第33話 番外編 ―甘い刻の隙間で―
放課後の空が突然雨を落とし始めた。
初冬の冷たい風が、傘の隙間をすり抜けて頬をかすめる。
傘を差して帰路に就く。雨は小降りだが、空気はしんと湿り気を帯びていた。新しくできた洋菓子店の前を通りかかると、ガラス越しに見覚えのある姿が目に留まった。
千紗だ。
窓際の席に座って、ショーケースのケーキを食い入るように眺めている。ベージュ色のコートを膝の上で整えたまま、袖口から少しだけ見える白いマフラーをときどき押さえる仕草が目につく。ドアを押すと、小さな鈴の音と共に甘い香りが漂ってきた。
「こんな所で会うなんて」
振り向いた千紗は、驚いたように目を見開いた。
「柊原くん!」
うっすらと湿った髪を少し気にしながらも、やわらかな表情を浮かべている。
「ここ、新しいお店?」対面の席に座る。
「うん!」彼女は頷きながらメニューをめくる。「さっき通りかかったら、つい誘われちゃって」そう言って困ったような表情を浮かべる。
「でも、どれにしようか迷ってて...」
「何を迷ってるんだ?」
「ほら」メニューを指差す。「このいちごのミルフィーユも美味しそうだし、抹茶のムースも魅力的で。それに今日は季節限定のメープルプリンまであって...」
普段は部活で的確な判断を下す彼女が、スイーツ選びでこんなにも悩むなんて意外だ。
「全部頼めばいいじゃないか」何気なく言ってみる。
千紗が目を見開いた。「え? でも…でもそんなに食べられないし! それに…」こっそり値段を確認して、「高くなっちゃう」
テーブルの上に置かれた彼女の手はかすかに濡れていて、傘を畳んだ直後だということを思い出させる。
「そうか」メニューに目を通す。「じゃあ、こうしないか。僕も興味があるし、一人一つ選んで分け合うってのは?」
「本当にいいの?」目を輝かせた後、すぐに眉を寄せる。「でも柊原くん、甘いもの苦手だよね?」
「たまには構わないさ」
「じゃあ…」突如として意地悪げな笑みを浮かべる。「私、いちごのミルフィーユにする! だって柊原くんは抹茶にしそうでしょ?」
「なぜそう思う?」
「だって、柊原くんって『大人』な抹茶が似合いそうじゃない!」僕の眼鏡を直す仕草を真似て見せる。
「そうかな」
「ううん」より一層楽しそうに笑う。「なんとなくそうしそうだなって思っただけ」
典型的なステレオタイプというやつだな。
「そうか」メニューを見る。「じゃあ、メープルプリンにするよ」
「え?」今度は彼女が驚いた顔をする。
「たまには意外性も必要だろう」
「うん、それにしよう」千紗は目を細めて笑った。
スイーツはすぐに運ばれてきた。千紗はミルフィーユを口に運びながら、どうしても僕のプリンが気になる様子だ。コートの袖を少し引き上げる動作は、クリームが付くのを気にしているのだろう。
「食べてみる?」
「いいの?」また目が輝く。「じゃあ私のミルフィーユも分けるね!」
プリンを小さく掬い、自分のケーキを几帳面に二等分する彼女を見ながら、ふと先ほど通り過ぎた映画館のことを思い出した。新作のミステリー、確か最近話題の小説の実写化だ。
そういえば、普段の会話と言えば部活のことばかりだ。時々他の話題になることはあっても、彼女が日常で何を楽しんでいるのか、実は知らない。
「あの…」僕は少し躊躇う。「この後、予定は?」
「ん?」千紗はプリンを口に含んだまま、「ないけど、どうしたの?」
「映画館で新作やってるんだけど」できるだけ自然な口調を心がける。「見に行かない?」
千紗が固まった。フォークが宙で止まる。「今から?」
「時間があれば、だけど」
千紗は首を傾げて考え込む。「『
今度は僕が驚いた。「知ってるのか?」
「もちろん!」突然生き生きとした表情になる。「私、この作者の小説大好きなの! しかも今回すごい俳優さんが…あっ!」急に口を押さえる。興奮しすぎたことに気付いたようだ。
「え? 柊原くんもこの作家さん好きなの?」フォークを揺らしながら、キラキラした目で尋ねてくる。
「ああ、何冊か読んだ。推理の展開が緻密で面白い」
「でしょでしょ! それに人物描写がすごく丁寧で」最後のケーキを口に運びながら話を続ける。「日常の些細なことなのに、読んでるうちに引き込まれちゃうんだよね」
推理小説にこれほど詳しいとは。いつも部活では工芸一筋という印象だったから、こんな趣味があるなんて意外だ。
洋菓子店を出ると、雨上がりの空気が爽やかに感じられた。地面の水たまりに空の色が映り込んでいて、私たちは慎重に足を運び、それらを避けるように歩く。千紗は店内の暖かさを残しているのか、コートの前を軽く押さえながら小走りになるときもある。
「何時から?」歩きながら尋ねてくる。
僕は携帯を確認する。「六時半の回がある」
「じゃあ…急いだ方がいい?」千紗は時計を見る。
「慌てる必要はない」と答える。「今なら丁度いい」
映画館は商店街の角を曲がったところにある。歩いて十分ほど。道中、千紗は物語の展開を予想したり、原作小説の伏線を熱心に分析したりしていた。興奮のあまり時々言葉に詰まるたび、首を少し斜めに傾げて考え込み、表情をころころ変える。その横顔に初めて見るような一面を感じる。
映画館のドアを開けると、冷気とポップコーンの香りが迎えてくれる。
千紗が「あっ!」と突然立ち止まる。
「どうした?」
「ポップコーン…」彼女は小さな声で呟く。「映画館に来たら、ポップコーンって買うものだよね?」
「さっきスイーツ食べたばかりだぞ」
「でも」真剣な顔をして、「映画館のポップコーンは別腹だよ」
いつの間に食の専門家になったんだ、こいつは。
「分かった」カウンターに向かう。「何味がいい?」
「え? いいよ…」千紗は急に遠慮がちになる。「ただの冗談だよ」
「せっかく来たんだから」
「じゃあ…」彼女はこっそりメニューを覗き込んで、「小さいサイズで、分けっこしよう」
ポップコーンとドリンクを買い終えると、ちょうど映画が始まるところだった。すでに多くの観客が席についている。この作品の人気の高さが窺える。
「ここでいいか?」
「うん!」頷いて、慎重にポップコーンを抱えながら座る。視線をスクリーンへ向けるとき、彼女のマフラーの端が少し揺れた。
照明が徐々に暗くなっていく中、何か思い出したように突然振り向く。
「柊原くん」
「ん?」
「ずっと、ありがとう」
その声は小さかったけれど、映画が始まる前の静けさの中で、はっきりと耳に届いた。
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