【短編】雨のまにまに水溜まり

Tanakan

『雨のまにまに水溜り』


「待ち合わせはいつも違う喫茶店にしましょう」


 それが僕たちの数少ない約束のひとつだった。


 京都市北区から少し外れたこの街には数多くの喫茶店がある。


 そのため彼女との約束を守るのは容易いことだった。


 大して変化のない暮らしで些細な変化が目に見えてわかる。


 だけど大きな変化はいらない。


 それが何よりも大切であるのだ。日常の延長戦だけでいい。


「とても古ぼけていて、それでいて綺麗なの」


 古いと新しいは対義であるけれど、古いと綺麗は相対する事なく互いの魅力を引き立てる。


 喫茶店であるならば尚更だ。


「わかった」


 そう僕は携帯端末に返事をしてバスへと乗り込む。


 目的の場所まで乗り継ぎはなくバスを降りて僅かに歩くだけなので、気持ちは楽だ。


 雲ひとつない空は、誰かの歌う心地よい歌のように視界の果てへと繋がっている。


 風も僅かに湿り気をまとっているけれど。シャツ一枚でも心地よい。


 それは春と梅雨の間の境界が曖昧に訪れる街へ季節の変わり目を知らせる合図であった。


 ゆったりとバスに揺られて三十分。うたた寝したりしなかったり、現実と夢の境界もまた曖昧になる。


 バスを降りて案内に従って幾度か角を曲がってみると目当ての喫茶店があった。


『雨のまにまに』


 一枚板に金の枠で装飾されたその看板の端っこに猫がにゃぁと鳴いている。


 上手いとも下手とも言えないその絵柄は不思議な生命力を宿していて、生きていると言われても納得してしまっただろう。赤茶けた木造の古民家ほどのその喫茶店は、古くてそしてよくよく整備されていて綺麗だった。


 なるほどこれは良い喫茶店だ。


 中で待っているはずの彼女のもとへ僕は意気揚々と喫茶店の扉を開ける。


 くすんだ磨りガラスからは中の様子は見えない。小さく四つに区切られたそのドアを開けるとカランと大きな鐘の音がした。


 やぁ。と僕は右手を挙げる。


 正面のこの店の色に溶け込んでいるテーブルに彼女は座っていた。


 いつも淡い色で小綺麗にまとまる彼女は、何故かスッポリとタオルケットを頭から被っている。


「どうしたの?」


 驚いた僕がそう尋ねると彼女はフルフルと頭を振った。小さな動物みたいな仕草に僕は頬を緩めてしまう。


 コポコポと音がして左隣の長いカウンターに目をやると、白髪の小さく丸い老婆がサイフォンコーヒーを器用にかき混ぜている。


 髪留めは新緑よりも明るい青葉か鼈甲べっこうで固めてある。店内で唯一輝く装飾だった。


 老婆はこちらを見もせずにかき混ぜられるコーヒー豆を目を伏せたまま静かに見ている。


「ねぇ。一度外に出てみてよ」



 彼女は力無く僕に言った。


 何事かと僕は眉間にシワを寄せ、言われるがままに一度店の外に出る。


 一瞬、空の中へと投げ出されたかと思った。それ程辺りは蒼くその先は見えない。


 驚き口を開けようとすると容赦なく周りの青色は口の中に流れ込んできた。


 鼻先が痺れるほどに塩辛い。


 海水だと気がついた時に、辺りを泳ぐ名前も知らない魚が目に入る。


 青色に負けない黄色や赤色の原色をテラテラと泳ぐ魚たちがいた。


 僕は慌てて店のドアを掴み、浮かび上がり始めた自分の体を引き寄せて店のドアを開け喫茶店の中へと戻る。


 すると店のカウンターにはふっくらと膨らんだ柔らかそうな白いバスタオルが重ねてあった。


 僕はそれを頭からズッポリ被り、体中を拭いて滴る水滴をあらかた拭き取る。喫茶店に入った時に見た、彼女と同じ姿になった。


「ねっ。百聞は一見にしかずでしょう?」


 彼女はケラケラと笑う。


 まだ状況は飲み込めていないけど、僕もつられて笑った。もはや笑うしかない。


 僕はもう一度振りかえり、磨りガラスの向こうを見る。体に着いた水滴がボトボト床に落ちた。


 魚が視界を覆い、目の前を横切る。


 体は銀色にテラテラ濡れていて、店の中の淡いオレンジ色の光すらも反射した。


 次に僕はカウンターの向こうにいる老婆を見る。


 サイフォンの上半分は外れており、受け皿に溜まるコーヒーは黒い惑星のように揺れていた。


「ここは海底ですか?」


 僕が答えると静かに老婆は首を振る。


「とりあえずコーヒーでもいかがでしょう?」


 はぐらかされて僕は口を尖らせる。しかしそのコーヒーが立てる香りが煙と共に隙間無く部屋の中を包むと僕は居ても立っても居られずに彼女の前へと戻ることにした。


 彼女はスッポリとバスタオルに包まったままである。


 ソーサーに乗せられたコーヒカップがカタカタと音を立て僕らの前に運ばれてきた。

 

 目の前にすると甘くとも苦いとも思える香りが、フワフワと浮かんできて頭の周りを見えない雲が漂っている。


 目の前にいる彼女もまた鼻頭を天井に向けながら同じような表情をしている。


 何か理由があって、この喫茶店は海中にあり、僕も彼女も迷い込んでしまった。


 もしくは入った瞬間に海中へ沈んだ


 彼女と僕が入った時間差は痛烈で致命的に、その事実を否定していたが、それはどこか違う場所にに置いておくことにした。


 でも1つだけ良いことがあるとするならば、漂う素敵なコーヒーの香りはいつまでも店内を漂っているということだ。


 それだけは理想的である。


 カップを持ち上げ口につける。適温のコーヒーは唇よりも熱い。


 まるで以前から口の中に居ますよ。と言わんばかりに滑らかに舌の上を通る。その時に先ほどまで自由気ままに立ち上っていたコーヒの香りは口の中から出ようと、鼻の穴から抜けていく。


 黒く濃い液体だ喉を通り抜けた後で、胃の中から口や鼻までコーヒーの香りに包まれていた。そしていくら吐き出そうとも外界はコーヒーの香りに満たされた部屋である。


 体が隅々までコーヒーに包まれる。まるで呼吸をするかのように。


 目の前の彼女はいつしか両手を広げて天を仰いでいる。その気持ちはとてもよく分かる。彼女の後ろに見える丸い窓は、十字に黒く茶けた木材で区切られていた。


 奥は果てしなく蒼い。空の青さとは違う何処か底の見えない秘密主義の蒼色だ。コーヒーの香りに包まれているとここが海の底でも良い気がした。むしろ外界から隔てられて良いかもしれない。残りの空気の事は気になるけども、それでも別段パニックになる程でもない。


 コーヒーを飲み干した目の前の彼女はソーサーを指で撫でながらどこか退屈そうである。


 お互いに呑気ではあるようだ。


 僕もコーヒーを飲み終わってしまったので、ここの喫茶店にいつまでも居る訳にはいかない。


 もちろんここでずっとゆっくりしたいところだけども、待ち合わせはここであって、終着点ではない。


「さてそろそろ行こうか」


 僕が彼女に言うと、そうねとだけ返事が返ってきた。


 とりあえず店を出たら浮上しなければならない。息が途切れるほど深かったらどうしようかと、一瞬悩んだが、先ほど外に出た時に無事戻って来れたことから、水圧には耐えられるし、これだけ外が明るければ水面も近いと思う。


 確かに僕には勝算はあったのだ。


 ごちそうさまでした。僕と彼女は老婆にお礼を言った。お粗末様でしたと老婆は答える。


「にわか雨は通り過ぎました。外は良い天気です」


 そうとも言った。


 僕と彼女は顔を見合わせる。そしてふたり合わせて紙の札を一枚払って外へ出る。


 老婆の言った通り青く透き通った空は何処へでも見えてしまいそうなほど澄んでいる。喫茶店の周りはぐっしょりと濡れていた。看板からは水が滴り落ちている。


 目の前の路面も雨上がりのそれだ。


 しかしそれはキッチリと喫茶店の目の前だけで、少し間を置いた隣の住宅は雨の余韻は微塵もなくてカラカラとひび割れそうなほど乾いている。


「普段、水が溜まらない所に水が溜まるから水溜りと言うのかもね」


 彼女がポツリとそう言った。


 なるほどと僕はわかった風に答える。


 雨のまにまに。


 どうやら不思議とこの喫茶店は雨が降ると水が溜まるらしい。それも海に沈んだと錯覚するくらいに。


 だけどもなぜ魚が泳いでいたんだろう?


 僕が首をかしげると彼女は勝ち誇ったように、両手を腰に当て踏ん反り返った。


「あれを見なさい。私はずっと気が付いていたわ」


 彼女の指差す方向に蒼にも、負けない赤や黄の原色を身にまとった魚たちがいる。そして、屋根の天辺には銀色をした長い長い魚が横たわっていた。


「今日は水族館には行けないね」


 今日の目的地は水族館だったのにな。と僕は残念に思う。


「ならば、回転寿司でも食べましょう」


 彼女はお魚を見たらお寿司が食べたくなったらしい。


 一足早く歩き出した彼女の後を僕は追う。


 雨のまにまに水溜り。


 海の底で見た魚、そして水溜りに沈んで飲んだコーヒーは格別だった。これから雨の多い季節になる。


また来ようね。僕が彼女にそう言うと彼女はコクリとうなずいた。


 雨の間に間にまた来ましょう。


 そうとも言った。

 

 空を見上げると雨の季節の匂いをその身に纏って小さな雲が流れていた。


『雨のまにまに水溜り 了』

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