第13話
「おかえりなさい。山菜と茸は、土を払ってありますよ」
台所から顔を出したアスターを見て、彼女は一瞬、険のある目元を驚きで彩った。それを少女が疑問に思えるだけの時間を置かずに、ノワは、再びローリエへと剣呑な視線を向ける。血がしたたる新鮮な肉を持っているだけに、その迫力は中々のものだ。ことと次第によっては、近いうちにお前も「こう」すると言わんばかりの眼光に、ローリエは肩をすくめた。
「そう、敵のように睨んでくれるな。何もせずにいる方が、この子は落ち着かんらしい」
「……なるほど」
一応は納得してくれたらしいノワは、ほんの少しだけ表情を和らげた。厳しく見える面持ちは、もはや彼女の癖になっているのだろう。実際にいつでも怒っているわけではないらしいことは、ほどなくして二人に振る舞われた、温かい鹿肉のスープに表れていた。噛み応えのある、芯まで火が通された肉は、噛めば噛むほど味が濃くなる。帰路で採った山菜は、臭みを消すための香草だったらしく、密かに身構えていたえぐみはどこにもない。同じ鍋から掬った一杯をノワとローリエが口にしていることにも安心して、アスターはあっという間に器を空にした。
空腹を満たし終えると、次はこちらの番とでも言いたげに、重くなった瞼がアスターの眼球を覆わんとする。慌てて頭を横に振り、忍び寄る眠気を遠ざけた少女は、改めて、小屋の内装へと目を向けた。
壁は、丸太を横になぎ倒し、上下を平らに削ったものが積み上げられてできている。部屋として区切られているのは、台所と、三人が集まっているリビングに、彼女の寝室らしい奥の一つのみだった。二階に上がるための階段も見当たらない、ささやかな根城である。
——あれは、いかにも自給自足の象徴、って感じだわ。
のどかなだけの家屋と一線を画すのは、やはり、天井から吊るされた鳥の干し肉が決め手だろう。羽根をもがれ、裸に剥かれた状態で列を成すそれらは、どこまでも食材として扱われている。
先ほど見た台所にも、ティーセットや菓子皿といった、嗜好品に属する食器は見当たらなかった。充実しているのは、名も知らぬ狩りの道具ばかりで、知識欲を得たばかりのアスターの興味は尽きそうにない。それらの中でも、とりわけ丁寧に手入れされているらしい銀の長剣が、素朴な印象を与える小屋の中ではひときわ異質だ。太陽も月も照り返すだろうその一振りは、先のように獲物の方から飛び出してきた場合以外の狩りには不向きで、かつ、日常においても無用の長物であるように思える。鍛冶屋を兼ねているのかと想像を膨らませてみても、それ相応の炉は見当たらなかった。
自らの名前と、「悪魔の指輪」を過去に見たことがあるということだけを明かしたノワは、向かい合い、膝を突き合わせてもなお、その続きを進んで語ろうとはしない。肘を体の外側へ向け、堂々と両腕を組んだ姿勢は、こなれてさまになっている。険しいと同時に、波紋一つ立たない湖のように澄んだ瞳を見つめ返してしまっては、彼女が単なる逸れ者とは到底思えなかった。
——でも、あたしの感想に過ぎないからなぁ。
手元に集められた情報はいずれも断片的で、彼女を適切に言い表すことが難しい。世間一般の淑女像からかけ離れていることだけは確かだが、山に暮らす人々は皆こうなのだと断言されてしまったら、少女は間違いなく押し切られてしまうだろう。
「あの……スープ、ごちそうさまでした。とても美味しかったです」
「そうか」
以上、会話終了。純粋な感謝を伝えつつ、その後の切り口になればと話しかけたアスターは、ただひたすらに見つめられるばかりで戸惑った。
——絵や彫刻は、いつも、こんな気持ちでいるのかしら。
意図が読めない視線は、少女の混乱を招いた。膝の上で軽く握った両手が、段々と湿ってきた気がする。
「……お前さんは、何か用があって、俺たちを棲家に招いたんだろう」
変な汗が出てきたところで、左隣に座ったローリエが、助け舟を出してくれた。ノワの視線は、相変わらずこちらに向けられたままで、ちょっと居心地が悪い。台所では、火を纏った薪が、軽やかな音を立てている。入念に乾燥させた木材が燃える時の音だ。
「私が話す前に、そこの少女へ、一つ聞きたいことがある」
「あ、あたしに、ですか?」
「お前の両親の名を、教えて欲しい」
アスターとローリエは、自分たちの名前すら、ノワに明かしていない。だのに、婦人が知りたいのは、少女の親の名前だという。どう答えたものか判断をしかねて、横目だけでローリエに尋ねると、顎を引くようにして小さく頷かれる。正直に言っていいそうだ。
「お父さんの名前は、レザン。お母さんについては、イリス、と聞きました」
「……聞いた、というと?」
「あたしを産んで間もなく、亡くなっているので」
腕を組み、上腕にかけられた彼女の掌に、力がこもる。皺が深くなったのは、袖と眉間の両方だ。何が彼女の逆鱗に触れたのか分からずに、先の言葉をためらっていると、ノワは自身の指で縦皺を揉みほぐした。
「すまない。……続けて」
「は、はい!」
とはいえ、場の空気はどんより重い。再開させる会話を勢いづけるために、アスターは一つ咳払いをした。
「えっと、お母さんは元々、身体が弱かったそうですが……あたし、それ以外のことは、ほとんど知らないんです。お父さんも、昔のことはあまり話したがらなかったから」
三回ほどの遅い瞬きの後、口から息を吐いたノワは、指を組んだ拳を机上に置いた。これまではまっすぐに伸ばされていた背筋も、前傾の姿勢をとった今は、なだらかな丸みを帯びている。手元に落とされた視線は、どこか物憂げだ。
「あなたは――両親のことを、何か、知っているんですか?」
そよ風によって、小屋の周囲に生えた木々の葉が揺れる。空白を埋めた自然のざわめきが治まると、再び静寂が訪れる。アスターとローリエの視線を一身に受けるノワは、おもむろに薄い唇を動かした。
「イリス様は、私の主だ」
視線が上がる。イリスの娘である、アスターへと注がれる視線に込められている感情は、翠眼の人間に対する嫌悪ではなく、郷愁だった。
ノワは、自身の首の後ろへと指をかけた。聞き逃してしまいそうなほど小さな金属音が鳴り、彼女の胸元から抜き出されたロケットペンダントを、机を介して渡される。持ち主の顔色を窺いながら、慎重に銀の蓋を開けてみると、若かりし頃のノワであろう赤毛の女性と、見知らぬ少女の二人が、繊細な筆遣いで写し取られていた。
「座っているのが、幼い時分のイリス様だ。麓一帯を治める辺境伯の末娘として、私が十六歳の時にお生まれになった」
当時は短かったらしいノワの髪とは対照的に、癖のない少女の黒髪は、腰元に届きそうなほど長い。明るい青紫色の瞳は、変色する前のアスターの目元とよく似ていた。豪奢な椅子に座り、微笑むイリスの傍らに立つノワは、やや緊張した面持ちだ。これを手掛けた画家は、直径三センチにも満たない円形に、些細な表情の違いまで表現できるほど優秀だったらしい。
「一介の騎士に過ぎない私を、同性だからか、あの方は随分と気に入られてな。一回り以上も歳の離れた彼女は、まるで私を姉であるかのように慕い、いつでも傍に置いた」
クロワ帝国において、ファーストネームを使って相手を呼ぶことには、大きな意味がある。家族や同郷といった長い付き合いがある、もしくは、目上の立場から下々を呼びつける場合にのみ用いられるのが慣習だ。主従という鎖があったにも関わらず、ノワがイリスを名前で呼ぶという行為は、二人の親密さを表す証拠として十分だった。
「もう、二十年は前になるか。イリス様は、とある青年と駆け落ちをして……私は、去り行く二人を見逃した。そのことを領主から咎められ、騎士の称号を剥奪されてからは、ここで余生を過ごしている」
――だから、山小屋には似つかわしくない剣があって、彼女の言動も硬いのね。
得心がいったアスターは、頷くことでノワへの相槌とした。ローリエの手中へと移ったロケットペンダントは、しばらく物色されてから、向かいの席へと差し戻される。婦人は、小さな肖像画を眺める時にだけ、表情が和らぐ。彼女にとっては唯一の装身具であろうそれが、乾燥でひび割れた指先によって、優しく縁を辿られた。
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緑の指輪と思い草 翠雪 @suisetu
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