あの煙突と富士山をもう一度

大田康湖

あの煙突と富士山をもう一度

 「坂上さかうえ湯」は名前通り、険しい坂の上にある銭湯だ。昔ながらの宮作りの建物の上には、コンクリートの煙突がそびえている。

 12月22日、毎年恒例のゆず湯が行われるため、店内は普段より賑わっている。番台を改装したフロントでは、45歳の女将おかみ坂上さかうえ通江みちえと、幼なじみの相模さがみあや子が話していた。休憩所に置かれたテレビでは、ドローンで町の風景を撮影するカメラマンが映し出されている。

「寂しいわね。年末でここが店じまいなんて」

 あや子の言葉に通江がうなずく。

「いろいろあってね。設備もあちこちガタが来てるし、煙突の煙が気になるって苦情もくるし、お父さんが入院して人手も足りないし。夫婦だけで子どももいないから思い切って引退しようかと。跡地にはアパートとコンビニができる予定だよ」

「私が隣の団地に住んでた頃は親子連れがたくさん入りに来てたけど、団地も建て替えるのに取り壊しちゃったしね」

 あや子はフロントの壁を見る。『坂上湯は本年12月31日で廃業いたします 長年のご愛顧ありがとうございました』という挨拶と共に、色あせたポスターが貼られていた。『銭湯へ行こう! キャンペーン』の文字が印刷された写真の背景には、「坂上湯」と書かれた煙突の隣に、冠雪した富士山が映っている。

「このポスターもお役御免ね。マンションもずいぶん建ったから、同じ写真はきっと撮れないでしょうね」

 目を細めるあや子に、通江が優しく呼びかけた。

「あや子ちゃんの写真が銭湯キャンペーンのコンテストで一位になって、この店にも大勢お客さんが来たのよね。お客さんがお風呂に入れてたゆずを食べちゃったり、色々あったっけ」

 通江はフロントに置かれているゆずを見ながら話す。

「銭湯に募集ポスターがあったのを見て、うちのベランダから富士山と煙突が並んで見えるのを撮ったのよ。あれからすぐ引っ越しちゃったけど、毎年ゆず湯はここって決めてたから寂しいわ」

 あや子はゆずを撫でながら言った。

「坂の下の銭湯はビルに建て替えて繁盛してるから、来年はそっちへどうぞ。うちの常連さんも行くみたいだよ。今日はあや子ちゃんもゆっくり入ってって」

「もちろんよ」

 あや子はのれんをくぐると女子の脱衣所に入った。


 坂上湯の湯船には洗濯ネットに入ったゆずが浮かび、壁にはペンキがはげかけた富士山の絵が描かれている。男女の境にはお城と湖のモザイクタイルが入っている。あや子の子ども時代から変わらぬ光景だが、湯気抜きの高い窓からは、団地がなくなったため半月がのぞいている。

 常連の老女たちが洗い場で挨拶をしているのを聞きながら、あや子は片方しか出ていないジェットの吹き出し口に背中を預けた。


「いいお湯でした。月も綺麗でしたよ」

 脱衣所を出ると、あや子はフロントの通子に声をかけた。

「ありがとう。SNSで知ったのか、今日はお店の写真を撮るお客さんもいたね。さすがに煙突と富士山の写真は撮れないけど、あたしたちも31日には写真を撮ろうって決めてるんだ」

「そうだ、ドローンで銭湯を撮ってみるってのはどうかしら」

 あや子はテレビの画面を見ながら通江に呼びかける。通江の顔がほころんだ。

「ドローンね。でもきっと高いんでしょ」

巧郎たくろうのクリスマスプレゼントに頼まれてね。パパと一緒にやるって条件で買ったのよ。パパは建設現場でドローン使ってるから、撮りに行けるか聞いてみるわ」

「ありがとう、それじゃうちも旦那に話してくるよ」

 通江はフロントのゆずを掴むと、あや子に差し出した。

「家のお風呂で入ってちょうだい」


 12月25日の昼、あや子は夫の正克まさかつ、中学生の息子の巧郎と一緒に坂上湯を訪れた。中庭で皆が見守る中、ドローンの試運転を兼ねて正克が操縦する。

「煙突の『坂上湯』の文字と同じ高さにできるかしら」

 あや子の呼びかけに応え、正克がドローンを煙突の正面へホバリングする。モニターの画面を見ながら通江が声を上げた。

「あ、富士山」

 確かに、マンションに一部隠れているが富士山が映っている。

「それじゃ、ポスターと同じ位置から写真を撮りましょ」

 シャッターが押されると同時に、煙突の上部から黒い煙が一筋たなびいた。通江が軽く手を叩く。

「あら、そろそろお湯が湧いたかね。皆さん、終わったらお礼に一番風呂をどうぞ」

 モニターは煙の出る煙突と富士山の光景に続き、煙突を見上げるあや子たちの姿を捉えていた。


終わり

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