第32話 藍色の距離
今日は特に寒い。
校門に着くと、生徒会の人たちが配置の最終確認をしていた。僕たち工芸部の場所は旧校舎の一階、中庭に面した場所に決まっている。実はこの位置はかなり良くて、床まで届く大きな窓から差し込む光が、藍染めの作品の深みを美しく引き立ててくれる。
「ブルーリフィルキット」の展示台は窓際に配置してある。深い色味の木製三段展示台で、最上段には特に出来の良い作品を何点か並べた。どれも朝の光を受けて、柔らかな藍色に輝いている。中段には他の完成品を置いた。同じような形をしているけど、染色の具合で一つ一つが違った表情を見せている。最下段には写真アルバムを何冊か置いてある。これは千紗が丹念にまとめた制作過程の記録だ。
「ゆらぎノート」は最も光の当たる場所を選んだ。低めの台を使って、表紙の模様がよく見えるように工夫してある。それぞれが異なる文様を持っていて、深い海のように濃いものもあれば、空のように淡いものもある。開いて展示してある見本の傍らには、何枚かの手描きデザイン画も添えてある。少々歪な線だけど、これを見ていると、あの試行錯誤を重ねた日々が思い出される。
展示台の側面には藍染めの布帯を何本か掛けてあって、朝風に揺られている。これは中島先輩のアイデアで、展示全体に動きを出すためだ。今見ると、確かにいい効果が出ている。
手に持ったコンビニの袋からまだ湯気が立ち上っている。今朝、駅前のコンビニに寄っておでんを買った。正直、あの子が今日学校に来るかどうかも分からないけど、あの性格なら絶対に無理して来るはずだ。
「熱があっても休もうとしないのか...」思わずため息が出る。
昨夜、道で会った時から様子がおかしかった。いつもの事だ。自分で立つのもやっとなのに、部活の事ばかり気にしている。普段は先生面している割に、時々誰よりも自分の事を顧みない。
「来てなかったら、僕の朝ごはんってことで」コンビニの袋を見ながらそう考える。
最後の展示台の設置を終えて、部室に広報用チラシを置きに行こうとした。ドアを開けた瞬間、見慣れた姿が机に伏せているのが目に入った。
「やっぱりか...」
机に伏せたまま、少し荒い息をしている。足音を殺しながら近づき、手にしたコンビニの袋を机の上に置く。おでんの湯気が立ち上っている。少しでも温まってくれればいいけど。
ちゃんと休むように言っておきながら、来るだろうとは思っていた。あいつはいつもこうだ。自分の事はないがしろにしても、部活の事となると人一倍真剣になる。上気している頬を見て、思わずため息が漏れる。
簡単に注意をして、ゆっくり朝食を食べるのを見守る。不満そうな顔をしているけど、少なくとも元気は出てきたみたいだ。
「市長が見学に来る時は、ここで休んでいろよ」チラシを整理しながら言う。
「だめです!」千紗は不意に顔を上げ、危うく僕の肘に額をぶつけそうになった。「これは...」
「大丈夫だ」言葉を遮る。「展示の準備は万全だから」
そう言いつつも、正直少し緊張している。確かに白銀先輩と説明の手順は確認したけど、こんな重要人物に作品を説明するのは初めてだ。
「柊原くん」
「ん?」
「がんばってね」声は少し掠れていたけど、瞳は相変わらず輝いている。
教室を出る準備をしながら、最後の確認に向かう。出る前に振り返ると、彼女はもう机に伏せていた。せめてこれで少しは休めるだろう。
校内にスーツ姿の方々が見えてきた。市の職員だろう。白銀先輩が玄関で生徒会の人と話をしていて、僕が通りかかると頷いてくれた。
「そろそろ始まるわね」先輩が言う。
屋台の前に立って、もう一度展示の位置を確認する。朝日が藍染めの布を透かして、優しい影を床に落としている。完璧とは言えない作品かもしれないけど、一つ一つにみんなの想いが込められている。
松下会長が近づいてきた。「市長は、ここから見学を始めます」
頷きながら、準備した説明の言葉を心の中で復習する。その時気づいたけど、いつの間にか見学したい生徒たちが集まってきていた。
程なくして、一行が入ってきた。市長は親しみやすそうな中年の男性で、校長と話をしている。深く息を吸って、近づいてくるのを待つ。
「こちらが工芸部の展示スペースです」校長が説明する。「今回、特別な作品を用意してくれています」
続く30分ほど、できる限り丁寧に一つ一つの作品を説明した。「ブルーリフィルキット」のデザインコンセプトから、「ゆらぎノート」の制作プロセスまで。市長は伝統工芸と現代デザインの融合に特に興味を示してくれて、時々細かい質問をしてきた。
「この青い色が素晴らしいですね」作品を手に取りながら言う。「まるで海の色のようです」
「はい」僕は答える。「伝統的な染色方法で...」
予想以上に上手くいった。準備を入念にしたからかもしれないし、作品自体が持つ魅力のおかげかもしれない。特に独特の設計の工夫を説明した時は、周りから小さな感嘆の声が聞こえたほどだ。
市長たちが去った後、手のひらに汗が滲んでいるのに気づいた。説明している間ずっと、千紗がここにいたら、もっと生き生きと説明できただろうなと考えていた。
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