初恋。 後編
今でも思い出す事がある。
遠い昔、初めて好きになった男の子。
その子はとても大人しくて、優しくて、私よりもずっと女の子みたいだった。
仲良くなったのは、女の子にいじめられていたのを助けたのがきっかけだった。
今思えば、彼女はあの子が好きだったのだと思う。だけど、彼女は感情的な上に、体が大きくて暴力的だった。いつも悪戯しては、それを彼が嫌がると、怒って引っ掻いたりしていた。
彼は体が小さくて、性格も大人しいから、大した抵抗も出来ず、されるがままだった。
その時、私が彼女に何をしたのかは置いておいて、ともかく、彼を助けた。顔には引っ掻き傷があって、とても悲しそうに泣いていたのを憶えている。
この子は私が守らなきゃ、そう思った。同い年だけど誕生日は私の方が先で、お姉さんだから。
それから、よく遊ぶようになった。遊ぶというか、連れ回したと言った方が近いと思う。
街の近くの森や川、橋の下、廃墟、彼の手を引いて色々な場所に出掛けた。虫取りをしたり、川で水切りしたり、男の子のような遊びばかりしていた。
意外にも、彼は楽しそうにしていた。思っていたよりも、ずっと活発な子だった。何処へ行くにも彼を連れて行き、彼が行く所には着いて行った。そうしているうちに、彼を弟のように思っていた。
一緒にいて当たり前の存在、離れるなんて想像した事もなかった。
家に呼んだ事は何度もある。お母さんも彼を気に入っていて、連れて来るたび喜んでいた。私と違って大人しくて素直な子だから、それはもう可愛がっていた。
普通なら、彼に嫉妬したりするのかも知れないけど、私にはそれが誇らしかった。だって、彼は私のだから。
でも、少し嫌な気持ちにもなった。彼にではなく、お母さんに対してだ。彼を取られると思ったのかも知れない。私はむっとして、彼の手を引いて、部屋に走った。
きっと、そこで気が付いたのだと思う。私は、彼が好きなのだと。始まりは子供らしい独占欲かも知れないけれど、好きになったのは間違いない。
彼とはいつも夕方になるとお別れするのだけど、あまりに離れたくないものだから、ベッドに寝かせて毛布に包んで隠した事がある。
お母さんには、「もう帰った」と嘘を吐いたけど、すぐに見つかった。怒られはしなかったけど、呆れて笑っていたのを憶えている。
そんな日が続いて、ある日の夜、両親から「明日の夜、街を出る」とだけ言われた。当時の私はどう反応しただろう。泣き喚いた以外の記憶がない。
とにかく彼に会いたかった。
翌日の夕方、私はどうしても彼に会いたくて、頭を悩ませていた。その時、彼に本を貸していた事を思い出した。確か、何かの図鑑だったはずだ。内容は憶えていない。
私は大事な本だから取りに行くと言って、両親に頼み込んだ。両親は渋々納得したけど、それが彼に会う為の口実に過ぎない事は分かっていただろう。
私はすぐに帰って来ると行って、家を飛び出した。
彼の家に着き、扉を叩いて玄関を開けると、迎えてくれた彼の両親はとても驚いていた。夕方に来るなんて何事かと思ったのだろう。
「彼に貸していた本を、返して欲しくて」
私がそう言うと、母親に連れられて、彼が本を持ってやって来た。
彼の顔を見た時、もう会えないだろうと思うと、私はその場で泣き出しそうになった。彼の両親は何かを言っていたけど、私はそれどころじゃなくて、本を受け取るとすぐに帰った。
玄関を出ると、「送っていく」と言って彼が来てくれた。いつものように坂道を下りて、しばらく歩いた。
私は何もかも打ち明けたかったけど、話すことは出来なかった。彼も私の様子が変だと思ったのか、話しかけては来なかった。
「ここまででいいよ」
私が言った。彼と一緒に家に近付けば近付くだけ、苦しくなるだけだと思ったから。
彼は私を見ていた。じっと私の目を見つめて、何かを言いたいように思えた。さらさらの黒い髪、琥珀色の瞳、白いシャツ、茶色のカーディガン、紺色のズボン。
背は、私よりも高くなっていた。
「また明日ね」
そう言って、彼が笑った。私は頭を殴られたみたいにくらくらした。私の顔が真っ赤になっていたのを、彼は気付いていただろうか。
私は誤魔化すように頷いて、家に帰った。振り返ると、遠くに彼の後ろ姿が見えた。それが、彼を見た最後だった。
それから色々な事があった。新たな土地で生きていくのに精一杯だった。
それでも、彼を忘れる事はなかった。
初恋というものは、きっとそういうものなのだろう。
「おばあちゃん」
と、孫娘が私の膝の上に乗って笑った。
私は成長して、愛する人と出会い、子に恵まれ、年老いて、今では孫もいる。あの頃を思えば、今が夢のように思う。
彼はどうしているだろう。きっと、素晴らしい伴侶と結ばれ、多くの家族に囲まれ、幸せに暮らしていることだろう。
どうか、そうでありますように。
そして、私の膝の上で笑っているこの子の初恋が、たとえそれがどんな結果になろうと、よいものとして記憶に残りますように。
いつかの秋、夕暮れ、一組の若い男女が、ベンチに座って仲間睦まじく話している。
そうしていると、落ち葉が彼の頭にひらりと乗り、それに気付いた彼女が落ち葉を手に取った。互いにくすくすと笑い合った後、彼女はふと何かを思い出し、語り出した。
「お祖母ちゃんがね、初恋の人の話をしてくれたことがあるの。亡くなるちょっと前に」
彼は少し戸惑ったが、黙って頷いた。
「とても小さい頃の話なのに、細かに憶えているものだから驚いたわ。出会い、何をして遊んだ、別れの日に着ていた服、はっきり憶えているのよ」
「へえ、何故だろうね? 大人になってからの恋愛の方が、記憶に残りそうなのに」
「私も同じ事を言ったわ。お祖母ちゃんが言うには、初恋だから、ですって」
「初恋だからか……でも、本当にそうかも知れないね。うちのお祖父さんも、小さい頃に好きだった女の子を憶えていたから。急に引っ越して、それから会ってないけど、その時の事だけはずっと憶えてるって、そう言ってた」
「ふーん。じゃあ、大体の人はそうなのかもね。初恋って実らないものらしいし。きっと、私達は運が良かったのよ」
彼女はそう言って、彼の手を握ると微笑んだ。 すると、彼は非常に真面目な顔で、
「そうだね。僕もそう思うよ」
と、彼女の手を両手で包んだのだった。不意を突かれた彼女は、顔を真っ赤にしている。
「寒くなって来たし、そろそろ帰ろうか」
「う、うん……」
二人は手を繋いで、舞い落ちる落ち葉の中を、身を寄せ合って歩いて行く。同じ場所へ向かって。
初恋。 本居 素直 @sonetto-1_4
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