第29話 月夜の準備室
「そんなに急ぐんですか?」僕は大量の生地を見つめる。
「当然でしょ。」中島先輩は図面から視線を上げないまま、少し低い声で言う。「会場準備もあるし、市長が早めに来るかもしれないんだってさ。」
「えっ?」千紗が目を丸くする。「早めに?」
「可能性の一つよ。」白銀先輩が優しく言う。「確かにペースを上げる必要があるわね。」
僕は中島先輩の図面を覗く。途端、先輩は無言で図面を僕の方へ滑らせた。「これは…?」
「展示エリアの計画。」先輩が黒のボールペンで印を指し示す。机に残された跡を見ると、何度も同じところを書き直したような濃さだ。「ここが『ブルーリフィルキット』の体験コーナー、ここが『ゆらぎノート』の展示台、後ろの壁には工芸部の作品を…」
「すごく多いね…。」千紗が不安げに言う。
「でも、面白いと思わない?」白銀先輩が微笑む。「これこそ工芸部の実力を見せるチャンス。」
千紗は箱へ駆け寄る。「この生地、触り心地すごくいい!」
「ゆっくり。」僕は慌てて手伝う。「散らかさないように。」
千紗は生地を窓際に広げる。「おばあちゃんがね、月明かりの下での藍染めは特別美しいって言ってた。昔の職人さんは満月の夜に染めるのが好きだったんだって。」
その話を聞いて、僕は思わず「まるで物語のようだね。」と言った。
月明かりに映える藍色って、特別優しく見えると思わない?
「そういえば。」中島先輩が立ち上がり、伸びをしながら言う。「週末、学校が夜間活動を許可するって知ってる?」
「えっ?どうして?」
「文化祭準備で忙しい部活が多いからよ。」先輩が説明する。「特別に夜九時まで開放されるの。」
「じゃあ私たち…。」千紗は期待に満ちた眼差しで白銀先輩を見る。
「もちろん、このチャンスを活かさなきゃね。」白銀先輩が言う。「伝統には新しい解釈が必要な時もあるから。」
**
金曜日の最終授業が終わると、学校全体が特別な雰囲気に包まれていた。教室では、あちこちで文化祭の準備に追われる声が響いている。
「ついに始まるんだね!」林小萱がカバンを片付けながら興奮した様子。「明日から会場の準備だよ!」
小道具リストを確認する者、出し物の練習をする者、ポスターを描く者。慌ただしい空気が教室中に満ちていた。
「柊原!」田中が近づく。「聞いたよ、工芸部も今回は頑張ってるんだって?」
「そんなに…。」
「最近、部室で遅くまで忙しそうだったじゃないか。」
「どうして知って…あぁ。」
彼はピアノ部員だ。毎晩帰る時、まだピアノ室から音が聞こえていたはず。
説明しようとした矢先、千紗が飛び込んでくる。「柊原くん!生地の準備ができたよ!それでね、白銀先輩が…。」
クラス全員が彼女を見る。千紗は急に言葉を切り、恥ずかしそうに頭を掻いた。「失礼しました。」
「おや!」林小萱が笑う。「千紗師匠がお弟子さんを迎えに来たの?」
「その通り!私は我が弟子を探しに参った。」千紗は胸を張る。
「月が出る前に準備を終わらせなきゃいけないんでしょう?」
入口から声がして、白銀先輩が優雅に立っている。手には綺麗な紙袋。
「先輩!」
「はい。」紙袋を手渡される。「明日使うものよ。」
中には綺麗に包装されたお菓子が入っていた。
「これは…。」
「徹夜になるでしょう?」先輩は微笑む。「補給は必要よ。」
「それに!」千紗が興奮して付け加える。「麗子さんが私たちのために特別に営業時間を延長してくれるんだって!」
「じゃあ。」白銀先輩は薄暗くなってきた空を見上げる。「始めましょうか。」
教室を出る頃には夕陽はほぼ沈みかけ、遠くの空が濃紺に染まり始めている。まるで染料が空に滲み出すようだ。
「あっ!」千紗が空を指差す。「見て!今日の月、すごく大きい!」
「十五夜だからね。」白銀先輩が言う。「染色にはぴったりの夜よ。」
「本当なんですか?」尋ねると、先輩は意味ありげに微笑んだ。
「さあ、少なくとも千紗はそう信じているみたいよ。」
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