第3話 過去が映す影

翌朝、警察署の捜査室に新たな情報がもたらされた。フードを被った男の行動を追跡するため、商店街やアパート周辺の監視カメラの映像がさらに解析され、その男の行動範囲が特定されたのだ。


「フードの男は森川亮と接触した後、アパートに向かい、そのまま建物に入っている。」

斉藤警部補が映像を指差しながら説明する。「そして、森川亮が去った後もフードの男はしばらく建物に留まり、深夜に裏口から出て行った。」


「裏口から?」芹沢はその言葉に反応した。「それは何かを隠そうとした行動かもしれませんね。」


映像を巻き戻し、裏口付近を映したカメラに切り替えると、フードの男が手に何かを持ちながら出て行く姿が確認された。それは白い布に包まれたもので、形状から何かの小型ケースのように見えた。


「このケースは何だ?」斉藤がモニターに顔を近づける。「老婦人の持ち物か?」


「可能性はあります。」芹沢が静かに答えた。「そのケースが事件の動機を示す鍵になるかもしれません。」


さらに調査を進める中で、フードの男が路地裏でタクシーを拾い、市内の古びた住宅地に向かったことが判明した。タクシー会社の記録から、その降車地点も特定される。


「住所はここです。」若い刑事が報告書を手渡した。「この場所に住む男性が、フードの男の可能性が高いです。」


名前:吉田慎二

年齢:42歳

職業:不明(過去に短期の逮捕歴あり)

住所:古いアパートの一室


「吉田慎二……」斉藤が低く唸る。「こいつが森川亮と接触していた理由はまだ不明だが、老婦人の死に深く関与している可能性があるな。」


「彼と森川亮の接点を探るべきですね。」芹沢はすぐに行動を提案した。「この人物に直接会いに行きましょう。」


芹沢と斉藤が吉田慎二の住む古びたアパートに到着したのは昼過ぎのことだった。外観はひどく荒れ果て、郵便受けには投げ捨てられたチラシが山積みになっている。明らかに住人が多くない建物だった。


「ここが彼の住まいか……」斉藤がインターホンを押すが、応答はなかった。


「中にいる可能性はあります。」芹沢が玄関の扉を見つめながら言った。「隠れているのかもしれませんね。」


斉藤は呼び鈴をもう一度鳴らしながら、ドアを叩いた。「吉田慎二さん、話が聞きたい。開けてください。」


数秒の沈黙の後、ようやく中からかすかな物音が聞こえた。やがて、ドアが少しだけ開き、中から痩せた中年男性が顔を出した。その顔は疲れ切っており、目には不安の色が浮かんでいた。


「……何の用だ?」吉田が低い声で言った。


「警察だ。あなたが先日、ある事件現場で目撃されている。少し話を聞かせてもらえないか?」斉藤が警察手帳を見せながら言う。


吉田は顔を引きつらせ、一瞬ドアを閉めようとしたが、斉藤が手を伸ばしてそれを防いだ。「協力してもらえますよね?」


部屋の中に入ると、そこは狭く散らかった空間だった。テーブルの上には、飲みかけのコーヒーカップと何枚かの紙が無造作に置かれている。その紙には、何かを殴り書きしたような文字が並んでいたが、芹沢はそれに目を留めた。


「吉田さん、先日アパートで何をしていたのか教えていただけますか?」芹沢が穏やかな口調で尋ねた。


「俺は何もしていない……ただ、亮に頼まれて、少しだけ会っただけだ。」吉田は目をそらしながら答えた。


「亮……つまり森川亮さんですね?」芹沢が確認すると、吉田は渋々頷いた。


「そうだよ……あいつ、妙なことを言ってた。『母親と最後の話をしに行く』とか、『全てを終わらせたい』とか……。」


「それで、あなたは彼に何を頼まれたのですか?」芹沢がさらに問いかける。


吉田はしばらく黙った後、小さな声で答えた。「……鏡を壊すのを手伝ってほしいって言われたんだ。」


その言葉に、斉藤が驚いたように声を上げた。「鏡を壊す?それはどういうことだ?」


「詳しくは分からない。ただ、亮は『あの鏡が母親を苦しめている』とか、『あれを壊さないと真実が見えない』とか訳の分からないことを言ってたんだよ。」


吉田の言葉を聞きながら、芹沢はその意味を深く考えた。森川亮が鏡を壊すことにこだわった理由――それは、単なる物理的な破壊ではなく、彼の心の中にある何かを象徴しているようだった。


「彼にとって鏡は、母親との関係における何かを象徴する存在だったのでしょう。」芹沢は静かに言った。「その鏡を壊すことで、彼は母親との過去に決着をつけようとしたのかもしれません。」


「だが、それが母親の死とどう繋がる?」斉藤が問い返す。


「それがこれからの課題です。」芹沢は冷静に答えた。「吉田さんの証言を元に、さらに深く掘り下げる必要があります。特に、森川亮が言っていた『真実が見えない』という言葉――それが何を意味するのか。」


吉田慎二の証言を得た芹沢と斉藤は、さらに事件の真相に迫るため、警察署で森川亮を直接取り調べることにした。森川はすでに捜査班によって身柄を確保されており、取り調べ室の片隅で沈黙を保っていた。


芹沢が部屋に入ると、森川は一瞬だけ視線を上げたが、すぐに目をそらした。その表情は疲弊しきっており、何かを抱え込んでいるようだった。


「森川さん、私たちはあなたが何を抱えているのかを知りたいのです。」

芹沢は穏やかな口調で語りかけた。「あなたの行動が、母親である老婦人の死にどう繋がっているのか――そして、あなた自身がその中で何を感じていたのかを教えてください。」


森川はしばらく無言だったが、やがて低い声で口を開いた。


「俺は……ただ真実を知りたかっただけだ。」


「母親との再会」


森川の告白は、彼と母親の関係を新たな視点で浮き彫りにした。


「母親は……俺を捨てた。」

森川は感情を抑えながら続けた。「俺が子どもの頃、父親がいなくなってから母はどんどん変わっていった。部屋に閉じこもるようになり、俺と話すこともほとんどなくなった。あの鏡の前に座って、ただ何かを見ているだけだった。」


「その鏡は、あなたにとってどのような意味を持っていたのですか?」芹沢が尋ねた。


「分からない。ただ、俺にとっては……不気味な存在だった。母が鏡を見つめている間、俺は一人だった。あの鏡が母親を奪ったような気がしてならなかったんだ。」


森川は顔を覆い、深く息をついた。そして、母親との再会について語り始めた。


「数日前、どうしても母に会いたくなった。俺が家を出てから、一度も会っていなかったから。どうしてあんな風になってしまったのか、知りたかったんだ。」


「それで喫茶店で会ったのですね。」芹沢が確認すると、森川は頷いた。


「ああ。母は俺の顔を見た瞬間、驚いてたけど、俺が話し始めるとすぐに泣き出した。そして……謝ってきたんだ。」


「何について謝ってきたのですか?」


森川は少し戸惑いながら答えた。「俺を放っておいたこと。それから……俺に言えない秘密があったことを。でも、その秘密が何なのかは最後まで教えてくれなかった。ただ、『鏡を見れば分かる』って言ったんだ。」


森川はその言葉を受け、母親の部屋を訪れる決意をしたという。だが、そこで彼が見たのは、割れた鏡と混乱した母親の姿だった。


「母は怯えていた。何かを隠そうとしていたのか、それとも過去を暴かれるのを恐れていたのか分からない。ただ、俺はそのとき気づいたんだ。母が鏡を恐れていたのは、鏡に映る自分自身のせいだった。」


森川は言葉を続けた。「母は鏡を壊そうとしていた。でも俺は、壊すべきじゃないと思ったんだ。鏡には……母が隠していた何かが映っていたかもしれないから。」


「それであなたは、母親を止めようとした?」芹沢が問いかける。


「そうだ。だが、そのとき……」森川は声を詰まらせた。「母が俺に向かって叫んだんだ。『あの男が戻ってくる!』って……。俺は、その言葉が何を意味しているのか理解できなかった。でも、母はそれを最後に倒れたんだ。」


森川の言葉に、芹沢は深い疑念を抱いた。「あの男」という言葉が、事件の全貌にどう関係しているのか――その謎を解く必要があると感じた。


「森川さん、母親が言った『あの男』について、何か心当たりはありませんか?」


森川は頭を振りながら答えた。「分からない。でも、母が言うには、その男が俺たちの家族を壊したと言っていた。それが誰なのか、俺には何も分からないんだ。」


「鏡が関係しているとすれば、『あの男』もまた鏡に映る存在だったのかもしれません。」芹沢は自分に言い聞かせるように呟いた。


斉藤が苛立ちを隠せない様子で言った。「これじゃ、まだ全貌が見えない。『あの男』が誰なのか、何をしたのか――何も分からないじゃないか。」


「焦らないでください。」芹沢は冷静に答えた。「森川さんが言った『鏡を壊す』という行為。そして『あの男』の存在。これらの点を繋ぐ手がかりが、まだどこかに隠されています。」


森川亮の証言により、老婦人が抱えていた「秘密」と「鏡の中の男」の存在が浮かび上がった。その夜、芹沢孝次郎は老婦人の過去をさらに調べるため、彼女の戸籍記録や過去の生活履歴を丹念に調査していた。彼女の人生の断片を繋ぎ合わせることで、事件の核心に迫る糸口を見つけようとしていた。


警察署の資料室で、斉藤警部補とともに調べた結果、老婦人の過去が徐々に明らかになった。


名前:森川英子

年齢:70歳(死亡時)

職業:元縫製工場の従業員

家族構成:夫(故人)、息子(森川亮)


「夫は20年前に亡くなっているようですね。」斉藤が記録を指でなぞりながら言った。「それまでは平穏な家庭だったみたいだが、夫の死後、生活が一変している。」


「興味深いですね。」芹沢は手帳にメモを取りながら続けた。「夫の死が彼女の心理にどのような影響を与えたのか。そこに今回の事件の鍵が隠されているかもしれません。」


さらに調べを進めると、20年前の新聞記事に目を留めた。記事には森川英子の夫が事故で亡くなったことが記されていたが、その事故には奇妙な点があった。


記事の一部抜粋

「不審な事故死――森川○○さん(当時50歳)が自宅近くの路地裏で倒れているのが発見された。警察は当初、心臓発作による自然死と判断したが、現場には争った形跡があり、近隣住民から複数の目撃証言が寄せられたことで、捜査が難航している。」


斉藤が記事を読み上げると、眉をひそめた。「不審な事故……これは単純な心臓発作じゃないな。だが、結局この事件はどう処理されたんだ?」


「記録によれば、最終的に事件性は認められなかったようです。ただし、争った形跡があったというのが気になりますね。」芹沢は記事に目を通しながら言った。「これが森川英子さんに与えた影響を考える必要があります。」


記事の中には、当時の目撃者として名前が挙がっている人物の記録も残されていた。その中の一人、現在も同じ地域に住む高齢男性が浮上した。


「彼女の夫が亡くなった事件の真相を知るためには、この目撃者に会う必要がありそうですね。」芹沢は斉藤に向かって提案した。


「分かった。すぐに手配しよう。」斉藤が電話を取り出し、地元警察に連絡を入れた。


翌朝、二人は目撃者である高齢男性、村田一郎の自宅を訪れた。村田は小柄で痩せた体つきの老人だったが、記憶はまだ鮮明で、事件について語ることに躊躇はなかった。


「ええ、あの日のことは今でも覚えていますよ。」村田は深く皺の刻まれた顔に緊張を滲ませながら言った。「森川さん――英子さんの旦那さんが亡くなったあの日、私はたまたま家の窓から路地を見ていたんです。」


「路地で何があったのですか?」芹沢が静かに促すと、村田はゆっくりと言葉を続けた。


「あのとき、彼が誰かと言い争っているのを見ました。相手は男でした。背が高くて、コートを羽織っていたのを覚えています。ただ、顔までははっきり見えませんでした……。」


「その男が森川さんの死に関与している可能性は?」芹沢がさらに問いかける。


「間違いないでしょう。」村田は力強く頷いた。「争った直後に森川さんが倒れ、その男はその場から走り去りました。その後、警察が調べていましたが、結局何も出てこなかったんですよ。」


「その男について他に覚えていることは?」斉藤が尋ねる。


「強いて言えば……彼が何かを手に持っていたように見えましたね。薄いケースのようなものだった気がします。」


芹沢の目が鋭く光った。「薄いケース……それがこの事件とどのように繋がるのか、調べる必要があります。」


村田の証言を聞いた芹沢と斉藤は、一つの仮説を立てた。


「彼女の夫の死は、単なる不審死ではなく、明確な事件だった可能性が高い。そして、その事件が森川英子さんの人生に深い影を落とした。」芹沢が手帳を閉じながら言った。「そして、その影が現在の事件に繋がっているのかもしれません。」


「つまり、『あの男』は、20年前に森川英子さんの夫を殺した犯人だと?」斉藤が確認すると、芹沢は慎重に頷いた。


「可能性はあります。ただし、彼が再び現れた理由が重要です。そして、その理由が鏡に関係している。」芹沢は視線を窓の外に向け、静かに続けた。「この鏡が過去と現在を繋ぐ鍵になるのでしょう。」


20年前の事件と、現在の老婦人の死が深く関係している――芹沢孝次郎はその仮説を胸に、さらに調査を進めていた。森川英子が「鏡を見れば分かる」と言い残した言葉と、彼女が最後に恐れた「あの男」の正体を突き止めるため、彼は再び老婦人のアパートを訪れることを決意する。


斉藤警部補とともに再び老婦人の部屋に入った芹沢は、静かに部屋の空気を感じ取った。最初に訪れたときと変わらない薄暗い部屋。しかし、今の芹沢には、部屋の中に隠された「意図」をより明確に感じ取ることができた。


「鏡だ……」芹沢は部屋の中央に視線を落とした。割れた鏡の破片がいまだ床に散らばっている。彼は慎重にその破片を拾い上げ、一つ一つ光に透かして確認し始めた。


「先生、また鏡ですか?」斉藤が疑問を口にした。


「鏡は真実を映すものです。ただし、映すものは必ずしも目に見えるものとは限りません。」

芹沢は破片をじっと見つめながら続けた。「この鏡は、彼女が隠し続けた『過去』そのものを象徴しています。そして、過去が壊れたとき、真実が表に現れるのです。」


芹沢は、倒れたままの鏡台を慎重に調べ始めた。鏡の裏側には、誰もが見落としそうな隙間があり、そこに何かが隠されているようだった。彼は指先でその隙間を探り、小さな封筒を引き出した。


「これだ……!」芹沢は低く呟いた。封筒の中には、一枚の古い写真と手紙が入っていた。


写真:若き日の森川英子と、背の高い男性が一緒に写っている。男性は20年前の目撃情報にあった「コートの男」と一致する風貌だった。

手紙:短い文章が震える筆跡で綴られている。


「私は知っている。この男が私たちの家族を壊した。彼が戻ってくることを恐れている。鏡は全てを見ている――真実は隠せない。」


「彼女はこの手紙を隠していた……」斉藤が呟く。「誰にも知られたくなかったんだな。」


「いいえ、誰かに見つけてほしかったのです。」芹沢は手紙を丁寧に封筒に戻しながら言った。「彼女は恐れと向き合いながらも、真実を知ってほしいと願っていた。だからこそ、この鏡の裏にこれを隠したのでしょう。」


その直後、警察署から連絡が入った。商店街近くの監視カメラの追加映像で、フードの男が森川英子の部屋を訪れる直前、何かを路地裏に埋めるような動きをしているのが確認されたという。


「埋める?」斉藤が電話越しの情報に反応する。「路地裏に行く必要があるな。」


芹沢と斉藤はすぐさま現場に向かった。監視カメラの映像を元に場所を特定し、警察官たちが土を掘り返し始める。そして、10分ほどで薄い金属製のケースが土の中から姿を現した。


「これがフードの男が隠したものだ。」芹沢はケースを見つめ、ゆっくりと開けた。


中には、一枚の写真と古い鍵が入っていた。


写真:コートの男が森川英子の夫と激しく言い争っている場面。明らかに隠し撮りされたものだった。

鍵:どこかの古いドアを開けるためのものだが、用途は不明。


「これだ……この写真が、彼女の夫をめぐる事件の証拠になり得る。」芹沢は静かに言った。「そして、この鍵が、事件の最終的な扉を開く鍵になるかもしれない。」


芹沢は写真を見つめながら、静かに呟いた。「フードの男がこれを隠した理由。そして、鏡が映し出していた『あの男』の正体……全てが繋がり始めました。次に進むべき場所は、この鍵が示している。」


「どこに行くんだ?」斉藤が問いかける。


「彼女の夫が最後に訪れた場所です。」芹沢は断言した。「そこにこそ、この事件の最終的な答えが隠されています。」


窓の外では夜の闇が広がり、冷たい風が吹き始めていた。真実に迫る最後の扉が、少しずつ開き始めている――。



読者の皆様へ


「芹沢孝次郎シリーズ第一弾」第3話をお読みいただき、ありがとうございます。作品を楽しんでいただけたでしょうか?


ぜひ、皆様の評価レビューや応援コメントをお聞かせください!ご感想やご意見は、今後の作品作りの大きな励みとなります。


次回は、2024年12月14日(土)投稿です!


皆様に楽しんでいただける物語をお届けできるよう頑張りますので、応援よろしくお願いいたします!



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