第30話 君を支えられること

 文化祭まであと二日というとき、千紗が突然学校を休んだ。


 このことを白銀先輩から聞いた。その朝、部活動が終わった後、帰ろうとする僕を呼び止めたのだ。


 「柊原くん、千紗のこと、知ってる?」


 「えっ?」


 「今日、休むって連絡があったの」先輩は心配そうな表情を浮かべた。「体調を崩したみたい」


 珍しいことだった。普段の千紗は元気いっぱいで、風邪を引いても無理して学校に来るような子だ。


 午前中の授業の合間に、こっそりスマートフォンを確認した。少し迷った末、メッセージを送ることにした。


 「大丈夫?」


 「全然平気だよ!ちょっと休めば大丈夫!」すぐに返信が来て、笑顔のスタンプまで付いていた。元気そうな様子に少し安心した。


 昼休み、中島先輩が黙って準備作業の進捗表を僕の机に置いていった。本来なら今日、千紗と一緒に展示用の布地を確認する予定だった。


 千紗本人が大丈夫だと言うのだから、深く考えることもないか。部活の準備もほぼ完了していたし、ゆっくり休ませた方がいいに決まっている。


**


 夕食後、どことなく落ち着かない気持ちになった。日が暮れていたものの、秋の夜はまだそれほど寒くなく、散歩に出かけることにした。この辺りは小学生の頃からよく通る道で、よく知っている。


 街灯が微風に揺られ、揺れる影を落としている。通りの両側の銀杏の葉が黄色みを帯び始め、時折数枚の葉が風に乗って舞い落ちる。角を曲がったとき、前方のベンチに人影が見えた。マスクをしている女子生徒が、うつむいて何かを考え込んでいるようだった。


 どこか見覚えのあるシルエット。


 「千紗?」


 彼女は明らかにびっくりしたように顔を上げた。


 「え、柊原くん?」


 声がかすれていて、風邪を引いているのが一目で分かった。街灯の光に照らされた顔は青ざめている。


 「休んでるんじゃなかったの?」思わず声が出た。「どうして外に?」


 「だって」鼻をすすって、こもった声で答える。「家にいても退屈だし、明日は文化祭だし、準備とか大丈夫かなって…」


 僕は溜息をつく。「こんな時こそちゃんと休まなきゃ」


 千紗はベンチの縁を掴んだ。「でも…」


 「でもじゃない」遮るように言う。「今すぐ帰るよ」


 彼女は僕を見つめたまま、言葉を探すように黙っている。街灯の光が彼女の熱っぽい顔を照らし、普段の元気な姿とは違って見えた。


 うつむいたまま、千紗は肩を落とす。「みんな頑張ってるのに、私だけ…おばあちゃんから教わった藍染めのこと、部活でも頑張ってきたから、白銀先輩も中島先輩も、応援してくれて」


 「今まで一生懸命やってきたんだから、ちゃんと休んでいいんだよ。みんなも、そう思ってるはず」


 彼女は黙ったまま、ベンチの縁に触れている。その指先が微かに震えているのが見えた。


 「なんかさ」千紗が空を見上げる。「最近思うんだ」


 「ん?」


 「柊原くんって、工芸部の活動、楽しい?」彼女は少し照れくさそうに笑う。


 「あの日、実験室で」千紗は言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。「私、初めて会った人に、いきなり蓼藍の温度のこと聞いちゃったよね。廊下を走っていて、実験室の前で...本当に突飛な質問だったかも」


 彼女は少し笑った。


 雲間から覗く月が、千紗の横顔にそっと光を落としている。


 「なんていうか...私、工芸部で楽しいことばかりで」千紗は言葉を探すように続ける。「だから、柊原くんにも楽しんでほしくて。あ、ごめん」


 彼女は少し咳き込んだ。


 「熱があるせいかな、変なこと言ってる気がする」


 マスクの上から覗く目が、街灯に照らされて少し潤んでいる。きっと熱のせいだろう。


 「ほら」僕は静かに立ち上がった。「あの時の質問がなかったら、今頃も実験室で一人きりだったかもしれない」


 千紗は少し目を見開いた。


 「帰ろう」差し出された手に、彼女は優しく頷いた。「みんなは千紗の体調が心配なはずだ」


 「柊原くん、ありがとう」


 「いいって。それより、まだ熱があるみたいだぞ」


 街灯に照らされた道は、まるで藍色の海のように深く静かだった。千紗の足取りは少しふらついているが、無理に支えすぎないように気を付けながら、僕は彼女の横を歩く。


 「ねえ」突然呟く。「私、やっぱり部活に行きたいな」


 「だめだよ」夜風が二人の間を吹き抜ける。「今は、ゆっくり休むときだから」


 「でも…」


 「部活のみんなだって、千紗のこと心配してるんだから。今は休むことに専念して」


 「…柊原くん」


 「明日のことは、僕に任せておけよ」少し間を置いて、夜空を見上げながら続けた。「藍染めの伝統を受け継ぐ人が、体調管理もできないなんて」


 「意地悪だよ」そう言いながらも、彼女の声には安堵が混じっていた。


 「事実だよ」僕は少し微笑んだ。


 彼女は小さく笑い、それから咳き込んだ。


 これからは、もう少し彼女の隣にいられたらいいな、そんなことを思いながら夜道を歩いた。


 街灯が二人の影を長く伸ばし、落ち葉が静かにその上を舞い過ぎていく。

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