第2話

 そこは、人間の言葉で“漂流地”と呼ばれていた。一面が砂の荒野に、ぽつんと存在するオアシスだ。巻き上がる砂塵は、その地帯には届かない。駱駝らくだの足跡は風に消え、地図にも載らない幻の土地だ。偶然そこに辿り着いた者は、皆が口を揃えてこう言った。


“輝く者”ヌール・バシャルが居る』


 タヒールは、生まれた時からその場所に住んでいた。極彩色の花が咲く水脈のほとりで、砂塵の向こうの景色を眺め続ける。時折清らかな水で喉を潤したり、太陽に向かって伸びる巨木に実った果実を食べる。よく熟れた実は赤く、タヒールが齧り付くと甘く弾けた。

 砂漠の夜は寒いが、漂流地は昼夜問わず一定の温度を保っている。それでも、タヒールは夜になると洞窟めいた穴倉に身を隠す。死んだ父親が、こう言っていたからだ。


『外から来る“角無し”に、簡単に姿を見せてはいけない』


 生まれた時からずっと一緒だった父の教えだ。砂塵の外にはタヒールに似た容姿の種族がいて、彼の父はそれを憎らしげに『角無し』と呼んでいた。頭には角がなく、身体の輝きはくすんでいるかのように弱いらしい。

 父が遺した立派な螺旋状の一本角を眺めながら、タヒールは自らの細く短い角をこっそりと撫でる。こうすれば、いつか大きくなると信じて。

 タヒールは、まだ15年しか生きていない子どもだ。大人になるにつれて立派な角が生え、身体は輝きを増す。陽の光によく似た琥珀色の髪が砂漠の色に溶けても、その輝きだけで外からよく目立つ。放たれる光は、彼らが数を減らした理由の一つだ。


 タヒールは退屈だった。話し相手だった父を数年前に独りで看取り、それからは孤独な毎日だ。漂流地はタヒールの種族にとって安全地帯で、故に他の動物の侵入を滅多に許さない。

 だからこそ、その出会いは偶然が生み出したものなのだろう。タヒールが目を覚ますと、何者かが水脈のほとりで倒れていた。全身に裂傷の痕が残る、角無しの少年だ。

 タヒールは布の余った襤褸ぼろのローブを被ると、不安げに少年の様子を確認する。


「……生きてる」


 漂流地に他の動物が入ってくる時は、その殆どが満身創痍だ。半ば遭難寸前の旅人が見る蜃気楼めいた幻覚と同一視される理由は、少なくない目撃者がそこで骨を埋めるからだろう。

 その少年も傷だらけだが、まだ息はある。水脈に辿り着く前に限界が訪れたのか、倒れ伏す表情は苦しそうだ。

 かつての父が角無しや動物にやったように、タヒールは水脈から水を掬い、少年の唇を濡らす。生きる気力が残っていれば、水を求めて体が反応する。微かに舌が動くのを確認し、少しづつ水を注いでいく。小さな喉仏が微かに上下し、息が漏れた。

 タヒールの父なら、最低限の生存に必要な処置だけを行なって漂流地から追い出していた。意識を取り戻す前に外まで運べば、漂流者はこの場所の存在を幻想として処理する。そうする事で、互いに干渉しない不可侵の領域を作り出していた。


「傷、治さなきゃ……」


 皮膚に刻まれた無数の裂傷は爪や牙の痕だった。獣に襲われたのか、痩せた身体から血の匂いはまだ消えていない。タヒールの脳裏に、輝きを失う寸前の父の姿が蘇る。

 

『この角の価値を、角無しの連中は知っている。大切な時しか使うなよ……』


 父親がそれを使うことはなかった。一族にとって螺旋角は誇りであり、矜持だ。それを削ることさえしなかった結果として、立派な形見が出来上がったのだ。

 タヒールは地面から小石を拾い上げ、自らのまだ発達していない額の突起を微かに削る。非力な彼でも容易に粉末状に出来るほど柔らかいそれを削ると、額に滲んだ血はすぐに癒えていく。残ったのは、痛みと使命感だけだった。

 削った粉を少年の傷口に被せ、水を掛けて染み込ませる。それだけで、何事もなかったかのように傷は消えていく。綺麗な肌が現れた数秒後に、少年は意識を取り戻した。


 その角は、どんな病気や怪我も治す万能薬になる。それがタヒールの種族が狩られた理由だった。

 父親なら、“角無し”のために自らの誇りを削る事はなかったのだろう。それは一族を奪われた恨みでもあり、彼我の境界線を引くための行為だった。幼いタヒールに、角無しに対する恨みはない。目の前でその命が尽きそうになっているのに、助けない理由はなかった。


 タヒールはフードで角を隠し、未知の少年の方へおずおずと向き直る。


「だいじょうぶ?」

「……アンタが、手当てを?」


 金色の瞳が見開かれる。藍髪の少年は自身の身体に傷が無いことを確認すると、夢でも見たかのような顔になる。彼は少し気恥ずかしそうに礼を言った。

 アサドと名乗るその少年はタヒールとそう変わらない年齢だが、痩せて背が低いため幼く見える。タヒールが採ってきた果実を差し出すと、空腹に耐えきれなかったのか躊躇なく口に運んだ。数度の咀嚼の後、アサドの表情が緩む。


「これ、美味しい……!」

「まだいっぱいあるよ。いる?」


 タヒールはすぐさま木に登り、何個か赤い果実を捥いで渡す。水脈のほとりに並んで座り、共に果実を食べながら外の様子を眺める。普段と変わらない荒野が広がっているだけだ。果実を食べ終えたアサドが、ゆっくりと口を開いた。


「アンタ、ここで1人で暮らしてるのか?」

「父さんは最近いなくなった。ここには僕しかいないよ」

「……そうか。ごめん、良くない質問だった」

「別にいいよ。それに、ずっと退屈だったんだ。だから遊ぼうよ、アサド」


 数年間の孤独を過ごしてきたタヒールにとって、その出会いは千載一遇だった。滅多に動物が寄り付かない漂流地に辿り着いた立派な客人だ。一緒に遊んで、友達になりたい。アサドと砂原を駆けながら、タヒールは未知に高揚していた。


 二人は、すぐに打ち解けた。草地に寝転がり、全身で緑を浴びながら遊び疲れた身体を癒す。

 太陽は徐々に近くなって遠くの砂原に沈んでいく。黄昏が水面を紫に染め、灯りのない荒野に夜が来る。


「……そろそろ帰らないと」


 アサドは名残惜しげに起き上がると、鞄から取り出した瓶でオアシスに流れている水を掬う。水源の少ない荒野にとって、綺麗な水は貴重な資源だ。小柄な身体で運べる限りの量を汲み、鞄にしまっていく。


「おふくろが病気なんだ。薬は高くて買えないし、村の井戸水も汚れてる。せめて綺麗な水を飲ませてやりたくて!」

「手伝わせて。水ならたくさんあるから」


 協力して水の入った瓶を鞄に詰め込んでいく。作業に集中していたアサドが漏らした言葉を、タヒールは聞き逃さなかった。


「……本当は“秘薬”も持ち帰りたかったんだよ。漂流地に行けばどんな病気でも治せる薬があるって話を信じて、一人で飛び出してきたんだ。結局、ただの噂話だったんだろうな」

「お母さん、そんなに酷い病気なの?」

「医者も頭を抱えてた。『奇跡でも起こらない限り、我々にはどうしようもない』んだと」

「起こせるかもしれないよ、奇跡」


 タヒールは既にフードを脱いでいた。淡い光が夕暮れをぼんやりと照らして、アサドの視線はタヒールの短い角に移る。大きな金の瞳が、驚きに見開かれた。


 案内した穴倉の隅で、タヒールは父親の螺旋角を拾い上げる。一度も削られなかった種の誇りの象徴だ。抱えているだけで、タヒールは父の熱がまだ残っているような錯覚を感じていた。

 アサドは眼を擦り、探し求めていた秘薬の原料に手を伸ばそうとする。その指が悲願に触れる瞬間、動きが止まった。


「……ごめん、これは受け取れない」

「なんで? この角があれば、アサドのお母さんの病気だって治せる。この薬が欲しくてここまで来たんじゃないの?」

「これ、タヒールにとって大事な物だろ。誰かの形見じゃないのか? それなら、お前が持つべきだよ」

「……いいんだよ。僕がアサドに渡したいんだ。これを手に入れるためにここに来たんでしょ?」

「そうだよ。そうだけど! 命を助けてもらった上に形見まで貰ったら、お前と対等な友達で居られなくなる気がするんだよ!」


 対等な友達。想像だにしない言葉に、タヒールは凍りついたかのように静止する。思わず落としそうになった螺旋角を慌てて受け止めると、孤独な少年は熱に浮かされたかの如く何度もその言葉をリフレインする。


「……わかった。でも、アサドのお母さんの病気は治したい。だから、こうするよ」


 二度目の研磨は手慣れた物だった。タヒール自身の柔らかい角を石で削ると、純度の高い粉末を不純物が混ざらないように拾い集める。水を加えて捏ねれば、それは粘土めいた柔らかさになった。


「成長したものよりは効きにくいかも。これは恩を売りたいわけじゃなくて、僕がやりたいからだよ」


 微かな逡巡の後、アサドはタヒールの提案を受け入れた。作った薬を袋に入れながら、涙ぐむ様子を必死に隠そうとしている。


「……ありがとう。この埋め合わせは、絶対する」

「それで君の想いが楽になるなら、お願いしたいことがあるんだ。また遊びに来てよ、アサド」

「言われなくても来るつもりだよ。友達だろ?」


 帰り支度を終えて漂流地から去ろうとするアサドに、タヒールは手を振り続ける。彼がアサドにした頼みは、アサドが拍子抜けするほどシンプルなものだ。


『外の世界の様子を、教えてほしい』


    *    *    *


 漂流地が地図に載らないのは、その特殊な環境にも一因がある。ただのオアシス以上に綺麗な水と無数の植物があるのは、ヌール・バシャルの光によってもたらされる浄化によるものが大きい。

 角無しに存在を知られてしまった時、ヌール・バシャルは別のオアシスに棲家を変える。タヒールは、アサドのために漂流地の場所を変えなかった。


 三日月みかづきの形が鮮やかに映る翌朝、アサドは漂流地を訪れる。荒野は迷宮に近いが、目的地に向けて真っ直ぐ辿り着くのは比較的楽だ。彼が訪れる前夜に、タヒールは自らの光を宵闇に晒す。何もない荒野を照らす微かな蛍火が、二人の符号だった。


「海の向こうには別の国があるんだ。そこは漂流地みたいに緑がたくさんあって、風が気持ちいいんだって。うちの村に来た船乗りが言ってた!」

「砂混じりじゃない風?」

「そっか。ここじゃ他の島も見えないよな。そう思って、お前に渡したい物があるんだよ!」


 アサドが鞄から取り出したのは、花の種入り袋と手持ちの望遠鏡だ。どちらも舶来品で、アサドが船乗りから買った物らしい。


「これがあると俺の村まで見えるし、何かあった時の警戒ができる。きっと退屈しないと思うんだ」

「この種は?」

「あー、それは……。向こうの国では、その花を感謝の印として送るらしい。カンパニュラ、だったかな」


 要領を得ない回答にタヒールが困惑していると、アサドは小さな声で呟く。


「花が用意できなかったんだよ。育てるための水も少ないし!」

「ここで一緒に育てようよ。花が咲いたら、アサドにあげるね!」

「それだと意味なくないか? まぁ、いいけど……」


 それからも、アサドは理由を付けては漂流地に来るようになった。母親の病状が快復しつつあること、村の様子、船乗りたちから聞いた世界の話。綺麗な水を汲みながら、アサドは様々なことを話す。


 タヒールにとって心地良い時間は長く保たなかった。いつもと同じ三日月の明朝、その日現れたアサドの姿は、痛々しい血と傷に染まっていた。手当てをしようと駆け寄るタヒールを無言で制し、アサドは血に染まる右脚をかばうように倒れた。

 獣による傷ではない。真っ直ぐな切り裂き傷は、刃物によるものだ。


「すぐに逃げろ、タヒール……!!」

「誰にやられた?」

「密猟者、だ。村で噂が広まって、お前について知ってる情報を吐かされそうになった。なんとか嘘をついて逃げたけど、このザマだよ」


 砂原にはアサドが流した血が点々と痕跡を残している。この痕を辿って追跡された時の時間稼ぎのためか、アサドは迷宮めいた砂漠を迂回しながら漂流地に辿り着いたのだろう。生々しい傷跡は砂によって化膿しかけている。

 せめて止血だけでも。タヒールは自らの危険も顧みずに友人の治療を行おうとする。角を削ろうと石を手にした瞬間、視界の端に曲刀を構えた剣呑な一団が映った。


「あいつらか! あいつらに、アサドは……」

「頼む、俺なんか放って逃げてくれ。……そうしないと、俺が自分を許せなくなるんだ」

「……ごめん」

「タヒール、逃げろ!!」


 それからのことを、タヒールはあまり覚えていない。脇目も振らず逃げた先で最後まで持っていたのは、アサドに貰った望遠鏡と花の種だけだった。


「父さん、アサド、ごめん……」


 タヒールに父親の誇りを取りに戻る勇気は無かった。悪意を持った角無しに遭遇したのは初めてで、今は抗う術が無い。逃げる事が精一杯だった。

 自分が友達になどならなければ、アサドが傷つくことはなかった。タヒールは恐怖に震えながら、父親の教えを思い起こす。関わらないのが、互いのためなのだろう。

 彼は再びフードを目深に被り、隠者のように身を隠す。もう訪れないと思っていた孤独がひどく呆気ない形で再訪し、角無しが辿り着かない場所を求めて砂原を彷徨い続けることを余儀なくされた。

 オアシスを探す旅の最中、タヒールは祈り続けた。土壇場で自身の命を救ったアサドが、今も無事で過ごしていることを。

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