グラフォフォビア

屑木 夢平

グラフォフォビア


 文字が怖い

「a」を押せば「あ」と入力される単純さと

 この喪失や鬱屈の代名詞が見つからない複雑さの間に

 古本屋のにおいが染みついた恐怖が広がっている

 僕が「僕」と書くのを見て

 あんたの文字はぜんぜん読めないね

 と眉をひそめたあの人の

 苗字の書き順がわからない


 深夜の通りを蛇行運転するレクサス

 窓を全開にしてげらげらと笑う男女を

 けたたましいサイレン音とともにパトカーが追いかける

 ここはレクサスと外車だけの街

 軽自動車と建売住宅はいますぐ去れ

 と自治会長がワープロのかな入力で打ちこんでいる

 カタカタカタとキーボードを押す音が通りに漏れて

 冬は空気が澄んでいるから

 音がはっきり聞こえるね

 と笑った彼女の

 声がどんなふうであったかわからない


 文字を書くとき

 言葉を話すとき

 僕は僕と表現していたか

 私と名乗っていたか

 俺でないことは確かだろう

 僕という存在における俺の不在は

 十九歳の夏に証明された

 僕は僕のことを僕と呼んでいたか

 私と自称する僕の存在の確実性は証明されているか

 僕は僕の一人称がわからない


 わからないわからないわからない

 わからないないないわからないないわから

 わからないないないわからないないわからないわから

 ないわからの滝

 マイナス異音の文字が肌を打つときの

 音が全音符なのかどうか僕はまだ知らない

 知る前に死ぬかもね

 

 包丁で人を刺し殺した男は逮捕されるが

 社会性で個を殺した人間は立派な大人

 名刺に書かれた役職が上がるたび

 一人の人間が血も流さず死んでいく

 

 ワーグナー的な自己犠牲によって世界が廻っているのは自明の理だ

 僕もまた

 僕の中にいる僕の、私の、俺のワーグナー的な自己犠牲によって

 僕という存在が存在し続けていることを知っていますか


 文字が怖い

 僕と呼ばれる何者かの不在性と

 その何者かの一人称の不確定性との間で

 僕は恐怖しながら

 飯を食って文字を書いて生きている

 ことが何より怖い

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