第31話 朝靄のような心

 寒い。


 マスクをしているのに、秋の朝風が頬を撫でて思わずくしゅんとくしゃみが出てしまう。昨夜は柊原くんに注意されてしまった。「こんな時こそちゃんと休むべきだ」って。今朝起きた時には熱は下がっていたけど、まだ少しめまいがする。


 「千紗!」後ろから聞き慣れた声が聞こえてきた。


 振り向くと、白銀先輩だった。今日は特別に青いヘアバンドをしていて、きっと私たちの作品に違いない。


 「先輩、おはようございます!」笑顔で挨拶をしたつもりだけど、マスク越しじゃ伝わらない。思わず一歩後ずさりして、「あ、先輩、私、まだ少し風邪気味で」


 「大丈夫よ」先輩は笑いながらも、私の額に手を当ててくれた。「うん、熱は下がってるわね。でも、まだ気をつけないとダメよ」


 「すみません、うつるかもしれないのに」


 「だから大丈夫だって」


 校門をくぐった瞬間、私は立ち止まってしまった。


 いつもの学校が、まるで別世界に変わっていた。色とりどりの横断幕が風になびいて、各部活の屋台が廊下の両側にきれいに並んでいる。空気には焼きそばの香ばしい匂いが漂い、そこかしこに咲く秋桜の香りがほのかに漂っていた。


 「みんな早く来てるんですね」私は小さな声でつぶやいた。


 「当たり前でしょ!」白銀先輩が笑う。「ほら、私たちの屋台ももう準備できてるわよ」


 先輩が指さす方向を見ると、工芸部の展示スペースは特別に綺麗に飾り付けられていた。濃紺の布を背景に、特殊な染色技法で波のような模様が描かれている。ガラス窓から差し込む陽の光で、まるで深い海の中にいるかのような空間が広がっていた。


 「これって」近づいて見てみる。「中島先輩のデザインですか?」


 「そう」白銀先輩が言う。「昨夜みんなで頑張って飾り付けたの」


 急に申し訳なくなった。風邪さえ引かなければ。


 「気にしないで」白銀先輩は私の考えを見透かしたように言った。「それより、本当に大丈夫?」


 「はい!」私は頷いた。「今日は大切な日ですから」


 頭がまだくらくらする。


 部室の窓際に寄りかかって、冷たいガラスに額を押し付けた。外は日差しが強いのに、なぜか体が重くなってきている。朝の薬が切れてきたみたい。確かに熱は下がったけど、この状態でお客様の対応して大丈夫だろうか。


 「やっぱり無理しない方がいいかな」小さくつぶやく。


 一番心配なのは他の人にうつしてしまうこと。さっきも多くの生徒が私たちの屋台に来るのを楽しみにしていたけど、もし私のせいで。


 「はぁ」マスクを上に引き上げて、鼻までしっかり覆われているか確認する。


 部室の中は静かで、窓の外から賑やかな話し声と足音が聞こえてくるだけ。ここの窓は校門に面していて、次々と入ってくる人の波が見える。あ、あの姿。私は目を細めた。


 柊原くんが校門の前に立って、生徒会の人と何か話をしている。寒くなってきたからか、今日は特別に紺のブレザーを着ていて、背筋がより一層しっかりして見える。風で前髪が揺れると、さっと手で払って、フレームレスの眼鏡の奥の眼差しは相変わらず落ち着いている。


 いつもこうなんだよね、どんな時も冷静な様子。私たちより一つ年下なのに、いつも頼りになる感じがする。人と話す時の表情を見てると、真面目だけど重苦しくない。きっとそれが、先輩たちまで相談に来る理由なんだろうな。


 「紺色を着てくるなんて思わなかったな」思わず笑みがこぼれる。「この子、意外と雰囲気作りが上手いんだ」


 でも笑った後にまた咳が出る。もう、この前まで準備で忙しかったのに、一番大切な日に限って。


 棚に並べられた作品を見つめる。どれも一つ一つみんなの心がこもっている。特にあのブルーリフィルキット。染色を教えた時のこと、覚えてる。不器用だったけど、一つ一つの手順を特別丁寧にこなしていた。布地を調整する時の背中を曲げた姿は、工芸を学ぶというより、何か精密な実験をしているみたいだった。


 「頭がくらくらする」目を閉じると、額がまだ少し熱い。


 外の笑い声がゆっくりと遠ざかっていく。本当に柊原くんの言う通り、ちゃんと休んだ方がいいのかも。でも今日はこんなに大切な日なのに。それに、みんなこの文化祭の準備にこんなに頑張ってきたのに。


 気づいたら机に伏せていた。部室の木の机は少し冷たくて、熱っぽい頬が少し楽になる。窓の外の騒がしい声が薄いヴェールを通したみたいにぼんやりしてくる。

 ドアが開く音は小さかったけど、静かな教室では特に響いた。


 顔を上げようとしたけど、体が怠くて動きたくない。足音が私の傍らで止まり、あの慣れ親しんだ声が優しく言う:「やっぱりここにいたか」


 柊原くんだ。


 「絶対来ると思ってた」彼の声は優しくて、昨夜のような厳しさはない。「せめて熱が下がってからそんなに無理するなよ」


 ゆっくりと顔を上げると、彼がコンビニの袋を置くのが見えた。ビニール袋から温かい湯気が立ち上っている。


 「とりあえず何か食べろよ」彼が言う。「こんな時に空腹じゃダメだ」


 包装を開ける動作が丁寧で、まるで実験室で精密機器を扱うみたいだ。


 「私、子供じゃないんだけど」不満げに言う。


 「はいはい」彼が軽く笑う。「千紗先生ですよね。でも先生だって自分の体調管理はしっかりしないと、でしょう?」


 温かいおでんから湯気が立ち上る。朝の柔らかな光の中で蒸気が薄い霧になって、柊原くんの輪郭をぼかしている。


 「熱いから気をつけて」彼が箸を渡してくれて、それからカバンから新しいマスクを取り出す。「食べ終わったらこれに替えろよ」


 新しい箸だけど、つい私はマスクをもっと上に引っ張る。彼は私の動きに気づいたらしく、優しく笑って:「大丈夫、手は消毒してある。それにこの位置なら」彼は自分の席を指さして、「十分離れてるだろ?」


 「ありがとう」小さな声で言う。心が温かくなって、少し笑いたくなる。


 「今朝は校門の前、随分賑やかだったね」話題を探して言ってみる。


 「ああ」彼は顔を上げずに答える。「生徒会が各部の位置を確認してた」


 「私たちの部は…」


 「心配するな」柊原くんは眼鏡を押し上げながら、「ちゃんと手配してある」


 「柊原くん」


 「ん?」


 「みんなに迷惑かけちゃってごめんね」


 顔を上げた彼は困ったような目で私を見つめている:「本当に申し訳ないと思うなら、ちゃんとそれを食べて、少し休むんだ」


 お椀の中の刻みネギを見つめながら、急に嬉しくなる。でも、どうして嬉しいのか、自分でもよく分からない。

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