第34話 空の階調
文化祭が終わって一週間後、僕は化学実験室で実験レポートの整理をしていた。
窓の外では銀杏の葉が黄色く色づき散り果て、むき出しの枝が冷たい風に揺られている。寒風に耐えかね、静かに窓を閉めた。
「エリートキャンプか...」机の上の募集要項を見つめながら、小さくため息をついた。各高校から化学の優秀な生徒が一人選ばれ、キャンプでの競技や試験に参加できる。僕にとって、学校からの推薦を得ることは長年の目標だった。
工芸部の文化祭での売上報告が出ていて、「ブルーリフィルキット」は初日で完売、好評を博し、「ゆらぎノート」もあと数冊を残すのみだった。
実験ノートを開くと、藍染めの染料が少し付着していた。
「白銀先輩に相談に行かないと」僕は机を片付け、部室へ向かった。期末試験まであと一ヶ月半、時間の使い方を見直さなければならない。
廊下は特別静かで、自分の足音だけが響いていた。部室の前で一瞬立ち止まり、軽くノックをした。
「どうぞ」白銀先輩の、いつもの優雅な声が聞こえた。
ドアを開けると、白銀先輩は窓際に立っていて、夕陽が彼女の銀髪を柔らかな金色に染めていた。手にしているのは工芸部の成果報告書のようで、整然とした文字は彼女の印象そのままだった。
「柊原さん?」彼女が振り向き、穏やかな微笑みを浮かべた。
「失礼します」僕は部屋に入った。
「文化祭の成果報告はまとめ終わりました」白銀先輩は僕に座るよう促しながら言った。「工芸部の活躍には目を見張るものがありましたね」
「はい、みんなの頑張りのおかげです」少し躊躇いながら続けた。「実は今日は先輩に相談があって」
彼女は静かに僕を見つめ、言葉の続きを待っている。
「最近...」深く息を吸い込んだ。「化学科のエリートキャンプの募集が始まるんです。そこで良い成績を残せれば、進学にも有利になって」
「なるほど」彼女は手元の書類を静かに置いた。
「それで、考えていたんですが...」言葉が喉まで出かかって、急に詰まってしまう。「申し訳ないのですが、通常の部活動以外の時間は、もう参加が難しいかもしれません」
「ええ、分かりました」白銀先輩は机の上の書類を整理しながら優しく言った。「この決断をするまで、随分悩んだでしょう?」
「はい」僕は頷き、急に肩の荷が軽くなったような気がした。「ありがとうございます」
「でも」彼女は微笑んで、「部活には来てくれるんですよね?」
「もちろんです。それに実験室の方で何か問題があれば、いつでも協力させていただきます」
**
部室を出る頃には、夕陽が空の半分を赤く染めていた。バスケットコートからは断続的なドリブルの音が聞こえ、三年生の教室にはまだ幾つか明かりが灯っていた。
今一番気がかりなのは、千紗にどう伝えるかということだ。彼女は一見そそっかしく見えて、意外と繊細な心の持ち主なのだ。
「あ、柊原君!」
そんな彼女のことを考えていた矢先、後ろから千紗の声が聞こえてきた。振り向くと、藍染めの布を抱えた彼女が立っていた。ヘアバンドは歪んでいて、またも何か実験に夢中になっていたようだ。
「こんな遅くまで学校にいたの?」
「うん!新しい糸の撚り方を考えていたの」千紗は目を輝かせながら話し始めた。「編み目を少し変えてみたら、もっと模様が鮮やかに出るんじゃないかなって。柊原君、明日放課後一緒に...」
「あのさ」思わず言葉を遮ってしまったものの、どう切り出せばいいのか分からない。「実は...」
「あっ!」彼女が突然声を上げた。「しまった、中島先輩に資料を届けるって約束してたんだ!」
慌てて走り去っていく彼女の後ろ姿を見て、思わず笑みがこぼれた。こんな千紗に、実験を手伝えなくなることを話したら、きっと頬を膨らませて「ずるいよ」と言うだろうな。
今週の実験データを整理しながら、エリートキャンプの資料を重要度順に分類し始めた。
pHの調整は本当に染色の安定性に影響するのだろうか。今でもよく分からない。
そんな漠然とした思考に浸っていると、実験室のドアが静かに開いた。
「柊原君、まだいたの」顔を上げると、中島先輩がドアの前に立っていた。今日も変わらず細いフレームの眼鏡をかけ、黒い長髪は首の後ろで緩くまとめられている。この寒さの中でも薄手のニットカーディガンだけを羽織り、きちんと整理された資料を抱えていた。
「これ、来月の校外展示会の企画書。興味があったら目を通してみて」
「あ、それは...」
躊躇っていると、中島先輩は何かに気付いたように眼鏡を押し上げた。「白銀から聞いたわ、エリートキャンプの件」
「先輩も知ってたんですね...」
「ええ」彼女は窓際に歩み寄り、徐々に暗くなりゆく空を見つめた。「千紗のことは心配しなくていいわ」
自分の気持ちを見透かされていたとは。
確かにその通りだ。最近は各々が忙しくて、ゆっくり話す機会もなかった。彼女は相変わらず実験道具を抱えて部室と実験室を行き来している。会うたびに「柊原君、見てこれ!」「この色、特別でしょ!」と目を輝かせる千紗に、切り出すタイミングが掴めないでいた。
「そうだ」中島先輩が突然言った。「明日の午後、工芸部の定例会議があるわ。来れる?」
「はい、参加します」
中島先輩を見送った後、机に広げたノートを見つめた。そのページには前回、千紗が誤って落とした藍色のインクの染みが残っている。慌てて拭き取ろうとして、かえってインクが滲んでしまったのだ。今見ると、その滲んだ青は確かに空の階調のような色合いを帯びていた。
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