和感を拭えていなかった。

 彼の同胞は殆どが狩られ、もう居ない。角無しの身勝手で生まれた希少価値を、さらに金を出すことで高めている状態だ。そこにタヒール自身の意思は介在せず、巨大なマネーゲームの駒として動かされている。タヒールは、そのような状況自体に据わりの悪さを感じていた。


「さぁ、10億出ました! 当オークションの歴史の中でも最高の落札金額です!」

「10億2000万!」

「10億5000万!」

「10億5500万!」


 熱狂が加速する。欲望が渦となって伝播していく。

 唾を飛ばしながら少しでも上の金額を叫ぶ者、目を血走らせてヌール・バシャルに執着しようとする者、自らの財政状況の危機に脂汗を掻きながらも止まらない者。各々が出せる金額の天井を叩き始め、互いの意地のせめぎ合いが膠着を生み出す。


「……20億」


 その声は、騒然とする会場の中で埋もれることなく響いた。観客も、競売人も、“商品”であるタヒールまでもが声のする方を凝視する。


「……これ以上の時間は無駄だと思うが? 20億、他の奴らは出せるのか?」


 藍髪の男は退屈そうに右手を挙げると、傍らに立つ従者が金貨や紙幣の束を次々に提示していく。支払い能力があることを示すために用意された金だ。小さな丸テーブルに金貨が溢れんばかりに置かれ、他の富豪たちは押し黙る。


「に、20億500万……!!」

「30億。諦めろよ、アンタら」


 脂汗を掻いていた観客の男が気を失い、倒れる。競売に参加していた富豪たちは憎々しげにアサドを睨み付け、無言の牽制を始める。彼らの期待に反して、アサドの対抗馬に名乗り出るものは居ない。無情な木槌の音と共に、競売人は高揚した声を上げる。


「30億、30億で落札です!! 貴重な最後の“輝く者”は、破格の金額での取引となりました!」


 観客たちは茫然とした様子で事の顛末を眺めていた。対するアサドはゆっくりと立ち上がり、従者を携えて壇上に上がる。歩く際に右脚を引き摺る姿を、タヒールは見逃さなかった。

 小切手と引き換えに警備兵から受け取った檻の鍵を錠に挿すと、アサドとタヒールは改めて向かい合う。永遠にも似た一瞬の沈黙の後、おずおずと口を開いたのはタヒールだ。


「その……買っていただいて、ありがとうございます。これからはあなたのために……」

「御託はいい。行くぞ、タヒール」


 声や口調は似ているが、そこに込められた冷たさが異なる。そうタヒールは結論付ける。年月の積み重ねか、噂通りの心変わりがあったのか。どちらにせよ、彼がタヒールのことを覚えていたのは確かだ。

 鎖を掴まれ、タヒールは主人の後ろを着いていくように出口への通路を歩く。観客席を通過する瞬間、ざわつく声が一際大きくなった。


「……金の亡者め」

「礼儀も知らん成り上がりが……!」


 アサドは観客席の声を無視し、鼻で笑うように息を漏らす。表情が強張るタヒールを一瞥すると、氷のような態度のまま口を開く。


「耳を貸すな。所詮は負け犬が吠えているだけだ」

「変わったね、アサド」

「…………」


 その瞬間、観客の一団から転がるように飛び出してきた男が、出口を塞ぐようにアサドの前に平伏す。先程まで脂汗を掻いて入札に参加していた男だ。


「お願いします! 秘薬を……秘薬を分けて頂けませんか!?」


 男はアサドの脚に縋り付く勢いで懇願する。屈強な従者がそれを引き剥がして羽交い締めにしても、喚くように叫び続ける。


「娘がァ……娘が病気なんです! このままでは死を待つだけになってしまう! お願いします、おねが……」

「見苦しい。ヌール・バシャルは俺の物だ。そこに異論を挟む余地はない」


 反射的に角の欠片を渡そうとするタヒールを後ろ手で制し、アサドは男の顔相を眺める。記憶を思い返すように首を動かし、小さく舌打ちをした。


「俺は嘘吐きが嫌いだ。お前、他の商品の入札にも手を出していたな?」

「……そうでしたか?」

「“燃える心臓”、“貴婦人の休日”、セルドバの流雪刀。お前が本当に秘薬だけを目的としているなら、これらの品々には見向きもしないはずだ。競取せどり屋の癖か、大商人サマ?」


 男は顔を伏せ、沈黙の後に哄笑する。その態度で、タヒールも男の真意を理解した。病気の娘など存在せず、金のために秘薬をせしめようとしたのだ。


「ふざけんな、お前だけが独占して良いわけないだろォ!」

「俺は対価を払った。それより上に立てなかったアンタらが悪いんだよ。……安心しろ、こんな場所は二度と来ねぇ」


 競取り屋の男を警備兵に突き出すと、アサドはタヒールを凝視する。タヒールは自らの善意が利用されたことに落胆している。


「他人を信用するなよ、タヒール」


 観客からの無数の罵倒を背に受け、アサドは闇オークションの会場を後にする。その横顔は、孤独の色を残していた。

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