第四王子の婚約の顛末は

古倉慎

第四王子の婚約の顛末は

 学園の食堂は、今日も賑わっている。

 貴族令息子女が大半であるこの学園では、食堂も貴重な社交の場だ。 学園に通った歴代の王族のなかにも、食堂を利用した者は少なくない。


 第四王子であるマティアスもその一人だ。長兄が現王のため将来の自由は多少あるが、成績優秀であり王宮の要職に就くことを期待されている。

 そのマティアス王子が、何人かの学友と共に食堂を訪れた。眼鏡の下の瞳を緩め、すれ違う生徒と気軽に挨拶を交わす。そこにつかつかと歩み寄り、マティアスを呼び止める声があった。


「マティアス殿下。少々よろしいでしょうか」


 凛とした声が食堂に響く。騎士服の長身が、マティアスの行く手を阻んだ。後頭部で一括りにされた長い金糸を揺らし、爛々と赤い瞳がマティアスを見据える。その怜悧な美貌は眉間に皺を寄せ、隠す気の欠片もない敵意をマティアスに向けていた。


「アレックス、珍しいな。俺に何か用だろうか。一緒に昼食を、というわけではなさそうだが」


 明らかに礼を失した態度にも関わらず、マティアスは平静のまま答えた。マティアスの学友たちはそれを理解しつつも、逡巡した様子で二人を窺っている。流石に目に余ると口を挟もうにも、アレックスはマティアスと幼馴染みであるのは有名な話だ。元々マティアスが身分差をそれほど気にしない性格なのもあり、その当人が何も言わない以上、成り行きを見守るしかできなかった。


 マティアスの返答にアレックスは、更に忌ま忌ましいと言うように顔を歪める。


「何か用か、とは白々しい。単刀直入に問いましょう。シュミット公爵令嬢との婚約を破棄した、というのは本当ですか?」


 アレックスは声高に問いかけ、静かだった食堂がざわめき出す。マティアス王子とイザベラ・シュミット公爵令嬢との婚約関係は幼少期からのもので、二人の仲も良好で卒業後に結婚するのではと噂も立つほどだ。


「皆、落ち着いてくれ。――破棄とは、言葉が悪いなアレックス。君がどうしてそれを知ったのかは別として、イザベラとは十分に話し合い、その上で決めたことだ」


 マティアスは周囲の反応にため息を一つついたが、それほど取り乱しはしなかった。すぐにアレックスに視線を返す。


「相変わらず耳が早いな。君がいつも侍らせている令嬢たちから聞いたのか?」


 が、その口から向けられた言葉には、わずかにちくりと刺すような響きが混ざっていた。

 アレックスはそれを感じ取ったのか、眉を吊り上げる。アレックスはその眉目秀麗さと、騎士としての実力の高さから、令嬢たちからは人気が高い。今も、よく連れ立つ令嬢たちは食堂の端から、アレックスを見守っている。

 ばっと彼女たちを庇うように片手を上げ、僅かに語気を強めた。


「侍らせている? それは彼女たちに失礼ではありませんか。それに、私と彼女らは純粋に交流を楽しんでいるだけです。話を逸らさないでいただけますか!」


「話を逸らしているわけじゃない。あまり彼女らの時間を奪うものじゃないと、君に忠告しただけだ」


 そう言ってマティアスは、令嬢たちを一瞥する。その視線は勿論不躾なものではないが、一瞬マティアスは何かを飲み込むように息を詰めた。


「こんな場で公表するつもりはなかったが、確かにイザベラとは婚約解消をさせてもらった。だが、それはお互いのためで、イザベラも納得している。その上、王家とシュミット公爵家、両家の了承も取っている。君が首を突っ込んでくるようなことではないだろう」


「……お互いのため? 殿下を一心に支えてきたイザベラを知っていて、よくそんなことが言えるな!」


 怒りで声を荒くするアレックスに対し、とうとう耐えかねたのかマティアスの友人たちが口々に非難し始めた。


「殿下に対して何という無礼だ」

「ドレッセル侯爵家の長子とはいえ、許されると思っているのか!」


 アレックスが見る者を射竦めるような視線で、彼らを睨みつける。それ程までに怒りが勝るのか、いつもの涼しげな振る舞いは鳴りを潜めていた。


「今、私はマティアス殿下と話しているんだ。少し黙っていてくれないか」


 アレックスの気迫に圧された友人らは、皆押し黙ってしまう。だが、その中でも反骨心のある者が反論しようと口を開く。


「ありがとう。今は一度収めてくれないか」


 それを、マティアスの穏やかな声が遮った。マティアスの表情に、怒りの色も、機嫌を損ねた様子もない。ただ困ったように一瞬眉を下げただけだった。


「わ、分かりました……」


 そうおずおずと言い、友人は口を閉じる。マティアス自身に制されれば、流石に言葉を飲み込まざるを得なかった。

 はあ、とマティアスが再びため息をつく。


「アレックス。先程の発言は、聞かなかったことにしておく。昔馴染みだからな」


「不要な情けです」


 ぴしゃりと言い放ったアレックスは、それでもマティアスの取りなしで少しは冷静になったようだ。だが、その表情は未だ剣呑なままだ。


「いくらあなたが王子であろうと、イザベラを……大切な友人である彼女を悲しませることは許しておけません」


「……だが、全ては決まったことだ。それに、俺とイザベラの間にあるのは、愛じゃなく、信頼関係だ」


 淡々とマティアスが告げる。アレックスはそれを聞き、愕然としたように目を見開いた。だがすぐに、まるで炉に薪をくべたように、炎がアレックスの瞳で燃え上がる。


「……殿下、あなたには失望しました。いずれあなたはイザベラと共に王を支え、国のために歩んでいくのだと、そう信じていたのに……。そんな二人を、私は……」


 アレックスは震える声で呟き、一瞬だけ俯いた。その声はかろうじてマティアスの耳に届くくらいの声量しかなく、最後の独白は彼にも聞こえないほどのものだった。

 恐らく誰かに向けたものではなく、どちらかというと独白めいたものだったのだろう。


「君は……」


 アレックスの様子に虚をつかれたマティアスが、声をかけようと口を開く。しかし、それよりも幾ばくかアレックスが顔を上げる方が速かった。

 マティアスの声を振り切るように、アレックスはマティアスを睨みつける。その表情にはやはり怒りが滲んでいた。


 間断ない動作で、アレックスは素早く自らの手袋を引き抜き、床にそれを叩きつける。


 ――その瞬間、食堂内が騒然とした。


「取りたまえ! 作法くらいは分かるでしょう」


「私が勝ったら、公式にシュミット公爵令嬢に謝罪することを要求する」


 大仰な仕草でアレックスは言い放つ。

 古い作法ではあったが、それは決闘の申し込みだった。それも王族相手などと、前代未聞である。


 その上、アレックスは剣の腕も立ち、王国騎士団から入団の打診を受けているという噂もあった。

 対してマティアスは、剣の腕に秀でているとは言い難い。


 そもそもが王族への無礼、決闘もアレックスの得意分野でのものである。突き付けられた決闘を受けぬは恥、というしきたりもあるが、決闘の作法と共に古く錆びついたものだった。


 固唾を飲んで見守る者たちの誰もが、マティアスは決闘を受けないだろうと、そう思っていた。


「――いいだろう」


 しばしの沈黙の後、こともなさげにマティアスは床に落ちた手袋を拾い上げる。


「だが、俺に利がない。もし俺が勝った時には、君に俺の願いを一つ聞いてもらう」


 変わらぬ表情のまま、マティアスはアレックスを見据えた。その視線を睨み返し、アレックスは挑戦的に目を細める。


「ふん……、分かりました。ですが、勝つのは私です。では一週間後、授業の後に闘技場で」


 アレックスはそう告げて、踵を返し食堂を後にした。

 マティアスはそれを見送り、浅く息を吐き、肩の力を抜く。そして、静まり返った食堂内を見回した。


「すまない、皆の食事を邪魔してしまった。どうか気にせず、席に戻ってくれ」


 マティアスは声を張り、周囲を安心させるように呼びかける。それから、自身も友人たちと共に席に着いた。

 そうしてようやく、食堂は段々と元の賑わいを取り戻し始める。だが、生徒たちが口々に囁き合う内容は、ほとんど同じものだった。


 マティアス王子による婚約破棄、裏切られた令嬢イザベラ、アレックスによるマティアス王子への決闘の申し込み。


 そんな話ばかりである。

 口さがない者の中には、イザベラを取り合って二人が決闘をするのではないか、と推測する者もいるようだ。


 学友たちと共に食事を取っていても、そんな雰囲気はマティアスにもよく理解できる。無理もないが、その表情は浮かないように見えた。

 昼食のパンを一口千切って、口に運ぶ。淡々と咀嚼する様子は、到底食事を味わっているようには見えなかった。



 *



 それから一週間後の、決闘当日。剣技大会などに使われる闘技場にて、決闘が始まろうとしている。

 時刻は昼を少し過ぎた頃。マティアスとアレックスは、その中央で対峙していた。


 その様子を、生徒たちが固唾を飲んで見守っている。なにせ将来有望と謳われる第四王子と、学園で一二を争う剣の腕を持つ騎士が、一人の令嬢を賭けて決闘するのだ。

 一週間は、尾びれ背びれがついた噂を人々の間に駆け回らせるには十分だった。二人の把握しないままに、この決闘は随分と観客を集めてしまっていた。


 だがアレックスは闘技場に生徒たちが入ることを止めなかった。むしろ、皆の前で証明してこそだと告げたのである。


「よく逃げ出しませんでしたね。驕るわけではありませんが、私の剣の腕を知らないわけではないでしょう」


 挑発的にアレックスが剣の柄に手をかける。不遜な態度に、マティアスはこくりと頷いた。


「ああ、よく知っている。だからこそ、俺はここで勝つ」


 その視線の真っ直ぐさと感情の読めなさに、ぐっとアレックスは息を詰める。


「そうまでして、私に従わせたい何かがあると」


「そうだ」


 ふん、と侮蔑を露わにした顔でアレックスは続けた。


「ならば聞きましょう。一体何を願うつもりなのです?」


 アレックスに問われ、マティアスは一瞬迷うように視線を彷徨わせたが、ゆっくりと首を横に振る。


「勝者ではない俺に、それを口にする権利はない。君に勝って、その時に伝えよう」


 マティアスの言に、アレックスは僅かに目を見開いた。だが、すぐに表情を戻し、軽く唇を噛む。


「……随分と自信がおありなんですね、いいでしょう」


 そう言ってアレックスは剣の柄へと手をかけた。鋭い眼光に、戦意が満ち満ちる。


「決闘の前では御託は無駄。イザベラのため、あなたを打ち倒す――!」


 マティアスも帯刀した剣へと手をかけ、場の空気が張り詰めた。審判を任された生徒が、合図を出さんと手を上げる。

 一触即発、決闘が始まろうとしたその瞬間。


「お待ちなさい!」


 凛とした声が響き渡る。決闘の場に飛び込んできたのは、一人の令嬢だった。

 その場にいた全員が呆気に取られ、そちらに視線を注いでいる。勿論、マティアスやアレックスも例外ではない。

 何故なら、息を切らして肩を揺らす令嬢は決闘の発端といってもいい人物――マティアス王子の元婚約者、イザベラ・シュミット公爵令嬢であったからだ。


 *


 つかつかとイザベラはまず、マティアスに詰め寄った。華やかな美貌と謳われる表情を怒りに歪め、目を吊り上げている。


「まず殿下、どうしてあなたはいつも言葉が足りないのですか!?」


 語気は強いが、周囲を気にしているのかイザベラの声量自体は大きくない。精々がマティアスに聞こえるくらいのものだが、それでも気圧されたのかマティアスは一歩後退する。


「イザベラ、なんのことだ」


「なんのことも何も、どうしてご自身の願いを仰らないのですか。それに、わたくしたちの婚姻についてもです。アレックスにきちんとご説明なさってください。根も葉もない噂が立って困るのは殿下ご自身ですし、不用意な混乱を招くのは避けてくださいまし!」


 一息にまくし立てたイザベラは、肩で軽く息をした。その顔には化粧だけでは隠せない疲れが見て取れる。


「噂、とは?」


「わたくしと殿下の婚姻、それにまつわる事実無根な噂の数々です」


 マティアスは一瞬身を固くしたが、眉間を抑える。僅かに顔を歪め、浅く息を吐いた。


「すまない、君を火消しに奔走させたか」


「無論全て、とはいきませんでしたが。食堂での一件は、随分と騒ぎになりましたもの。この借りは高くつけておきますわね」


 ひそひそと二人が話し合っていると、動揺から戻ったのかアレックスが歩み寄ってくる。


「大丈夫だよ、イザベラ。君の糾弾も分かるが、私が必ず君の無念を晴らして見せる。殿下に対する今までの献身、その想いに報いさせてみせる」


 ひし、とアレックスがイザベラの手を取った。観衆の一部から黄色い悲鳴が上がる。


 シュミット公爵家に近くなくとも、イザベラとアレックスが従兄弟であることは有名な話だ。

 だがそれを分かっていても、決闘の場に渦中の令嬢が現れる。今の状況は、イザベラを取り合っているという噂に拍車をかけていた。

 観客席の令嬢たちが、期待と羨望の眼差しを向ける中、イザベラ当人といえば表情を引きつらせて息をついた。


「……思い込んだら一直線なのは相変わらずのようね。そもそもの発端はあなたですのよ、アレックス」


「発端……、決闘を申し込んだことかい? 君に何の相談もしなかったのは悪かったと思っている。でも、私は君のためと思って……」


 ぎゅうとアレックスがイザベラの手を両手で包み、切なげに彼女を見下ろす。その表情に、イザベラは一瞬困ったように眉を下げた。


「――はぁ、肩を持つわけではないけれど、あなたのことを考えていなかったわたくしたちに非があるのも確か」


 イザベラは憂うように目を伏せ、繋いでいる手はそのままにマティアスの方へと視線を向ける。


「ですがそれならなおのこと、わたくしの口から告げるのも不誠実だわ。ーー殿下」


 その声に倣うように、おずおずとアレックスがマティアスへと目を移した。複雑そうに顔をしかめ、それでもイザベラの言葉を遮る気はないようだ。

 イザベラは、懇々と諭すように続ける。


「アレックスが決闘に要求をかけているのです。それに応じる殿下が、事前にそれを明かさないというのは公平ではありませんわ」


 ぴくり、とマティアスが僅かに眉を顰めた。イザベラはその様子を見て、浅く息を吐く。


「ただでさえ、何を考えてらっしゃるのか伝わりにくいのです、あなたは。せめてそれくらいは仰った方がいいのでは? それがきっと、アレックスにとって確かな説明にもなるでしょう」


 最後の一言は、ひっそりと周囲の者だけに聞こえるように呟かれた。


 マティアスは渋面のまま、アレックスを窺うように見る。かちりと視線が合うが、アレックスは訝しげに首を傾けた。

 その様子を見て、マティアスは多少の逡巡はあったものの、やがてイザベラの言葉に頷きを返す。


「……君の言葉にも、一理ある。分かった」


 マティアスの言葉に、アレックスは僅かに目を見開いた。驚いたのは周囲の生徒たちも同様で、すぐに王子が賭ける願いとはなんなのか、などと囁き始める。


 とうのマティアスはといえば、周囲の動揺に勿論気付いてはいる。だが、そちらを見ることはなく、どこか身を固くしているように見えた。


「……殿下?」


 アレックスがその様子を妙に思い、問いかける。するとマティアスは姿勢を正すように、真っ直ぐアレックスへと向き直った。神妙な面差しに、アレックスが息を詰める。


 そしてマティアスは、イザベラとアレックスの間に入るように歩み寄った。そして未だ繋がれたままの二人の手を、そっと解かせる。


「こんな場所で言うつもりはなかった」


 苦々しい声色で言うマティアスは、しっかりとアレックスの手を握っている。


「アレックス、俺は君に求婚する権利が欲しい」


「――はあ!?」


 マティアスの行動に呆気に取られていたアレックスも、その言葉に素っ頓狂な声を上げた。

 生徒たちは当然大きくどよめき出し、マティアスも少々気まずそうにはしている。

 だが、アレックスへと注がれた視線は外れない。


「わ、私の聞き間違いですか……?」


 混乱しきった顔で、絞り出した声で、アレックスが問いかける。だが、咀嚼させるようにマティアスは首を横に振った。


「いいや。理解できなかったのなら、もう一度言おう」


「アレクサンドラ・ドレッセル侯爵令嬢。君に求婚することが、俺の望みだ」


 すぐにぱしん、と乾いた音がした。アレックス――もといアレクサンドラは顔を紅潮させ、顔を歪めている。アレクサンドラの表情に浮かんでいるのは、怒りそのものだ。

 マティアスは、叩き落とされた己の手を見やり、表情を硬くする。


「決闘の前に、私を動揺させたいのはよく分かった。そんなつまらない冗談、あなたを愛したイザベラの前でよく言えるものですね」


 激昂するアレクサンドラは親しい者が見れば、泣き出しそうにも見えた。マティアスは一瞬悲しげに目を細めるがすぐに無表情へと戻る。そうして淡々とアレクサンドラに言葉を返した。


「いや、それがそもそもの勘違いだ。彼女も、応援してくれている」


「な……そ、そうなのか!?」


 アレクサンドラがぱっとイザベラの方へと視線を向けると、こくりと彼女は頷いた。


「ええ、やっと聞いてくれる気になったのね。殿下とわたくしは長年婚約者として交流していましたが、それはあくまで立場を同じくする者としての信頼や、戦友の関係に近いのよ」


 言い聞かせるようなイザベラの言葉に、アレクサンドラは途方に暮れたように視線を彷徨わせる。だが、それはあくまで彼女がイザベラの言葉を咀嚼しようとしてのものだ。その様子に、イザベラは安堵したのかほっと息をつく。


「先程も言ったように、君への気持ちはイザベラもよく知っている」


 マティアスにそう言われ、アレクサンドラは途方に暮れたように言葉を返した。


「……イザベラを裏切ったわけではない、というのは分かりました。ですが、説明をしていただけませんか」


 マティアスはそれに、ああ、と応じる。


「元々、イザベラとの婚約は俺たちが生まれる前のしきたりに則ったものだ。王族の婚姻による諍いは歴史上多い。それを防ぐため、赤子の頃から王家に近い家の者と婚姻を結ばせておくんだ」


 マティアスの説明に、アレクサンドラは心得ているというように頷いた。不勉強な者でなければ、貴族の大体は知っている事実である。


「だが、近年の治世は安定している。そして俺自身も王位とは遠い。だからこそ現王から、俺自身の結婚は自由にしていいと許可をもらっている」


 そうやって淡々と告げた言葉に、アレクサンドラは大きく目を見開いた。マティアスは更に続ける。


「先王からの計らいで、互いに好いた相手ができた場合、婚約は解消する約定だったんだ。……まあ、本当はもっと事が落ち着いてからにする予定だったんだが」


 そう言ってマティアスが肩を竦めると、ぴくりとアレクサンドラの肩が震えた。それに気付かぬまま、マティアスの視線はイザベラへと向かう。


「急ぎだと言われてしまってはな――」


「殿下」


 何かを言おうとしたマティアスに、冷や水をかけるようなイザベラの声が飛んだ。マティアスは、片眉を上げて口を噤む。


「すまない、なんでもない。……だから大丈夫だ、という話だ」


 誰に向けた謝罪なのか少し早口にマティアスは言い、説明をそう結んだ。



 *



「だが、彼女はあんなに……献身的にあなたを支えていたのに」


 アレクサンドラは信じられないというように、首を横に振る。


「偽りとはいえ、明らかにお互い気がないように振る舞うのは外聞が悪いだろう」


 マティアスの言葉にアレクサンドラがイザベラへと顔を向けると、首肯を返された。


「でも、それなら……私に、教えてくれてもよかったのに」


 寂しげな響きの声が、ぽつりとその場に落とされる。思わずこぼれたとしか言いようのない囁き。

 短い間とはいえ幼少期を共に過ごした幼馴染みだというのに、まるで自分だけ置いて行かれたような、そんな寂しさをアレクサンドラが吐露した。


 その様子にはっとしたマティアスが、おずおずと声をかける。


「……すまない。君と距離を置くつもりはなかったんだ。だが結果的にそうなったことも理解している」


 逡巡と共に、マティアスは一つ一つ言葉を重ねていった。


「婚約の仔細をもし話していたら、俺は君への想いを隠せた自信がない」


 苦虫を嚙み潰したような顔で吐き出されたそれに、アレクサンドラは顔を上げて目を見開く。


「婚約者がいるのに他の女性を口説く男を、君が好きになると到底思えなかったしな」


 自嘲混じりのマティアスは、叩き落とされた己に視線を落とした。その様子に先程の自身の行動を思い出したのか、アレクサンドラは僅かに身を震わせる。

 そうして少しして、彼女は深々と頭を下げた。


「誤解していたこと、謝罪申し上げます。御身に事実無根な疑いをかけ、名誉を傷つけたこと、無礼の全て、この身に代えても許されぬことと承知しています」


「……アレックス、顔を上げてくれ」


 自責と後悔の念を噛みしめるアレクサンドラは、マティアスの声にも顔を上げない。

 だが、アレクサンドラの元まで歩み寄ったイザベラが、その肩にそっと手を置く。


「殿下、お一つだけ聞かせていただけませんか? 何故アレックスが決闘を申し込んだあの日に、誤解をお解きにならなかったのです? その日には無理だとしても、この日を待つ必要はなかったのではないでしょうか」


 実際、食堂での顛末から一週間が経過している。いくら多忙な身でも、少なくともイザベラは人伝に二人の状況を把握できるだけの時間はあった。決して短い時間ではない。


 イザベラとアレクサンドラに詰め寄られて、マティアスは表情を引きつらせた。視線が彼女らのどちらにも合わぬまま、何度も右往左往する。その後、苦い顔で口が開かれた。


「……話しかけられなかったんだ」


「は?」「え?」


 予想だにしていなかった言葉に、二人は気の抜けた声を漏らす。


「アレックス、君が侍らせていた令嬢たちに遮られて、声をかけられなかったんだ!」


 二人が呆気に取られているうちに、自棄を起こしたようにマティアスが声を張り上げた。


「そもそも、おかしいと思わないか? 君が騎士を目指しているのは知っていた。だけどいつの間に、貴公子だの麗しの騎士だの、令嬢の憧れだの……! そんな風に呼ばれているんだ」


 並べられるアレクサンドラを示す言葉の数々に、羞恥からか本人の頬が染まるが、どうにか弁明を返そうとする。


「そ、それは私の友人たちが、親しみを込めてそう呼んでくれているだけです。私が呼んで欲しいと頼んだわけではないのです、気恥ずかしいですし……」


 一瞬狼狽えたアレクサンドラだが、持ち直したようにマティアスへと言い返した。


「それに、別になんと呼んでもらおうと構いません。騎士を目指しているのは事実ですし、何も間違っていないじゃないですか」


 ただの友人間の戯れだと主張するアレクサンドラを、マティアスがどこかじとりとした視線で見やる。


「……その呼称と君の振る舞いで、学園では君のことを男性だと思っている者が多い。それでも構わないのか?」


「えっ、そ、そうなのですか!?」


 アレクサンドラが仰天して、生徒たちの方へと振り返る。すると急な展開にざわついていた彼らが、アレクサンドラの視線を向けられると水を打ったように静まり返った。

 それが、マティアスの言葉が正しいことを物語っていた。


「咎めるつもりは勿論ないが、俺がアレクサンドラに求婚したいと言った時、どうして男にプロポーズを、という空気になったこと、忘れてはいないぞ」


 流石にアレクサンドラもショックだったのか、二の句が継げられないようである。


「あなた、あの言動と振る舞いは素だったのね」


 一方イザベラは、別の意味で口元を引きつらせていた。


「まあ、説明しなかったのは全てが君のせいというわけじゃないんだ。俺に王位継承権はないから、評判が悪くとも執務には関係ないからな」


 そこで一度マティアスは言葉を切る。どこか自嘲するような表情で、足元に視線を落とした。


「それに、チャンスだとも思った」


「俺は卑怯な男だ。君が決闘で勝ったとしてもその後で弁明するつもりだったんだ。だがもし勝つことができるなら、知らしめたかったんだ」


 固い声で、アレクサンドラが尋ねる。


「何を、ですか」


 マティアスが顔を上げ、真っ直ぐにアレクサンドラを見た。その目に気圧されたのか、アレクサンドラは僅かに身動ぎをする。

 そこに宿っていたのは、誰が見ても分かるほどの熱だった。


「君は男性ではなく女性で、俺がそんな君を好きだということを。だから、婚約解消したんだと」


 周囲が息を呑む。


「しかし、俺の言葉足らずと勝手が君に誤解をさせたことも事実だ。すまないアレックス」


 マティアスの謝罪に、アレクサンドラはしばし黙っていた。口を引き結び、何かを考えているようだったがやがて声を上げる。


「……すみません、少々動揺してしまったようです。すぐに戻るので、席を一度外させてもらってもいいでしょうか」


 それは唐突な申し出だった。マティアスは少々意図を図りながらも、アレクサンドラの様子を窺う。


「構わないが、大丈夫か? 俺は日を改めてもいいし、そもそも決闘だって――」


「いえ、必ず戻ります」


 マティアスの言葉を遮って、生徒たちへと振り返ったアレクサンドラは声を張り上げた。


「すまない、皆も帰ってもらって構わない! 私は少し席を外させてもらう!」


 そうして、アレクサンドラはふっと息をつく。その表情に幾ばくかの影が差していた。彼女は、独り言のように懺悔を口にする。


「――殿下。私は自分の考えに囚われ、先走り、あなたに濡れ衣を着せ、糾弾した。騎士として失格です。そんな私に呆れ、嫌気が差したのでしたら、私のことなど待たないでください。あなたの不戦勝として、後日王家に、あなたに、正式な謝罪を申し入れます」


「アレックス、君は」


 アレクサンドラは何か物憂げな面持ちで、一礼をして踵を返した。そして、心配する令嬢たちに伴われて、その場を足早に退出したのだった。



 *



 マティアスの頭の中には、先程退出していったアレクサンドラの表情が焼き付いている。

 そんなマティアスに、イザベラが声をかける。


「アレックスはどうしたのでしょうね。混乱させてしまったのは分かりますが、どうにも彼女らしくありませんわ」


「ああ、そうだな」


 イザベラの言葉に、マティアスも同意するように頷いた。


「はっきりとした理由も告げないなど、マティアスらしくない。本当に体調でも崩したのだとしたら、心配なのだが……」


 その口ぶりからは、アレクサンドラが言ったようにこの場を辞するという気持ちは欠片も感じ取れない。


 淡々と時間は過ぎていく。

 不思議と、観客のほとんどはその場に残っていた。好奇心か心配か、どうであれこの顛末を見守ろうという者たちが多かったらしい。

 そうして、夕刻に差し掛かった時。決闘の場に現れた人物に、誰もが息を呑んだ。


 美しく結い上げ編みこまれた金糸は、夕陽を反射し輝いている。肌は玉のように磨き上げられ、ふわりと裾の広がる赤いドレスは肩と首元が大きく空いているが決して下品ではない。

 目を伏せ、ゆっくりと歩を進める可憐な令嬢に、その場にいる皆が釘付けになる。


 僅かに頬を染め、異様なことにその華やかなドレスとは不釣り合いな剣を手に抱えている。遠目に令嬢を見つめていたマティアスは気付く。否、本当は視界に入った瞬間に分かっていたはずなのだが、その事実から咄嗟に目を逸らしたのだ。


 その剣は、先程決闘の場でアレクサンドラが持っていた愛剣そのものである。ということは――。


 マティアスはそれに気付いた瞬間、凄まじい速度でアレクサンドラから目を背けた。夜の帳も下り始めた空を、真っ直ぐ仰ぐ。何故か鼻も押さえていた。


 そして、令嬢――アレクサンドラがマティアスの前で立ち止まる。


「お待たせしました、殿下。すぐに決闘を再開しましょう」


「待ってくれ、君はどうしてそんな格好を――」


 マティアスの困惑混じりの声に、はっとしたアレクサンドラは顔を首元まで赤くし身を竦める。


「待って、見ないでください!」


「み、見てはいない!」


 奇妙な問答が闘技場に響いた。その様子に、やれやれとイザベラが眉を下げる。


「どうしてご覧にならないのです? どうして着替えてきたのかは分かりませんが、普段の凛々しさとはまた違って、着飾ったさまも本当に美しいのに……」


 その美しさに息をつき、イザベラがマティアスに問いかけた。


 うっ、とマティアスは表情を歪め、眉間を抑えた、ように見える。だがイザベラは不思議そうに、少しだけ首を横に傾ける。なおも、マティアスは鼻を押さえ続けていた。


「情けない話だが、見たくても見られない」


「……それはどうしてですか?」


「は、鼻血が出そうなんだ。そんな無様、彼女の前で見せられるか」


「あら、まあ……」


 何と言っていいのか分からない、というようにイザベラは口元を手で隠す。

 中々に重症ですのね。喉元まで出かかった言葉を何とか飲み込んで、彼女は曖昧に笑みを浮かべた。


「では、アレックスの言う通り決闘を開始した方がよろしいでしょうか?」


 そう宣ったイザベラを、審判役がぎょっとした顔で見つめる。アレクサンドラは、ああ、と頷いた。


 きっとアレクサンドラにも考えがあるのだろうと、イザベラは一考する。流石にこの状態のマティアスに、本気で決闘を挑もうとはしないだろう。周りが見えなくなるほど怒っていた先程までならいざ知らず。


 イザベラは小さく嘆息し、審判役へと進行を促した。今の状況への混乱はあるものの、イザベラが進めると言うならそうせざるをえない。


「――両者、始めッ!」


 天を仰ぐ王子、ドレス姿の騎士、という奇妙な取り合わせだが、審判によって恐る恐る開始の合図が出された。

 だが、どちらも動かない。

 観衆が息を呑む中、場が膠着する。そこで先に動いたのはアレクサンドラだった。


 だが相手に切りかかるような、勢いのあるそれではない。剣を掲げ、ゆっくりと、ともすれば恭しく、地に置いた。

 観衆が、一斉にざわつき始める。それも当然だ。決闘の場で剣を置くとは降参に他ならない。


「なんだ、何が起こった……!?」


 アレクサンドラになおも視線を向けられないマティアスが、焦ったように声をあげた。マティアスからすれば、決闘を続けた時点でアレクサンドラは自身を負かそうとしているものだと思っていた。だが、初撃すら来ないのだ。混乱するのも仕方ない。


「……アレックスが、剣を置きました」


「何……?」


 イザベラが瞬きを幾度かして、事実を確認するようにマティアスにそれを伝える。


 そして、アレクサンドラが口を開いた。


「私の、負けです」


 どこかたどたどしい口調で、アレクサンドラは降参を宣言する。


「どうしてだ、アレックス。何故君が剣を置く……」


 マティアスの問いに、アレクサンドラは返す。辺りにしん、と静寂が落ちた。


「少し、私の話をしてもいいでしょうか」


 アレクサンドラは前置きをし、一つ深呼吸をする。そうして再び口を開いた。



 ーー幼い頃に連れて行ってもらった、建国記念の祝祭。そこで私は初めて王国騎士団を見ました。式典用の模擬戦ではありましたが、それでも見る者を圧倒する迫力と強さがそこにはあったのです。

 それから騎士は、ずっと私の夢で、憧れで、私が目指すべき姿でした。


 ですが、そうすんなりとはいかなかった。家族は認めてくれましたが、女の癖に、と馬鹿にされ、引き受けてくれる教師もおらず、指南さえろくに受けられなかった。


 殿下、それでもあなたは私を否定しませんでした。覚えていらっしゃるかは分かりませんが、素敵な夢だと言ってくれた。


 恋に落ちたのです。ですが自分の心を自覚する頃には既に、殿下とイザベラは婚約者となっていました。

 ……まあ、二人が婚約者だと内定していたからこそ、イザベラと従姉妹である私が茶会へと招かれ、殿下に出会ったのですから。しょうがないことでした。


 だというのに、私はあなたに濡れ衣を着せてしまいました。本当に申し訳ありません。

 貴族の恥、騎士の資格もない。けれど、あなたはここに残っていてくれた。その上であなたに、私はまた自分勝手を申します。許してください、マティアス。


「私は恥知らずにもあなたの願いを聞いて、あなたに求婚されたいと思ってしまった」


 迷いながらも熱を帯びた視線が、マティアスに向けられた。


「顔を背けるほど、私の姿は不格好なのでしょう。私にドレスは似合いませんが、男だと思われるほどだとは知らなかったのです」


 アレクサンドラの瞳が憂いを帯び、ぎゅうっと拳が胸元で握りしめられる。


「私はイザベラと違って淑やかでもなければ、貴族令嬢として優れているわけではない。むしろ、劣っている。剣の腕しかない女です」


「それでも私は――」


 アレクサンドラが心中を吐露する様子を、誰もが一心に見守っていた。

 だが、その自己否定の言葉を遮ったのは、マティアスだった。


「これ以上、君を卑下しないでくれ。俺は、そんな君だから好きなんだ」


 はっ、とアレクサンドラが顔を上げる。その拍子に、ぱた、と目から雫が彼女の頬に垂れ落ちた。


「昔から、騎士になりたいと言っていたな。王国一の騎士になって、俺とイザベラ、そしてこの国を守るのだと」


 懐かしさからか、マティアスは目を細め、斜め上を見ながら僅かに表情を緩める。


「だが君が長子であるからと、その道を悩んでいるのも知っている」


「どうしてそれを――」


 突然悩みを言い当てられ、呆然とするアレクサンドラにマティアスは頷いた。


「イザベラを通じて、君の妹たちから聞いたんだ」


「俺は、剣の道を志し、民と国を守ると言う君だから好きになったんだ。そんな君を支えたいとも思った」


 やや顔を赤らめながら、真意を尋ねるようにアレクサンドラはマティアスを窺い見る。


「俺が継承権を放棄し、俺がドレッセル侯爵家へと婿入りするのはどうだろうか。勿論、君やドレッセル侯爵の許可を得てからにはなるが」


 マティアスは言葉を切り、意を決したようにアレクサンドラに顔を向けた。


「俺が君を生涯支える。君は、君の夢を叶えてくれ」


 そう言って、そっとアレクサンドラの前に跪き、手を差し出した。


「そんなの、私は……。あなたに一体何を返せば……」


 震える声でアレクサンドラが呟く。その様子にマティアスはゆっくり首を横に振った。


「君がいてくれればいい。それ以外必要ない」


 アレクサンドラはその言葉に、大きく目を見開く。そして、赤い瞳が段々と潤み、くしゃりと顔を歪めた。

 そして一歩、二歩と歩を進め、おずおずとアレクサンドラはマティアスの手を取る。アレクサンドラをマティアスが愛おしげに見つめ、どこかぎくしゃくとした様子で立ち上がった。

 みるみるうちに首まで赤くなるマティアスに、アレクサンドラは気付かない。


「――俺は試合には勝ったが、勝負には負けた」


 マティアスはゆっくりと呟き、ほうと息を吐く。


「世界で一番綺麗だ。似合っている。俺と結婚してくれ、アレクサンドラ」


「っ、マティアス殿下……私も――」


 感極まったアレクサンドラが、返事を口にしようとした瞬間。


「……くっ」


 苦悶の声を上げたマティアスの鼻から、赤い何かが垂れ落ちる。


「で、殿下!?」


「俺の……負けだ……」


 いっそ安らか表情で、一片の悔いもないという表情で、マティアスは後方へと倒れ込んだ。


「殿下――!!??」


 呆気に取られる群衆の中、アレクサンドラの困惑した悲鳴がむなしく響き渡った。




 数か月後、二人の婚約は正式に結ばれることとなった。

 あの会場にいた誰かによって脚色が多く加えられたものの、この騒動は市井へも広く語り継がれることになる。

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第四王子の婚約の顛末は 古倉慎 @kokkurasan

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