欠落

sui

欠落


 心に穴が空いていた。

 それは生まれつきの事であるようだった。

 自分で自分の姿が見える者等居ない。この状態を当たり前として、少しも気付かず今日まで生きて来てしまったのだが、どうも良い事ではなかったようだ。

 気付いてしまったからには何とかしなくてはならない。

 しかし何をどこから手を付ければいいのか、見当もつかない。

 穴が空いている自覚さえなかったのだから、仕方がないだろう。


 それにしても、これは困った事である。

 困り過ぎて食事も睡眠も摂れなくなってしまった。

 生きるのに必要な行為に及べない。やはり心に穴があるのは良くないようだ。


 取り敢えず、家に臥せっていても心は満ちない。それだけは分かった。

 なので家の外へ出る。

 太陽の眩しさにクラクラとしながら辺りを徘徊する。

 途中、心に良さそうな物をいくつか見つけたので手に取った。そして穴らしき場所へと埋めてみた。

 暫くはしっくり来て、これでまともになれたと安心するのだが、段々ズレていってしまう。そうしてポロリと落ちると、恐ろしい程の苦痛に苛まれるのだ。

 やはり、きちんと埋めなくてはいけない。


 只管に、穴埋め出来る何かを求めて歩き続ける。

 頭を捻り、周囲を見回し、時に草木すらかき分けて、あれはこれはと吟味を繰り返す。痛みを味わうのはもう御免だ。

 だが、どれもこれもピンと来ない。良くて抜け落ちた程度の物しか見つからない。

 心の穴とは一体どのようにして埋めたら良いのか。何を埋めたら良いのか。そもそも心の穴とは何なのか。

 疲ればかり溜まっていく。

 溜息が零れた。全身弱っていくのが分かる。焦りを感じて落ち着かない。段々腹が立ってきて、次には悲しい気分になる。

 それが繰り返される内、いよいよどうにもならなくなった。


 辛い。指の一つも動かしたくはない。

 その場に立ち竦む。

 足からズブズブと土に埋まっていきそうだ。いっそ自分が丸ごと埋まってしまえば、穴も消えるのではないだろうか。

 ぼんやり、そんな事を想う。

 体力が残っていたなら試せたかも知れないが、今となってはもう手遅れだ。


 夕日が落ちて朝日が昇る。

 風が吹いて砂粒が皮膚に纏わりついた。

 汗が垂れる。

 痙攣する瞼の上に蝿が止まる。

 唇の上に残った産毛紛いの髭が湿度を拾う。皮膚が炭酸を浴びたようにプチプチとする。


 奇妙な物を見た顔をして人が二、三通り過ぎた。

 足早に道を行く人がジロリと睨み付けて来た。唾でも吐き付けんばかりの表情だった。

 多少の怒りと申し訳なさはあったものの、何を思われようがされようが、動く気にならないのだ。或いはこれすら心に穴が空いているせいかも知れない。

 穴のない人間は一体こういう時に、どういう振る舞いをするのだろう。


 悪臭が漂う。

 自分から放たれていると分かりはするが、どうする事も出来ない。

 口に唾液が溜まって胃袋がズシズシと痛む。

 飢えている気もする。やはりどうする事も出来ない。



 最早人間を名乗る事すら躊躇われる。その様に思えて来た。

 寧ろ、人間を辞めれば良いのではないかしらん。


 人間でなければ心に穴が空いていても問題はないか。

 いいや、虫食い果実が落ちるように、破けた葉が腐るように、虚のある大樹が倒れるように、穴があるものは須らく駄目になるのだろう。


 では、人間を辞めれば許される訳でもないのか。

 まぁ何て嫌なお話!



 頭の中で誰かが会話をしている。

 いっその事、この声の主が代わって心の穴を埋めてくれれば良いのに、そう上手くはいかないらしい。

 ずるりと膝が崩れそうになる。体の力が抜けた。

 グチャリと潰れそうになった瞬間、見知らぬ人が慌てたようにこちらへ走り寄り、手を伸ばしてきた。

 ……様な気がしたが、地面に衝突した。骨と内臓が傷み、小石に皮膚を破かれる。


 倒れたまま、今のは幻覚だろうかと考える。

 その可能性は大いにある。何せ心に穴が空いているのだから。

 起き上がる気力はない。

 口に入り込んだ土を味わう。飲み下したとて腹は膨れないが。

 しかし妙にリアリティがあった。買い物帰りらしい姿で、善良そうな顔をした老人だった。肩には感触が残っている。

 いや幻覚とはそういうものなのか。


 耳が痒い。

 眼球だけ動かせば蟻らしきものが見えた。いくら心に穴が空いていたとて齧られるのは御免だ。

 力を振り絞って仰向けになる。避けられたかは分からない。まだもぞもぞとしている感じがする。


 笑い声がする。

 こちらを見て笑っているのだろうか。笑われても仕方がないとは思う。心に穴が空いているとこんな目にばかり遭う。


「あのぅ」

 少しばかり離れた所から声をかけられた。若い男の声だった。

 あまりに不審なので、まずは話を聞いてみようと寄って来たらしい。

 起き上がった方が良いですよ、と言われたが体は動かない。

 芋虫の様に蠢く様子から察したのか手が差し伸べられた。

 有難くこちらも手を伸ばす。


 すると突然男にブツブツと穴が空き出した。

 目の前で起きている事が理解出来ず、ただただ見つめる。

 穴だらけになった男は最後にはクシャリと丸まり消えてしまった。

 後ろに居たらしい女がきょとんとしている。

 殆ど転がるようにして女に近付けば、男が消えた事に困惑しながらも助けようとしてくれる。だが女もまた接触した途端穴だらけになった。

 痛みがあるのかないのか、女は後ろに下がろうとした。だが穴の浸食は止まらず、結局はクシャリとなって消えた。


 これは何なのだろう。首を動かし周囲を見る。トリックは見つからない。まさか全て幻なのだろうか。幻だったとして何処から?疑いを抱いても答えは出ない、仮に幻を見ているのならそんな人間の判断に期待出来る訳もない。大体そんな事を考えていては自分自身の存在すら危うくなる。流石にそこまではないと思いたい。

 だがこれが全て現実だとしたならば、信じたくもないお話だ。

 いくら心に穴が空いているからと言って、こんな恐ろしい想いまでしなくてはならないというのか。あんまりではないか。


 立てない等と言っている場合ではない。必死になって腕を伸ばし、上体を起こす。そこから這う様にして前へ進む。覚束ない手のいつ止まるとも知れない爪先だけを只管見つめ続ける。


 何とか数メートル、移動する事が出来た。

 だが、ここからどうしたらいいのか。

 不安が心を過れば途端に体が動かなくなった。集中し直そうと四苦八苦しているといつの間にかそこに居たらしい人の存在に気付く事が出来ず、頭をぶつけた。

 やはり相手はブツブツとしてからクシャッとなって消えてしまう。

 今度はどんな人間だったのか分からず仕舞になってしまった。ズボンの色すら見えなかった。


 どうやら自分が人と触れると消えてしまうらしい。

 心に穴が空いているだけでも大変な事であるのに、人との触れ合いも許されないだなんてあんまりではないか。

 何かの罰か。自分は一体どんな罪を犯したと言うのだ。ただ生きて来ただけだと言うのに。



 大きな無力感に襲われた。



 駄目だ。お終いだ。

 視界が暗くなった。耳も聞こえない。寒い、熱い。体が揺れた気がする。そして感覚が失われた。

 悲しい、苦しい。

 何故自分の心には穴が空いていたのだろう?



 メリメリ、

     ブツブツ、


          クシャッ。





 とある世界のとある場所。

 そこには穴が空いていて、近付いた人が突然消えると言う。

 本当かどうかは誰も知らない。興味を持って探索しても答えを持ち帰る者は居ないのだ。


 けれども人はきっと消えている。今日もきっと消えている。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

欠落 sui @n-y-s-su

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ