心理学者探偵・芹沢孝次郎が人間の心の奥底に潜む真実に挑む!芹沢孝次郎シリーズ 第1弾

湊 マチ

第1話 曇った鏡に映るもの

薄曇りの朝、路地裏にある古びたアパートに警察車両が数台集まっていた。外観はひび割れたコンクリートと黒ずんだ窓枠が目立ち、どこか疲れた空気を漂わせている。低いフェンスの向こうでは、近隣住民がざわつき、互いに顔を見合わせては小声で何かを囁いていた。


「どうやら孤独死だな。」


捜査一課の警部補、斉藤が苦々しい表情でつぶやく。60代半ばの女性が自室で死亡しているのが発見された。異臭に気づいた近隣住民が通報し、警察が駆け付けたのだ。


室内に足を踏み入れた斉藤は、埃とカビ臭さに顔をしかめた。室内は一見して荒らされた形跡もなく、棚には整然と並んだ古びた写真立てが置かれている。その中には、笑顔の女性と若い男性が映る写真もあった。


「死因は恐らく老衰だろう。事件性はなさそうだが……一応鑑識を呼んでおけ。」

斉藤が部下に指示を出したそのとき、足元に転がるものに気づく。割れた鏡だった。割れた鏡は少しだけ血に濡れているようにも見えるが、微細すぎて斉藤は首を傾げる。


「鏡が割れてるな。自分で倒したか?」


部下が肩をすくめた。特に目立つ異常はなく、誰もがこの案件を「ただの自然死」と片付けようとしていた。だが、その場にいた一人の男だけが、異なる空気を感じ取っていた。


「少し見せてもらえますか?」


冷静な声が響き、全員の視線が振り向く。そこに立っていたのは、40代後半の男。黒いジャケットを羽織り、少し乱れた髪を無造作に撫でつけたその男の目は鋭く、しかしどこか優しげでもあった。


「芹沢先生……どうしてここに?」


斉藤が驚きつつも、その名前を呼ぶ。芹沢孝次郎。心理学者として名を馳せながらも、今はフリーの探偵として活動している男だ。


「少し興味深い事件だと思いまして。現場の写真を見せていただけませんか?」

芹沢は、静かに割れた鏡に視線を落とした。わずかに付着した血痕、そして鏡の角度。何かが彼の心に引っかかる。


「この鏡……単なる事故ではない気がしますね。」


静かに言い放つ芹沢の言葉に、斉藤は眉をひそめた。


「単なる事故じゃないって?だが、ここには荒らされた形跡もないし、明らかに他殺の痕跡も……」

言いかけた斉藤を、芹沢は軽く制した。


「この鏡が映したものを調べれば、すぐに分かりますよ。」

そう言うと、芹沢は室内を見回しながら、まるで部屋そのものの記憶を探るように歩き始めた。


芹沢孝次郎は、老婦人が暮らしていた部屋を静かに歩き回っていた。足音一つ立てずに部屋を巡るその姿は、まるで時間を遡るような慎重さだった。彼の視線は棚や床、壁、窓枠に至るまで一瞬たりとも止まることなく動き続ける。そして時折、何かを見つけたかのように短く頷き、小さなメモ帳に何かを書き留めた。


「芹沢先生、何か分かりましたか?」

斉藤が痺れを切らしたように尋ねた。だが、芹沢は答えることなく、部屋の隅にあるテーブルに近づいた。その上には古びたカップと皿が置かれていた。カップの中には、飲みかけだったのだろう、乾いた茶渋がうっすらと残っている。


「紅茶ですね。飲みかけ……だいぶ時間が経っています。」

芹沢は指でカップの縁をなぞり、再び鏡に目を向けた。


「これが倒れた位置とガラス片の散らばり方。妙ですね。」

「妙?」

「割れた鏡は、自然に倒れたようには見えません。おそらく誰かが意図的に倒したか、何かがぶつかった結果でしょう。しかも……この血痕。」

芹沢はガラス片の端を指さす。そこには、肉眼ではほとんど確認できない程度の微かな血痕が残っていた。


「鑑識が来たら、血痕の検査を依頼してください。興味深いのは、ここから見える視界です。」

芹沢は鏡の位置を見つめながら静かに言葉を続ける。


「もしこの鏡が割れていなかったとしたら、映っていたのは何だったでしょうか。」

その一言に、室内の空気が一瞬凍りついた。斉藤が再び口を開こうとした瞬間、芹沢は鏡の破片の一つを拾い上げ、じっと見つめた。


「この鏡は、事件の証人かもしれません。」

彼の視線は、割れた鏡の反射を通して部屋全体を見渡していた。


「先生、どういうことです?ただの事故ではないんですか?」

斉藤は半ば呆れたように芹沢を見つめた。だが、芹沢は答えずに窓のカーテンを引き、外の景色を眺める。薄暗い路地裏には雨に濡れたコンクリートが広がり、人気はほとんどない。


「この部屋には、異常な静けさがあります。」

芹沢はカーテンを閉じながら続けた。


「何も語らないようでいて、この空間そのものが何かを訴えている。例えば、この写真立て。」

彼は棚に並んでいる家族写真を手に取った。それは若い頃の老婦人と、20代と思しき男性が並んで笑う姿だった。


「おそらく、この写真の男性はご家族でしょう。ただ、この写真だけが古びている。他の写真は比較的新しい。……不思議だとは思いませんか?」

「それがどういう意味だ?」

斉藤が困惑するように問い返すと、芹沢は写真を棚に戻し、鋭い声で答えた。


「彼女にとって、過去のある時点が時間的に止まっていた。事件はその『止まった時間』が動き始めた結果かもしれません。」


その言葉を聞いた斉藤は、理解できないながらも背筋に冷たいものを感じた。芹沢が部屋の記憶そのものを読もうとしていることに気づいたのだ。


「では、遺族を当たってみます。この男性について確認を……」

斉藤が指示を出そうとした瞬間、芹沢が軽く手を挙げて制した。


「急ぐ必要はありません。まずは彼女自身が、この部屋で何を見て、何を感じていたのか。そこに注目するべきです。」

そして彼は、テーブルの上に残されたカップを指差した。


「この紅茶。誰かと一緒に飲んでいた可能性がありますね。」

そう言い残し、芹沢は部屋を一望して静かに息をついた。


部屋の奥にある小さな引き出しの中を見つめながら、芹沢孝次郎は指先で丁寧に中身を調べていた。古びた手帳、黄ばんだ手紙、そして何枚かの写真。どれも老婦人の人生の断片を物語るものでありながら、それを繋ぐ一本の線が見つからない。だが、芹沢はこのわずかな情報の中に、この部屋が抱えていた「過去」の気配を感じていた。


「手帳か……これには何か書いてありますね。」

芹沢は手帳を慎重に開く。最初の数ページはスケジュールのようなものが書き込まれているが、特に目を引くのはここ数年間ほとんど記録が途絶えている点だった。それにもかかわらず、最後の数ページだけに震えた文字でいくつかの文章が書き込まれている。


「誰かが私を見ている気がする。」

「鏡に映る私が、私ではないようだ。」


斉藤が手帳を覗き込み、その一文を読み上げると、彼の声が微かに震えた。「……これ、何ですか?まるで幻想でも見ていたような……」


芹沢は小さく首を振りながら、静かに答えた。「幻想ではなく、心理的な投影でしょう。この老婦人は、何か心に深い不安を抱えていた可能性があります。その不安が、自分自身を鏡に映すことで増幅されたのかもしれません。」


彼は鏡の破片を再び見つめる。その表情はどこか険しく、しかし何かを確信したようでもあった。


「先生、この部屋には不自然な点がいくつもありますが、事件性を断定できる証拠はまだ出ていません。それに、この手帳の記述だって……精神的に不安定だったとすれば、それだけのことでは?」

斉藤が慎重に言葉を選びながら問いかける。だが、芹沢はその言葉に応じることなく、手帳の記述をさらに読み進めた。そして、次の記述に目を留めた瞬間、彼の眉がわずかに動いた。


「彼が帰ってくると言っていたけれど、もう信じられない。」

「私が悪かったのかもしれない。だけど、謝る機会はもうない。」


「……『彼』?」斉藤が呟いた。「手紙か写真に何か手がかりがありませんか?」


芹沢は答えずに写真の束に目をやった。その中の一枚、特に劣化が激しい写真を慎重に取り上げる。それは30年ほど前と思われる家族写真だった。若き日の老婦人と、その隣で笑顔を浮かべる一人の青年。だが、その青年の顔には深い傷跡があり、目がどこか虚ろだった。


「この青年が、手帳の中で言及されている『彼』かもしれません。」

芹沢は写真を指でなぞりながら、再び手帳を閉じた。


「この部屋には、ある種の時間的な断絶が存在しています。」

「断絶?」斉藤が食い入るように問い返す。


芹沢は部屋全体を見渡しながら説明を続けた。「例えば、この写真の劣化具合。この青年が映っている写真だけが、他のものに比べて極端に古びています。他の写真や家具は比較的新しく、この部屋の住人が最近まで過ごしていた日常を反映している。一方で、この写真のように過去を示すものが『孤立』しているんです。」


「つまり?」

「彼女の心の中で、過去が強く支配していた。特に、この青年との記憶が。もしかしたら……何かしらの事件やトラウマが原因かもしれません。」


さらに調べを進めていく中で、芹沢は引き出しの奥から一通の封筒を見つけた。それは開封されたままであり、差出人の名前は記されていない。しかし、手書きの文字で「もうすぐ帰る」とだけ書かれていた。その筆跡は震えており、急いで書かれたようだった。


「この封筒には日付がありませんが、比較的新しいものです。」

「誰がこんな手紙を送ったんだ?」斉藤は苛立ち混じりに言った。「こんな曖昧な言葉だけで、何を伝えたかったのかも分からない。」


芹沢はその封筒を手に取り、慎重に光に透かしてみた。封筒の端には、何かを燃やしたような黒い跡が残っている。それを見た芹沢の目に一瞬だけ鋭い光が宿った。


「おそらく、これを書いた人物は……事件の鍵を握る存在でしょう。この封筒に残された微かな痕跡が、その人物を追う手がかりになるはずです。」

「痕跡?」

「ここに焦げ跡がありますね。これが意味するものを探る必要があります。」


芹沢は最後に再び割れた鏡を見つめた。彼がそこに何を見ているのかは、誰にも分からない。しかし、彼の中で次第に一つの仮説が形作られ始めていた。


「この部屋で起こったことは、ただの事故ではない。」

芹沢は静かに呟いた。その声は、室内に広がる張り詰めた空気に響き渡った。


「事件の真相はまだ見えませんが、この鏡が割れた瞬間に何かが起こっている。鏡の視点から過去と現在を繋げる糸を、私は見つける必要があるでしょう。」


彼の鋭い言葉に、斉藤はもはや問い返すことすらできなかった。室内にはただ、薄暗い夕暮れの光が差し込み、鏡の破片がその光を反射して静かに輝いていた。


夕暮れの光が部屋に射し込む中、芹沢孝次郎は静かに立ち上がった。割れた鏡の破片を一つ手に持ちながら、彼はその鏡越しに部屋全体を見渡していた。鏡に映る景色は、ただの薄暗い部屋に過ぎない。だが、芹沢はそこに「何か」を見ていた。


「この鏡が割れたのは偶然ではありません。」

彼の口から出たその言葉に、斉藤警部補は苛立ちを抑えきれない様子で問い返した。


「先生、何を言いたいんです?証拠もなしにそんなことを言われても、ただの推測でしかないじゃないか。」

「いいえ、これは推測ではありません。」

芹沢は鏡の破片をそっとテーブルに置くと、深く息をついて続けた。


「この鏡が割れたのは、何かを隠すためだったのです。」

「隠す?」

「ええ。そして、この鏡が割れる前に、ここで何が起こったのか――その全貌が映っていたはずです。」


斉藤は困惑しながらも、芹沢の言葉に耳を傾けた。部屋には、まだ彼らの知らない何かが潜んでいる。それを探るために、芹沢は窓際へと歩み寄った。窓の近くには古びた椅子が一脚置かれ、その隣に灰皿があった。灰皿には燃え尽きた紙片のようなものが残されている。


「斉藤さん、この灰皿を見てください。」

芹沢が指差すと、斉藤は慌てて灰皿を覗き込んだ。灰皿には、細かな灰と共に、焼け残った紙片がほんのわずかに残っていた。それは手帳に挟まれていた手紙の切れ端と同じ種類の紙であることが明白だった。


「……手紙を燃やしたのか?」

斉藤が呟くと、芹沢は軽く頷いた。


「この部屋の住人、つまり老婦人がこの紙を燃やした可能性もあります。しかし、注目すべきはその意図です。この部屋には彼女の強い心理的な痕跡が残っています。過去と向き合いきれなかった彼女が、何かを消そうとしたのかもしれない。」


芹沢は灰皿の中身を指で慎重にかき分けると、焼け残った文字の一部を見つけた。それはわずかに判読可能だった。


「戻ってくる」

その言葉を口にした瞬間、斉藤は眉をひそめた。


「この『戻ってくる』ってのは……例の手帳に出てきた『彼』のことか?」

「可能性は高いですね。」芹沢は冷静に答える。「ただし、ここで重要なのは、この『彼』が現実の人物なのか、彼女の心が生み出した幻影なのかです。」


斉藤はその言葉に息を飲んだ。まるでこの部屋そのものが、一つの心理劇の舞台であるかのようだった。


部屋の中央に戻った芹沢は、改めて割れた鏡を見つめた。その位置を慎重に確認し、床に残る微かな擦り傷に注目する。


「この傷跡、鏡が動いた痕跡です。ですが、興味深いのは動かされた方向ですね。」

彼は鏡の台座を指差しながら続けた。「この鏡は、部屋の中央に向かって押し倒されたように見えます。しかし、もしそれが自然に倒れたのであれば、この傷跡の方向とは一致しないはずです。」


「誰かが倒した……ってことか?」

「その可能性が高いですね。特に、倒れる際に鏡が映していたものを隠す意図があったのなら。」


芹沢はさらに一歩踏み込み、鏡が元々立っていた場所に視線を集中させた。その視線の先には、部屋の奥にある古びたクローゼットが映っていた。


「このクローゼットの中、調べてみる必要がありそうです。」

斉藤がクローゼットを開けると、中からは古い衣服や箱が現れた。だが、それをかき分けた先に、奇妙なものが見つかった。そこには何枚かの新聞の切り抜きが貼られており、見出しにはこう記されていた。


「失踪事件の行方――青年Aの軌跡」

「母親との関係に潜む闇」


「これは……なんだ?」斉藤が新聞の切り抜きを手に取り、声を震わせた。


「おそらく、老婦人の息子についての記事でしょう。」

芹沢は静かに答えた。「彼女はこのクローゼットを、過去と向き合うための場所として使っていたのかもしれません。」


その時、芹沢はクローゼットの一番下に置かれた箱を見つけた。それを開けると、中には一冊の古びたアルバムが入っていた。アルバムには、老婦人とその息子と思われる青年の写真が時系列順に並べられていた。しかし、あるページをめくると、突然写真が途絶え、その代わりに手書きのメモが挟まれていた。


「彼を待つ。それが私の最後の役目。」


その文字を読み上げた芹沢の表情が、一瞬だけ険しく変わった。彼はそのメモをそっとアルバムに戻し、静かに呟いた。


「彼女の心が過去に囚われていたのは確かです。そして、その過去が彼女の人生の最後の瞬間にも影響を与えた。」


部屋の中は再び静寂に包まれた。芹沢は最後にもう一度鏡を見つめ、低い声で言葉を継いだ。


「この鏡の中に、事件の真実が隠されています。次に進むためには、この『彼』について調べる必要があるでしょう。」


斉藤はその言葉を受け止め、無言で頷いた。夕暮れの光が徐々に薄れていく中、部屋に漂う空気は冷たく、張り詰めた緊張感が広がっていた。


読者の皆様へ


「芹沢孝次郎シリーズ第一弾」第1話をお読みいただき、ありがとうございます。作品を楽しんでいただけたでしょうか?

体調不良のため執筆を断念しておりましたが、少し体調が良くなった為、執筆を再開致します。


ぜひ、皆様の評価レビューや応援コメントをお聞かせください!ご感想やご意見は、今後の作品作りの大きな励みとなります。


次回は、2024年12月1日(土)投稿です!


皆様に楽しんでいただける物語をお届けできるよう頑張りますので、応援よろしくお願いいたします!


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心理学者探偵・芹沢孝次郎が人間の心の奥底に潜む真実に挑む!芹沢孝次郎シリーズ 第1弾 湊 マチ @minatomachi

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