メビウスの歩道橋

波濤

メビウスの歩道橋

 終電まであと二〇分。

 いつもの居酒屋に集合して、飲んで喋って他愛無い時間を過ごした金曜の夜。会話した内容は覚えていない。毎回そんなもん。大体あいつが馬鹿みたいなことをいって、俺が指摘して、あいつがさらにメチャクチャなことを返してきて、俺が笑うだけの時間。

 こんなことをすでに数年続けているのだから、人間は簡単に成長できないのだなと思う。時間だけが前に進んで、俺たちは立ち止まっている。

 そして、それでいいと思っている。

 

 脳天気に鼻歌を歌うあいつは蛇行しながら進んでいる。駅まで送ってくれるらしい。律儀な奴だ。女のあいつと男の俺と考えると、送るべきは俺のはずなんだが。頑なにあいつは俺を駅まで送ろうとする。

 その行動の意味に気付かないほど俺は鈍感じゃない。

 

 

 帰り道には歩道橋がある。

 歩道橋といえば、ここの歩道橋は妙な形で、まるでメビウスの輪を半分に切ったかのような不思議な形をしている。片方の階段を上がると、橋桁が緩やかに捻れ、反対側の階段は最初の位置から九〇度ずれた向きに設置されていた。上空から見下ろせば、歪んだZ字のような形を描いているのかもしれない。

「メビウスについた~」

 あいつは万歳のポーズでそう言う。すでにいい歳をしているというのに、こいつは妙に幼い言動が似合うのだ。

 この歩道橋を渡ってまっすぐ歩けば駅に着く。何度も繰り返した工程。目を瞑っても行ける、とまでは言えないが。

「じゃあな、また連絡するわ」

 最後の挨拶は手短に。

 今日は駅まで送ってもらう気になれなかった。なにしろ、今日は話が盛り上がりすぎていつもより遅い時間になっている。人通りも少ない帰り道で、こいつに何かあったらと思うと。

 じゃあ送ってけよ、という話ではあるんだが、男女の距離感は難しい。それに俺が思い誤る可能性だってある。

 そしてそれは、非常に、かなり、具体性を持った可能性だったりもする。

 あいつは多分何も気にせずに俺を部屋に招くだろうし、俺はそれを断れない。部屋に入ったらどうなるか。

 あいつが俺を拒絶……とここまで考えて、想像を止める。

 起こらない未来に想いを馳せても意味はないのだから。

「んね、待って」

「あ?」

「あのさ、あのさ」

「なんだよ」

 子供っぽい口調であいつが俺を引き止めようとしている。何度も経験しているからわかる。こういう幼い言葉遣いをするときは、大抵碌でもないことを言う時なのだ。

「もしもこれが本当のメビウスだったらどうする?」

「どうもしない」

「ねーえー!」

 俺が踵を返そうとすると、あいつは少し大きな声を出した。近所迷惑だぞ。

「一応夜だからね」

「ね! 本当にさ! あっち行こうとしたのにこっちに戻ってきたらどうするの!」

「そんなわけない。じゃあな」

「待って! やだ!」

 あいつは俺の服の裾を掴む。距離が近くなって心臓が跳ねる。アルコールの匂いがする。こいつ今日何杯飲んだんだっけ。

「どうしたんだよ……」

「だからね、本当のメビウスだったらさ、帰れなくない?」

「これはただの歩道橋なので。それに何度も使ってるじゃないか」

「そうだけど……今日は違うかもしれないじゃん」

「今日に限って? 突然ホンモノのメビウスの輪になっちゃったってこと?」

「ありえないことはない!」

「あり得ることにも限度はあるだろ」

「可能性は無限大!」

 こいつは指で八の字を作った。どうやら無限をジェスチャーで伝えたかったらしい。

 不意に抱きしめたくなるが、とりあえず我慢する。

「で、俺にどうしろと」

「あっちの横断歩道使って帰る」

「遠回りじゃん……終電間に合わなくなったらどうする」

「それはその時考える!」

「めちゃくちゃ過ぎる……顔が可愛いから何を言っても許されると思いやがって」

「一理あるなぁ……。え、私の顔可愛いと思ってたの」

 これは失態。

「そんなことは置いといて。俺は帰るよ。だってあともう十分しかない。駅向かってホームに、って考えるとそこまで余裕無いし。じゃあな」

「まってよ~」

 あいつは悲しそうな顔をする。小さい女の子が道に迷ってしまいました、とばかりの弱った顔だ。

「ずるいって」

「ずるくないもん」

「じゃあ見てろよ。多分大丈夫だから」

 俺は軽快に階段を駆け上った。許せ。これ以上一緒にいると妙な雰囲気になり、展開になり、俺は一生の傷を負うだろう。この年でそんな辛い思いをしたく無い。ある程度の年齢を経てからの失恋ほど辛いものはないのだから。

 

 もちろん、あいつは俺のことを好きなんだろう。でもさ、それ以上に居心地が良いんだ。それを崩すほどの覚悟はできない。一歩踏み込んで、えられるものはたくさんあるだろう。でもかけがえのない時間だって、そこには確かに存在しているのだ。今がそれなわけで。

 結局俺は恋人同士の責任を負いたくないのかもしれない。無言で発生するプレッシャー、未来について考えるだとか。始めたら最後、動く歩道に乗せられて、何も進めたくないのに前進することになる。立ち止まるなら、一歩もそこから動かないほうがマシだ。自分の意思とは違う形で移動させられるなんて、まっぴらごめんだ。

 

 そしてこれも全部嘘で、あいつが一緒に歩いてくれるなら、どうだってなんでもいいとも思っている。

 

 単純に踏ん切りがつかないのを、なるべくたくさんの言葉で言い換えている。

 それだけ。

 

 格好悪いけど、これが俺なのだから仕方ない。

 

 

 橋を渡って階段を降りる。あとはこのままいつもの道を。

「ほら! やっぱ元に戻ってきてる!」

「はぁ?」

 目の前にあいつがいた。嬉々としてぴょんぴょんと跳ねている。可愛い。いやそうじゃない。

「お前何して」

「ずっと同じ場所で待ってたよ」

「そんなわけないだろ、走ってここまできたのか? だいぶ酒飲んでたろ? 気持ち悪くなってないのか?」

「んーん、ずっと同じとこで待ってた」

 ずっと待ってたよ。とあいつは言う。

 別の意味に聞こえて嫌になる。

「明らかに景色が違うだろ」

「本当に~?」

 笑っている。俺は辺りを見回す。そうだよな? あいつが下道を走って、俺のことを騙そうとしてるだけだよな?

 でも夜の景色は昼間と違って見えて、確信が持てない。

 いや、確かに、確かに俺は歩道橋を渡って向いの歩道に降りたのだ。そうでないとおかしい。

 けれども、

「ほら、自信ないんじゃん」

「この辺似たようなビルしかないのが悪い」

「何回も来てるのに」

「そりゃそうだけど、」

 お前に気を取られて街並みとか見れてませんでした。は、流石に気持ちの悪い返しなので黙る。

「ね、どうしようね、帰れないね!」

 笑っている。何が嬉しいんだ。そういえば人が困った顔が好きと言っていたことがある。なんて女だ。笑った顔が可愛くなかったら、とっくの昔にえらい目にあってるぞ。

「てかさ、私って可愛いの?」

「このタイミングで聞くことじゃないだろ」

「ねぇ、実際どうなの? 確かに今年に入って三回は告白されたけどさ、そんな可愛いと思ったこと一度もないんだよね」

「初耳なんだが。え、そんなことあるの?」

 今年まだ三月なんだけど。一ヶ月に一回のペースってこと?

「確かに知らない人から声かけられるけど。確かにお店でもの買うとおまけもらえるけど。たしかにブスって言われたことないしなぁ。私って可愛いのか」

「はあ、はい。自慢話ありがとうございます」

「で、君は?」

「え?」

「どうなんですか?」

 あいつがまっすぐ俺を見つめた。さっきまでの適当な時間が嘘みたいに、ぴたりと空気が張り詰める。

「イエスオアノー」

「なんで答えなきゃならないんだよ」

「そうしないと前に進めないから」

「なに? 俺にどうして欲しいの?」

「答えが欲しい」

「答えってなんだよ」

「ごめん答えじゃないかも。言葉が欲しい。君の口から」

 息が詰まる。気持ちが悪い。

「答えて何があるの?」

「何もないよ。何もないけど。このまま何もないまんまなんだな、って。自分のためにそれが聞きたい」

 諦めるために。

「それでさ、俺がたとえば可愛いって答えるとするじゃん。諦められなくならない?」

「そうだね、そうかも」

「だったらさ、可愛くないって答えるしかなくない? 実質一択じゃん」

「感覚で答えてよ」

「俺の意思でお前を迷わせたくない」

「うそつき、迷ってるのは君だけじゃん!」

 急に、遠くから電車が走る音が聞こえた。タイムリミット。時間切れ。俺は脱力する。漫画喫茶って駅前にありましたっけ?

 携帯を取り出して調べようとすると、あいつが携帯の画面を手で覆った。

「なんなんだよ今日……情緒不安定すぎるな」

「誰のせい!」

「俺の……せいなの?」

「二人のせいですね」

「別にお前が悪いことひとつもなくない?」

「あるよ、君に委ねすぎた。いつかどうにかしてくれるって、願い続けてきた。願ってるだけで何もしなかった。時間が経つのを見てるしかなかった。そのくせ、空気が壊れるのも怖かった。いっそ一生このままでいて欲しいとも思った。……だけどごめん、ほしくなった」

「泣いてる?」

「泣いてない。もう十分泣いたし」

「じゃあもうただの答え合わせじゃん。俺の回答必要なくない?」

「んーん、必要。そうしないとうちら一生このままだよ」

「それで良いじゃん……」

「今の顔鏡で見る? 全然良いって顔してないんだけど」

「酒飲みすぎたから……」

 苦しい、苦しい言い訳だ。ここまで言わせておいて、足踏みしている。

 ぬるま湯から抜け出して、別のところに行って、それでうまくいくとは限らない。確証がない。ベットする意味がない。

 いやそれも嘘。失う覚悟が一番ない。

「ねえ、ずっと同じこと繰り返すの? 一生? うちらってこのまま何度も何度も同じこと繰り返して、何度も何度も同じ位置に戻るの?」

 メビウスの輪は、覚悟のない俺たちに優しく出来ている。歩いたふりして同じ位置にずっといれるのだから。

 覚悟が決まったやつは降りるしかない。

 じゃあこいつは? そんでもって俺は?

「別にどうなりたいとかじゃない。でもずっと同じことの繰り返しはやだよ」

 前に進むか。立ち止まるか。

 いや本当は、自然の成り行きで変化していくのだろうと勝手に期待してただけかもしれない。

 その結果、変化はせず、変わらない日々に無理やり安堵を覚えて、変わらないことに価値を見出した。

「変化は自分で生み出すしかないってことかぁ」

「なにそれ」

「この前飲み屋で知らんおっさんに言われた」

「どんな飲み屋に行ってるのよ……」

「好きだよ。うん。めちゃくちゃ可愛いと思ってる。付き合いたい。あわよくば結婚したい。そうじゃないとこんな頻度で会えない。誰にも渡したくない」

「……えっ?!」

「顔は元から好みだったけど、最近また可愛くなったと思ってる。ちなみに告白してきた男ってどんなやつ? 場合によっては許せないんだけど」

「まってまってまって」

「言ってくれって言ってのはお前だろ」

「こんなに言って欲しいって頼んでない!」

「わがままだな。そこも可愛いが」

「ストップ!」

 あいつが俺の口を手で塞ぐ。うーん、楽しいな。普段ヘラヘラしてる顔しか見たことないけど、意外と表情変わるんだな。知らなかったな。

 もっと知りたいな。

 あいつは深呼吸を一回して、俺の口から手を離した。

「あの、ありがとうございます」

「じゃあ、お前は? 俺のことどう思ってんの?」

「えーと、あの」

「俺だけゲロってお前は何も言わないとか、ずるくない」

「言ういう、いうって。えーっと、前から、す、す、」

「す?」

「好……き…という可能性が一番高い」

「お前のほうが往生際悪いじゃないか」

「思い切りの良さのベクトルが違うからなぁ~」

「てかさ、そろそろ漫喫行っていい? もう眠いんだわ」

「あ~……」

 調べてみたら、どうやら駅前に二四時間やってるところはあった。サウナ付き。激アツ~。

「結構高いんだな、漫画喫茶って」

「お兄さんお兄さん」

「なに」

 あいつはニヤニヤと笑っている。

「もっと良いところあるよ、漫画も読めて、お風呂も入れて、お布団もあって、映画も見れる場所」

「え、どこ」

 答えずにあいつは俺の手を取った。

「ここから徒歩十分ぐらいのとこ、案内したげる」

 言いたいことがなんとなくわかった。

「……別に今すぐに関係進めなくて良いんじゃないの?」

「だーめー! 鉄は熱いうちに打なんちゃらだよ」

「そこまで言うなら最後まで言えよ」

 思わず吹き出した。こいつのこういうところが、……まあいいや。

「そこ酒ある?」

「買えばあるよ、コンビニ寄ってこ」

「確かに買わないといけないものあるなぁ。色々と」

「やだ含みがある~。エッチだなぁ」

「何にも言ってねえし、お前のほうがすけべだし」

 あはは! とあいつは笑った後、急にうずくまった。なんだよその急転直下。突然後悔でもしたのか? この流れで?

「おい大丈夫……」

「あのさー……めっちゃ気持ち悪い……」

「ええ……? なんで突然」

「急に全速で走るとダメだわぁ、酔いが回るねぇ」

「やっぱ走ったんじゃないか!」

「なんのことやら」

 全部言ってるって。

「とりあえず家着いたら水飲んで休めよ」

「え~、ホラー映画朝まで耐久しようよ~」

「そんなんこれからいつだってできるだろ」

「そう……そっか」

 いつでもできるのかぁ。あいつは気の抜けた声で繰り返した。

「じゃあいいのか」

 あいつはそう言って立ち上がって、俺に顔を向ける。

「行こっか」

 特にどちらからともなく手を繋いで、前に進んでいく。確かあいつの家は反対側の道に戻る必要があるんだが。

 ふと、歩道橋を見上げてみる。

「どしたの」

「いや、別に来た道戻っても良いんだよなぁ」

「ああ、うん。そっちでも良いよ」

「……いやいいや。これ使わないで下の道使って行こうぜ。遠回りでも良いからさ」

「そう? わかった」

 たかだか気分の問題ではあるのだけれど。せっかく進むんだったら、元の位置に戻るよりかは。

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