棘。
本居 素直
棘。
今でも思い出す事がある。
幼い頃、好きな娘がいた。私と同い年だが、彼女はとても大人だった。
気が強く、少し口が悪く、世話焼きで、優しかった。
彼女に絵本を借りたことがある。いや、何かの図鑑だったかも知れない。
いや、どうだろう、その辺りの記憶が曖昧だ。何せ、もう何十年も前の話だから。
憶えているのは、私はその本を読まなかったということだ。借りたは良いが、読まずに置いていた。きっと、興味がなかったのだと思う。
その本は長い間、私の手元にあった。私は返すのを忘れていた。いや、本の存在すら忘れていたのだと思う。彼女も返してとは言わなかった。
しかし、ある日の夕方、彼女が突然、一人で家にやって来て、貸した本を返して欲しいと言った。
あまりに突然の事で、私も両親もとても驚いたが、私は急いで本を持って来て、彼女に手渡した。
彼女はそのまま帰ろうとしたので、私は家まで送ろうとした。玄関を出て、坂道を下って、それから少し歩いた。
彼女はどこか思い詰めたような感じで、幼い私がそれを察したかどうか分からないが、ともかく会話はなかったように記憶している。
それから暫く歩いていると、「ここまででいいよ」と、彼女が言った。
夕陽を浴びた彼女の赤毛が、ほんのり輝いて見えた。ふわふわと柔らかそうな癖っ毛、深緑の瞳、真っ白なシャツ、長い紺色のスカート。
私はどんな服を着ていただろう。彼女は憶えているだろうか。
「また明日ね」
これは私が言った言葉だ。私は確かにそう言った。彼女はにこっと笑って、本を胸に抱えて帰って行った。
それが、彼女を見た最後だった。
次の日、彼女はどこにもいなかった。彼女は家族と共に、この田舎街から姿を消したのだ。
引っ越したのだと、後になって両親に聞かされた。引っ越したのだと。
今なら分かる。
彼女は、最初からそのつもりで私に会い来たのだろうと。
私は今でも、彼女を思い出す。
成長し、愛する人と出会い、子が生まれ、老いて、孫が生まれ、賑やかさに幸福を感じてる時でさえ、時折、彼女を思い出す事がある。
彼女も今、どこかで家族に囲まれているだろうか。幸せになっているだろうかと。
そうであって欲しい。
棘。 本居 素直 @sonetto-1_4
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます