第35話 冬の前の約束

 「あの...みなさん!」静まり返っていた部活動室に、千紗が突然立ち上がった。普段より一段高い声に、ヘアピンまでもが立ち上がる勢いで傾いている。


 今日の彼女は珍しく制服をきちんと着こなし、いつもの染料の染みが見当たらない姿は、どこか違って見えた。


 「えっと...その...」制服の裾を緊張気味に握りしめ、言葉も途切れがちだ。集まった部員たちは互いに顔を見合わせ、いつもは落ち着き払っている白銀先輩までもが会議資料から目を離した。


 「わ、私、みなさんに謝らなければいけません!」千紗は深々と頭を下げた。「中間テストの成績のことで...固定の部活動以外は、しばらく参加できなくなってしまいそうです」


 教室は静寂に包まれた。僕の席からは、佐藤先輩が眉を寄せる様子が見え、中島先輩はゆっくりと眼鏡を外し、今の言葉を確かめるように耳を傾けていた。


 「テ、テスト?」中島先輩は眼鏡を押し上げ、信じられないという様子で尋ねた。「中間テストのこと?」


 「はい...」千紗はまだ深く頭を下げたままだった。


 「あのね...」佐藤先輩が呆れたような声で続けた。「この前、今度こそ大丈夫って自信満々に言ってなかった?」


 「本当にすみません、お父さんが...」千紗の声は次第に小さくなっていく。「次の定期試験もこんな成績だったら、部活を制限するって...」


 白銀先輩は小さくため息をつき、立ち上がって千紗の肩に手を置いた。「まずは座りましょう」


 つい先ほどまで、僕は千紗に自分の状況をどう説明しようかと悩んでいたというのに、事態は予想もしない方向へ進んでいた。


 「謝ることはないわ、千紗。誰にだってそれぞれの事情があるものよ」


 白銀先輩は僕の方へ視線を向けた。



**



 「では、今日の会議はここまでとします」白銀先輩の声が、僕の意識を現実へと引き戻した。


 廊下はすでに夕陽に染まり、十一月の風が窓の隙間から冷たく忍び込んでくる。千紗の後ろ姿を見つめていると、いつものように元気よく先を行く様子はなく、ゆっくりと自分の荷物を片付けている。


 白銀先輩が私の状況を説明してくれたにもかかわらず、千紗は何か考え事をしているようで、目が虚ろだった。


 「千紗」


 帰ろうとする彼女を呼び止めた。


 「あのさ」


 眼鏡を少し直し、できるだけ普段通りの調子で話そうと試みた。

 

 「一緒に勉強しないか?」


 「え?」


 「僕も試験の準備をしてるし」少し言葉を切り、喉の渇きを感じながら続けた。


 「化学なら、教えられると思うんだ」


 千紗は瞬きを繰り返し、僕の言葉の意味を理解するのに時間がかかっているようだった。今日の彼女のヘアピンは、いつもより随分歪んでいる。きっと先ほどの謝罪の時に傾いてしまったのだろう。


 「あ、つまり」また眼鏡を押し上げる。この仕草は緊張すると無意識に出てしまう。「僕はエリートキャンプの準備があるけど、一緒に勉強するなら...たぶん、お互いにとってプラスになるんじゃないかって」


 半開きの窓から冷たい風が入り込み、千紗が肩を縮めるのが見えた。今日の彼女はいつものような青いマフラーも着けておらず、制服もきっちりと着こなしている。実験室を走り回っているいつもの姿とは、まるで別人のようだった。


 「でも、忙しいんでしょう?」普段より随分小さな声で言った。「エリートキャンプの試験、すごく難しいって聞いたけど...」


 「確かに忙しいけど」認めながらも、思わず口元が緩んだ。「君が一人で悩んでるの見てると、なんだか...変な感じがして」


 その言葉を口にした時、自分の耳が熱くなるのを感じた。こんなにも普通の言葉なのに、不思議な感覚だった。


 「本当にいいの?」千紗の声が、一瞬でいつもの生き生きとした調子を取り戻した。


 「大丈夫...だと思う」 自信に満ちた態度で答えようとしたのに、結局最後まで言い切れなかった。「まあ、やってみようよ」


 「うん」


 僕たちは特に何も言わず、ただ視線を合わせて微笑み合った。

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