【増補】絵國淑哉遺稿

【短篇】紫星



    ようせい【妖星】

    災害の前兆(ゼンチョウ)と信じられた、あやしいほし。

    (三省堂国語辞典 第二版第一刷 昭和四十九年)




 彼は妖星のような男だった。その星を、紫星と崇めたのは私自身だ。

 妖星とは凶兆である。深淵なる魔力を帯びて紫色に耀く凶兆にほかならない。だが、紫の星といえば、それは即ち紫微星であり北極星を指す。その意味で、私にとって彼は妖星であり、短い生涯において目を奪い続けた紫星であった。彼は、私の人生を歪め、紫色の光輝をもって生涯に君臨した星である。過去を顧みても、紫色に耀く妖星の言葉を冠するよりほかはない。

 彼と出会ったのは大学生の頃だ。彼は現世において藤尾瑛臣のいみなを有した。

 私と彼には、私立大学の読書会所属という接点があった。しかし、彼の名の認知と、実際に接点を持つまでには時差があった。彼の諱を、私は新入生のサークル勧誘のビラでった。「文芸研究会」と刷られた冊子をビラの束に見初めた。文芸研究会が、読書会の分派であると知ったのは後日のことだ。要約すれば、彼は読書会の異端派でアマチュアの同人作家であった。

 彼の諱をそうした経緯で認識した。彼を見かけたのは二週間後までくだる。

 授業の合間、図書館に立ち寄った時に邂逅を果たしたのだ。読書会には何度か顔を出していたが、彼が定例の会合に列座したことはなかった。読書会の参加者は、藤尾瑛臣という人間の居所を把握しており助言をくれた。結果、諸兄姉が挙げた場所に足を運ぶこと二週間を要した。

 その男を、私は大学附属図書館の日本文学の書架に見出した。

 藤尾瑛臣は、その風貌からして異分子じみていた。読書会における前評判通りの男であったとも言える。当時の彼はのようななりであった。初対面の「スカジャン」を着た姿が容易に思い出せる。猫背に似合わぬ紫色の別珍ベッチンを奇異の目で見たものだ。彼は伸びた後髪を輪ゴムで縛っていた。直截に言えば、読書会の参加者とすらも思えぬような風貌だった。

 この男が、あのような小説を書いたとは信じられない。

 同人誌を出し、新人勧誘のための栞まで配るほどの熱意があるものか。

 私の猜疑は、彼の発した言葉で見事に覆される羽目になった。私の手元を見るなり、彼は「ええ趣味してんな」とだけ言った。手元には、中央公論社刊の文学全集*、第二十九巻の芥川龍之介の巻があった。五百頁を超す、薄群青色の装丁の本をちらと一瞥したに過ぎない。私の見目になどまるで頓着しなかった。私を認めると、紫煙を厭うような煩わしげな口調で呟いた。

「最近、俺のこと嗅ぎ回っとるんは自分やな」

「嗅ぎ回っているというか。……お会いしたいとは思ってましたけど」

 彼の耳許まで、私のが何処からか寄せられたらしい。事実、諸兄姉が気を利かせて私の名前を伝達していたとの話だ。私は機を逃すまいと、彼が頒布したあの小冊子を手に迫った。冊子と言っても、A4の紙を半分に折っただけの栞である。総四頁の冊子、表紙を除いたうちの三頁は藤尾の書いた小説であった。当時の私は、小冊子に掲載された掌編に惚れ込んでいた。

 喩えるなら、紫雷に打たれるような衝撃を受けた。

 藤尾の文章は、高校の同級生が好んだものとはまるで違った。

 私の周囲には、村上春樹に傾倒する同級生も多かった。しかし、彼は平易な文章とは懸隔した文章を書いた。単純に、逆張りの天邪鬼を気取っていたとも思えない。その対極に立ち、究竟を窮めんとするような気概があったのである。塵寰じんかんからの脱却、と語るには些か潤色が過ぎるかもしれない。過言にせよ、彼の文章が彫琢の限りを尽くしたものであったことは事実だ。

 実質、奇人たる藤尾は、稀有な才能があると信じ得る魅力をそなえていた。

 現在の年齢では、それが彼なりの自己防衛であったとも解る。虚飾を施し、潤色された自我そものだったのだろう。俗な風貌や、関西訛りの言葉でさえも作為の産物であった。私は藤尾瑛臣という虚像を求めたのだ。後輩として、薫陶を受けるに足る同年代の人間を望んでいた。

 小説の書き方を教えてくれ、と私は彼の前に立ち塞がって懇請した。

 簡潔な話が、私は彼の後輩になりたがったのだ。否、彼の風貌からすれば、子分や舎弟のほうが適当であったろう。藤尾は、私の気魄に根負けしたように顔を顰めた。そして芥川の全集を顎で指して「俺は『黒衣聖母』が好きや」と言った。彼なりの、謂わば「選書」であることは疑いようがなかった。その選書こそが、私が藤尾の舎弟に認められた証であると解釈した。

 新入生の私は、彼が指定したを借りて帰路に着いた。

 以降、彼の卒業まで、私は藤尾瑛臣という人間の後輩であり続けた。傍目には、彼に追従する敬虔な舎弟であったかもしれない。図書館、空き教室などで、講義外の時間の多くをともに過ごした。ポケベルなど持たずとも藤尾の居所は知れていた。読書会の面々にも腰巾着だと呆れられるほどだった。中には、私と彼の間柄を邪推する者さえいたと言えば窺い知れよう。

 その読書会も、文芸研究会の解散を契機として足が遠退いた。

 解散を決めたのは藤尾だった。入学後、約三ケ月半が経った頃の出来事だ。

 私は次第に、彼の自室に通うようになった。彼のねぐらに、私の訪問が許される優越感が得難かったのだ。風呂無しの、和室の八畳間だろうと不満を抱かなかった。彼に合鍵を持たされたのは半年後のことだ。彼は普段、大学近辺の書店でバイトとして勤めていた。書店勤めの理由は、社員割引で定価より安く書籍を買うためである。新刊は勤め先、旧刊は古書店で細細と買い集めていたものだ。給金の大半を、原稿の用紙代や書籍代に費やしていたものと思しい。

 彼の財政など、家庭の事情にまで踏み込んだことはなかった。

 私自身、藤尾という人間に対する詮索を避けていた。迂闊に問えば、彼の癇に障るのではないかとの危惧があった。彼には野良猫のような気質があった。彼の気質を鑑み、迂闊に野良猫の尾を踏むことを恐れてもいた。同時に、私が藤尾を神聖視していたことも否めない。

 私には、確かに彼への憧憬があった。それは信徒の尊崇にも似ていた。

 事実、藤尾が目を掛けた後輩は私だけだった。興味本位に、文芸研究会を解散した理由を問うたことがある。彼の部屋で、新刊の感想を論じた直後だったろうか。彼はただ「お前がおるからな」と唸るように呟いた。仏頂面でココアシガレット*を齧っていた。その時、彼の寵愛を享受していることを覚った。彼の台詞が、幼稚な自尊心を充足させたことは言うまでもない。

 煙草を分けるように、私に寄越してくれたシガレットの味を憶えている。

 現在でも、彼の好物を見かけると機微に触れる。常日頃から、彼の嗜好を暗記するともなしに把握していた。駄菓子ならば、金地金インゴッドの箱のチョコレート*も好んだ。近代文学は、を筆頭に泉鏡花や江戸川乱歩の名作選。特に、短編や中編を好み、谷崎の「刺青」と「少年」を愛読していた。現代の作家なら、中野美代子の『耀変』が愛読書であった。私に対する推薦図書でもあった。読書や執筆の合間に、金券付きのチョコレートを齧っていた記憶がある。

 彼の小説は、そうした趣味や嗜好に即した文章で綴られていた。

 極端な傾向として、過度なまでの彫琢を施す手癖があった。彼の文章は精緻な螺鈿細工のような代物だった。彼の胸裏を、虚貝うつせの薄片として削いで鏤めるに等しい。彼にとって、執筆とは自傷じみた神経質な作業であった。それは銅版画を鑿で彫り上げる手際をも連想させた。

 藤尾の部屋は、執筆という苦行じみた作業のための根城だった。

 彼の自室を、胸中では「魔窟」と喩えて憚らなかった。昼夜を問わず、薄暗い部屋で読書や執筆に明け暮れたものだ。魔窟の座卓にはカシオのワープロが安置されていた。講義のレポートや小冊子もこれで刷られたものであった。彼は研究室から、藁半紙や不要となった書類の裏紙の束まで調達していたようだ。無論、文学全集などの書籍を並べた書棚も鎮座していた。

 学生の私も、大学生活の前半をこの魔窟で過ごしたと言える。

 彼を思い出す時、私は魔窟で机に向かった時間の長さを痛感する。私の隣で、藤尾は小説の執筆に多くの時間を割き続けた。藁半紙など何十枚あっても足りぬほどだ。彼は藁半紙をメモの代用品として用いた。着想を得ると、藁半紙にアイディアを書きける習慣だった。それを基に、ワープロで起草し、不要な裏紙に印刷してを入れては推敲を重ねるのである。

 彼の操る硬筆の音と、ワープロを打鍵する音ばかりが耳慣れていった。

 記憶にある限り、彼の姿は孤独な修行者の塑像を呈していた。執筆の最中、彼は呼吸すらも押し殺す緊張に身を置いた。無言で胡坐を掻いたまま指先だけを動かした。その孤高に危うさを覚えなかったと言えば嘘になる。傍目にも、結跏趺坐の修行のような有様であった。

 しかし、その姿を敬虔な後輩として尊崇してもいた。

 彼を模範として、四百字程度の短い小説らしきものを書き始めた。

 身勝手な話が、私は彼の朋輩になることを望んだのだ。彼の気質では、私を後輩として唱導する甲斐性はなかったろう。藤尾は、私の原稿をけみしては辛辣な意見を述べた。その反面、冗談でも「時間の無駄だ」と罵倒されたことはない。辞書を片手に、原稿用紙に手間を惜しまず朱入れを施した。彼の懇切な添削が、私に対する真摯さの発露であることは解っていた。

 愚かな熱願を、彼もまた原稿の行間から酌んでいたのかもしれない。

 二年間、惨憺たる執筆を間近に眺め続けた。彼自身は夏目漱石の『虞美人草』を模範としていたようだ。後年、漱石が同作の文体に工夫を凝らしたとの記述を見た。彼もまた文章を琢磨することに余念がなかった。潔癖なまでの文体は、巧緻な螺鈿のごとき細密さとして発揮された。鋭敏な藤尾が、技量を磨き上げると同時に神経を摩耗させていったのも道理だろう。

 私にとって、藤尾は穹窿に耀ける紫星となりつつあった。

 紫星をひたすらに追いかけた。追い縋ることを許されていると信じていた。

 恐らくだが、藤尾は私の魂胆を看破していたはずだ。無垢な童心じみた憧憬だけを抱いていたわけではない。彼に比肩して、彼が遠望する境地を眺めてみたかった。傲慢な自惚れを見逃されていただけである。当時の私は、彼の看過に甘えて後輩の利を享受することを望んだ。

 藤尾と過ごす間、大概の世事ニュースが俗塵のように霞んで見えたものだ。

 時世を思えば、彼に出会ったことを感謝すべきであった。過激なカルト団体*が勃興していた時期だ。学生も含め、二十代の若者が信者として取り込まれていたとも聞く。新人勧誘の時、藤尾の小説に目を留めたことは幸運だった。仮に世間から取り残されようと無害なものだ。私と藤尾は、時代錯誤な「文学青年」を気取る学生だったに過ぎない。

 新入生の私は、彼の熱心な舎弟として他学生に認められつつあった。

 彼もまた、先輩としての愛嬌を蕩尽したのであろう。特に、記憶にあるのは、彼がグラシン紙を買い込んだ時のことだ。吝嗇な彼の行動とも思えずに驚かされた。私にまで分け与えたのだから驚愕もしよう。私の四六判にも手早く薄紙を掛けてくれた。彼は「本が汚れるやろ」と小言を言って腕前を披露してみせた。書店のアルバイトで培われた見事な手際であった。

 執筆の合間、藁半紙でブックカバーを掛けてくれたこともあった。

 奇異な人間にせよ、私たちの学生生活は安泰そのものだった。講義は皆勤で、互いに優等生の側面を有していた。事実、藤尾は小論文やレポートの評価も高かった。読書会の面々も、異端視はしても誹謗の類は漏らさなかった。勤務先の書店でも、愛想のよい店員と周知されていたらしい。風貌と裏腹に、店頭での敬語や挙措には﨟長けたような品があった。確かに気配りに長けていた節もある。私服でさえ、隣室に住む古着屋の店員からを得ていたほどだ。

 彼に選ばれたのだ、との自負を優越感と混同するのも無理はない。

 藤尾の卒業年度、私は彼とともに同人誌を刷ることを決めた。連名の共著で、互いの短篇や中編を集めた選集である。題名は『明媚』を冠し、高額な四六判の製本ではなく文庫本の体裁を選んだ。私家版を真似するわけにもいかない。装幀にしても、極めて質素であったが用紙と組版は藤尾が拘った。藤尾のお蔭で、短篇や中編まで幾らかの作品を手掛けるまでに上達した。

 卒論執筆の合間、彼は原稿の推敲と校正に情熱を傾けた。

 私たちの同人誌は、謂わば「私家版」のような内輪向けの代物であった。

 実質、読書会の諸兄姉、先輩にあたる藤尾の知己への餞別だったとも言える。原価のままの頒布のため、印刷費だけを負担してもらうに近い。卒業を前に、挨拶周りに配ったのは彼らしい案だった。評判もよく、特に藤尾の短篇「紫斑」は相応の反響を得た。私自身、彼の中でも佳編であると思われた。想定外だったのは、私の書いた短篇「鏤骨」が彼の作と並んで白眉と賞されたことだ。周囲にも、若輩が手掛けた作品の出来を賞賛する者が現れた。

 傲慢な私は、藤尾と肩を並べることができたと錯覚した。

 僅か二年の間に、私は彼の「理解者」を望んでいたのだとも解した。単純に、理解者の立場を希求したのではない。朋輩として、双璧と呼ばれ得る人間であろうとした。私と藤尾は互いの文章を切磋琢磨し続けてきた。過酷な砥礪しれいは、藤尾と並び立つ小説を書くためであった。

 当時の彼を、孤高に留め置きたくなかったのかもしれない。

 彼は狷介孤高な人間ではなかった。傍若無人と謗るほど横柄でもない。

 他方、天涯孤独であるらしいことを察していた。盆正月も帰省を避けていたのだから窺い知れる。彼に比肩すれば、その孤独を払拭できると考えたのだ。幼稚で独善的な発想であることは言うまでもない。無自覚にも、彼の朋輩になることを望んでいた。否、朋輩ではなく双璧でありたかった。信頼を得るには、彼が認め得る「才覚」を示す必要があるとも解っていた。

 銘肌鏤骨の証明が、穎悟な藤尾の命脈を断ち得るなど思わなかった。

 藤尾の卒業前、最後に私が顔を合わせたのはあの魔窟であった。転居間近の彼は、段ボール箱に荷物を詰めながら訪問に応じてくれた。藤尾は、卒論の提出前から就活はしないと放言して憚らなかった。就職難を方便に作家を目指す魂胆だったろう。書店でアルバイトを続け、先輩のツテで書き物の仕事を得るようだった。勤務時間を増やすため近所に引っ越すと語っていた。

 彼の気質を鑑みれば、賢明な判断より艱難辛苦を選ぶのも道理だ。

 私の訪問を、藤尾は怪訝な顔で軽くあしらった。素手での来訪も、荷造りの手伝いを命じられるだけで赦された。本来は、彼の卒業祝いを贈答品として持参する予定だった。訪問の直前、転居後に渡す方がよいと判断を改めたのである。彼はやはり、私の手元を見るなり「ええ趣味してんな」と皮肉を漏らした。渋い声音は、彼が嫌った煙草を燻らせるようでもあった。

「絵國、お前の『鏤骨』はええ作品やった」

「僕は先輩の『紫斑』が好きです。あの作品ありきの本でしょう」

 彼の耳許まで、私のが何処からか寄せられたらしい。読書会の諸兄姉が、気を利かせて私への賞賛を伝聞していた。嬉しい反面、藤尾の前では賞賛を憚る気持ちもあった。彼の蔵書を読破し、愛用の辞書まで拝借していた身だ。彼の恩を思えば手放しに喜ぶわけにもいくまい。

 彼の手前、含羞や謙遜とも言い難いような情動を覚えていた。

 私が否定すると、藤尾は眩しいものでも見るように目を眇めた。現在の立場なら、彼が何を洞察していたのかも解る。彼はあの時、私を双璧と見做していたのだ。同時に、私を通じて彼自身の挫折を覚ったに違いない。双璧とは、好一対の優れた璧玉を指す語だ。私が、彼がであろうと二つも璧は要されない。今後どちらかがふるい落とされることは明白であった。

 彼は、自分が壁玉ではなく石になると信じて疑わなかった。

 何故なら、私が若輩であったからだ。彼に倣って筆を執った若輩だった。

 私が研鑽すれば、彼を陵駕してサークルでの評価を得る。既に、読書会からは新人賞への応募すらも期待されていた。藤尾は、私の才能を切磋したことで窮地に立った。私と彼が競えば、私が選ばれると理解していたのだろう。あまりにも皮肉な話だった。同人誌の評価は、先輩と後輩の関係性を容易に覆した。最早、私たちの関係は、対等な朋輩ですらあり得なかった。

 藤尾瑛臣は、絶壁に立たされていることを認識していた。

 彼は、私の後塵を倦み、断崖絶壁から逃げ出したとも解釈できよう。

 卒業式の直前、藤尾は魔窟を引き払い消息を絶った。読書会には顔を出したようだが、卒業式にも参列することはなかった。卒業式の参加者も、藤尾瑛臣という人間の居所については把握していなかった。読書会の後輩が、図書館で本を返却する姿を目撃したのが最後だった。

 消息不明のまま、同人誌即売会でも藤尾瑛臣の名前は挙がらなかった。

 傍目には、私は彼を追放した不遜な後輩であったかもしれない。四年生の頃、新人賞の最終選考の落選作で文壇に上ることが許された。文壇への登壇は、藤尾と連絡を取るための一縷の希望でもあった。読書会の面々には執心深いと呆れられた。藤尾の居所も、流行したPHS*の連絡先も不明であった。彼を放逐しながら、私は藤尾瑛臣という人間の後輩であり続けた。

 処女作の題名は『鏤骨』だった。同人誌『明媚』に寄せた短篇であった。



 【注釈】

* 『日本の文学』(全八十巻) 中央公論社刊

 昭和三十九年初版発行 第二十九巻は芥川龍之介

 編集委員は谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫など(全七名)


* ココアシガレット

 オリオン株式会社(大阪市)のシガレット型の砂糖菓子

 タバコを連想させる青色のパッケージが特徴。

 

* ゴールドチョコ

 福助製菓株式会社(大阪市)の玩具菓子

 金の延べ棒の形をしたパッケージが特徴。全商品に「当たり」の金券が付いている。


* オウム真理教

 麻原彰晃(本名・松本智津夫)が創始した団体。

 地下鉄サリン事件を始め、数多くの凶悪事件を引き起こした。

 【参考サイト】法務省公安調査庁 「オウム真理教の変遷や組織概要」

 https://www.moj.go.jp/psia/20140331.aum.top.html


* PHS

 1995年に登場した通信手段のひとつ。

 PHSは「Personal Handy-phone System」の略称。

 当時、携帯電話と比較し、安価で通信品質に優れることで普及した。

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