ID‐夢貌ノ澱‐

雨愁軒経

真如ノ章 -序-(1)

 恥の多い人生だったと言えたのなら、どれほど楽だっただろうか。

 そこに他責は介在せず、すべて己のイドから生まれるもので完結したのだと、断言することができたのなら。


 畳の上に正座をして本を読んでいた匣中こうちゅうすばるは、よく知った足音に目を細めた。無精髭に痩せぎすな体。瞳が狐のようなぎらつきをしていなければ、棺桶に入ったガン患者と言っても判らないかもしれない。


「594番、出ろ」


 スーツ姿の若い――といっても三十代後半の――男がこちらを睨みながら、忌まわしき番号で昴を呼ぶ。本来刑務所というのは更生施設であるため獄死を連想させる番号は避けられているが、こと昴に対しては、これが民意とばかりに貼られた願望レッテルだ。

 昴は抵抗することもなく、本を足下に置いて操り人形のようにすっくと立ちあがる。両手を挙げて敵意がないことを示すと、スーツの男は舌打ちをした。


「おはよう徳山くん。来訪は明日だと思っていたが」

「今日は何の本を読んでいたんだ」


 努めて気さくに振る舞った挨拶を無視し、徳山は昴の読んでいた本を一瞥する。どうやら急な来訪の理由は後ろの刑務官らには聞かれたくないらしい。


「サイコパス診断だ。だがつまらなかったよ。所詮は論理クイズだな」

「お前がサイコパスだから解けたんだろう」

「解ければサイコパスか? ならばこの日本には少なくとも三万人のサイコパスがいることになるな」

「三万?」

「本の売れ数だ。そのくらいは察しろ。そんなだから彼女と喧嘩するんだよ」


 図星の指摘に徳山が目を剥く。それに昴は小さく肩を竦めて、彼の足や顔を順に指差した。


「ここに来る時の足音がいつもと違った。それに加えて、俺が諸手を挙げて見せたとき君は舌打ちをした。喧嘩の理由は知らないが、その決着は彼女の一点張り。『はいはい私が我慢すればいいんでしょう』と表向きの降参をされたのが、先の俺とダブったというところかな」

「…………本当にお前は気色悪いよ」

「よく言われる」


 物心がつく頃からずっと、その言葉には晒されてきた。どちらの岸へ身を置いても白い目を向けられてきた。一番の問題は、岸を行ったり来たりすることが自分の意思ではなかったことだ。

 もっとも川から飛び出して大海原に出た今、より大きな波風が立ち、結果として刑務所にいることになったのだが。


「やっぱりおかしいよな」


 面会室へと向かう道すがら昴が首を傾げると、徳山はげんなりとしながら「何が」とガンをくれてきた。


「サイコパス診断だよ。常人に理解できないからサイコパスであるのに、テストとして言語化できてしまったらそれはサイコパスではないだろう。そもそもサイコパスが皆あのような回答を出す訳じゃあない」

「じゃあ、どうだったら満足なんだ?」

「例えば、マンションの窓から殺人の現場を見てしまった時、犯人がこちらを指差すという問題」

「それなら知ってる。階数を数えているんだろ」

「何故その殺人犯は、殺しの最中に余所見をしているんだろうか」

「……知るかよ」


 徳山は拳で太ももを忙しなく叩きながら、しばらく進むと、面会室の扉を開けて昴を押し込んだ。

 そこで待っていた『面会者』は徳山の先輩であり相棒の杉沢だった。こいつはなかなかどうしてポーカーフェイスであるから、話していて面白い。


「福田管理官はいないんだな」

「取り調べをしに来たわけではないからね」


 相変わらずのアルカイックスマイル。ともすれば自分よりもずっと、何か後ろ暗いものを隠しているのではないだろうか。

 席に着き、ガラス越しに杉沢と向かい合う。徳山はこちら側での監視役だ。


 昴が先を促すと、杉沢は懐から何枚かの写真を取り出し、拡げて見せた。

 そこに映っているのは、無惨な姿をした遺体だった。スーツ、作業服、私服とてんでばらばらではあるが、一様に顔の原型が留められていないほど潰され、腹部から腰本にかけても抉られている。どす黒く爛れた肉塊から覗く骨盤の白がおぞましい。

 気になるのは、どれも背景が雑草交じりの土であることか。


「連続殺人か。何をして欲しい?」

「相変わらず耳の痛いことを言うね」

「耳が痛いという自覚はあるんだな。あんたたちにとっては真実なんてどうでもよくて、表向きの解決を迎えられれば真犯人が野放しだろうと関係がない。それで平気な面をしているのだから、俺からすればあんたたちの方がよっぽどサイコパスだよ」

「元気そうで安心したよ」


 杉沢は微笑みをぴくりとも動かさないまま、話を戻すと言わんばかりに写真の上を指で叩いた。


「この犠牲者たちは、人間に殺められたのではないんだよ」

「熊か? それにしては腹が食われていないな」

「熊ではない。呪いだよ」

「呪い? 呪いと言ったか。警察が? アッハハハハハハ!!」


 手を叩いて笑うと、徳山から椅子の足を蹴られた。そこに籠められた怒気の温度感と、ガラスの向こうの杉山の糸目の隙間から覗く眼光の鋭利さから、次第に冗談や酔狂ではなさそうだと察して、昴は手を下ろした。


「……これを俺に見せて何がしたい」

「現場はとある山中の廃ダム。足を踏み入れるとたちまち発狂し、神隠しに遭ったように姿が消え、翌朝にはこのような姿となって発見されるんだ」

「俺に調べろと?」

「話が早くて助かるよ。常人では発狂してしまうのなら、異端である君ならば……というのが上の立てた仮説だ。実質的な死刑宣告と受け取ってもらって構わない」


 それを聞いて昴は、けひっと咳き込むように口角を吊り上げた。

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