26話:決意は夜の帳の中に
夜半。
森の奥深くで本物の梟が鳴くのをぼんやりと聞きながら、私は樹上のバルコニーで蒼白な月を見ていた。
「イナーシャ様」
「フィリア。起こしちゃった?」
「いえ……私も眠れませんでしたから……」
それが嘘だということは分かりきっていたけど、一言「そう」と彼女に笑いかけて、また夜空に目を戻す。
触れれば手が切れそうなほどに細くなった月は、満天の星の中でも冴え冴えとした光を放っている。
綺麗だった。
本当に――背後に広がる森の闇に潜むものを知らなければ、ただ綺麗だというだけで終われたのにね……。
「あの……」
躊躇いがちな声が、三歩離れた距離から投げかけられる。
「ん? なぁに?」
できるだけ明るく、拒絶の意思が無いことが分かるように答えたのに、フィリアはお腹の前で組んだ指を擦り合わせるばかりで、その先を続けることを幾度となく逡巡している。
「……本当に、戦うおつもりですか? あの恐ろしい狼と……」
「…………」
随分長い間が空いて、夜闇の中に震える声が響く。
……私はあのあと、改めてオウルに協力することを約束していた。
そうすべきだと考えた理由はいくつもある。
オウルは、私たちを助けてくれたから。
持ち去られたアウスの身体を取り戻すため。
狼の姿に貶められた民の敵討ち。
何より、これ以上の犠牲を出さないために……。
「……戦うわ」
簡潔に答えても、私の大事な幼馴染は相変わらず、黙りこくったまま動かない。
浅い呼吸の音と、言葉を発しかけては飲む気配が何度も繰り返され、そして。
「姫様。私は反対です。今すぐこの地から離れるべきと存じます」
彼女はこちらへ二歩近づき、そう言うなり両膝を折って深く頭を垂れた。
「……フィリア?」
驚いた、というのが正直な感想だった。
これまで、どんな無茶なことをしても、無謀なことを言っても、フィリアは……涙目になりはしても、決して私の決断を否定しなかったのに。
「申し訳ございません。ご気分を害されたなら、どうぞ罰をお与え下さい……しかし、それでも私は貴女をお諌めせねばならないのです」
「だって、それじゃアウスはどうするのよ? オウルのことだって……」
「…………」
黙ったまま顔を上げたフィリアの目の中、眼鏡のガラス越しにぞっとするほど冷たい色が見えて、背筋が凍りかける。
「……お二人には、それが運命だったと受け入れて頂くしか」
「そんなこと、出来るわけ……!」
声を荒げかけて、反射的に口を手で覆う。
まさか、あの優しいフィリアが、こんなことを言うなんて。
信じられない……一体、どうしてしまったというの、貴女?
「フィリアがお供いたします。このまま夜陰に乗じ、シストの街に向かいましょう」
「待ってよ。眼の前の問題を見逃せというの? いま
「御意にございます」
「貴女――……!」
「フィリアは、イナーシャ様の侍女です!」
カッとなった私のものよりはるかに強い激情が、フィリアの喉から迸った。
「私にとって、御身の安全に勝ることなど一つも在りません! たとえ万人が滅んでも、イナーシャ様が無事ならそれで良い!」
「……フィリ、ア?」
「貴女様に危険が及ぶことを、私は決して……けっ、決して、私……ッ!」
潤んだ瞳に大粒の涙が浮かんで、すぐにぼろぼろ溢れ落ち始める。
「駄目なのです……私ではお守り出来ない……出来ないと
……昼間、狼に襲われたときのことを、これほど気に病んでいたなんて。
あれは、フィリアだけのせいじゃない。
アウスが身を挺しても止められなかった。私に至っては何も出来なかった。
だから、フィリアが苦しむ必要などない。
いくら言葉でそう言ったところで、きっとこの子には届かないと思う。
フィリアの
たった一歩、遠すぎる隔たり。
それを埋めたのは、やっぱり彼女の激情だった。
「――……っ!?」
突然、フィリアに抱き竦められる。
侍女としての分を堅守し、私がいくらお願いしてもハグすら返してくれなかった彼女が、今は渾身の力で私を包んで放さない。
淡い花の香り、あまりにも嗅ぎなれた親友の匂い。
その涙で濡れた襟元の冷たさと、燃えるように熱い体温に縛られ、私はますます身動きができなくなる……。
「……心よりお慕いしている方が、これ以上傷つくのは……もう……とても耐えられないのです……」
一過性の激情が収まって、フィリアの身体がずるずると崩れ落ちていく。
彼女が私にこれほどはっきり『自分』を見せたのは初めてで。
私に対する気持ちを、言葉にしてくれたのも初めてで。
それがどれだけの勇気を必要とする行いだったか。
やっと金縛りが解けた私は、夜風から身を守るためのマントを脱ぐと、改めてフィリアと二人でその中へ包まった。
「姫様……?」
「……貴女の気持ちはよく分かった。だけど聞いて」
仄かな月明かりでも、フィリアの目が真っ赤なのが分かる。
彼女の手を握り、戸惑いの浮かんだ瞳と彼女の真心をしっかり見つめながら、それでも私は、私の想いを口にしていく。
「私は確かに誓ったの。手を取った相手を決して裏切らない、と……覚えてる?」
「…………」
「王族にとって、誓いは命よりずっと重い。かつて
「でも……でも、だからって、貴女様が傷つく必要など……!」
「フィリア」
反駁しようとする彼女を、今度は私から抱きしめる。
「馬鹿なのよ、私。こうだと決めたら、どうしても
「……よく、存じております」
「ちょっと、少しは否定してくれてもいいじゃない!」
「いいえ。よく知っているからこそ、怖いのですわ……」
吹き晒す夜半の風の中で、互いの存在を確かめるように強く抱き合いながら、少しずつ落ち着いていく鼓動に嘆息が漏れる。
「だいたい、
なんとか、少しでもフィリアに笑ってほしくて。
アウスじゃあるまいし、酔狂に戯けてみても私じゃサマにならないのが分かってるのに。
「そのためにも、私が本当に“神”を殺せるかどうか……確かめなきゃいけない」
そんなこと、試さずに済めばどれだけ良いか。
でも、絶対に必要なこと――こればかりはさすがに、アウスの言葉だって鵜呑みにはできないもの。
民への義務も、矜持を守ることも、神殺しの験しも……あの銀狼を討つことで全て達せられるなら。
心情としても、実利としても、やっぱり引くことは出来そうにない。
「ねえ、フィリア。私を
卑怯な聞き方よね。
だって、私がそう言ってしまえば。
「もう、何も申しません。私はやはり、イナーシャ様の侍女なのですから……」
どうしたって、フィリアはこう応えるしかないと知ってるのに。
「……ありがとう。貴女が傍らにいてくれることが、私の全てを支えているわ」
親愛なる者に、嘘は言いたくない。
でも、心の底を見せきることまでは、まだ出来そうにない。
そうしたら、フィリアに嫌われてしまうかもしれないから。
彼女が私を失うことを怖れるように、私もまた――あるいは、彼女以上に――その喪失に怯えているのだから。
「……もう寝ましょう。明日は早いそうだから」
「はい、イナーシャ様」
立ち上がりついでに居住まいを正してあげると、フィリアが照れたように微笑む。
その背中を押して室内に戻らせると、堪えきれない溜め息がふうっと出てしまった。
「……ごめんなさいね、気を揉ませてしまって」
横合いの暗がりに小さく声を掛けると、音もなくするりと
フィリアが気付いていたかどうか分からないけど、随分最初の方から私たちに向けられた視線は感じていた。
敵意ではなく、愛しむような瞳。
こんな目を出来る人が、どうして他人の業を引き受けて、過酷な人生を歩まなくてはならないのか。
……こんな目ができる人だから、なのかしらね。
「大丈夫、約束は守るわ。私にも、そうしなくてはならない事情があるもの」
「……盗み聞きしていたこと、謝罪する」
目を合わせずに言葉を交わすと、彼は梯子を使わず地上へと飛び降りた。
大きく翻ったマントと、月夜に光る金色の目の残光。
その姿はやはり、夜に獲物を狙って飛びかかる梟の姿そのもので。
「……お休みなさい」
その背に一言挨拶をしてから室内に戻ると、案の定、寝ずに私を待っていたフィリアと一緒に横になった。
いちばん大変な状態のくせに、いちばん太平楽に眠っているアウスの
完全に眠りに落ちる直前、そのほんの一瞬。
私が追うべき相手――“仮面の男”が、私に向けて手を伸ばす幻影を見た気がした。
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呪われ王女は旅をする 咲良野 縁 @enishi_sakurano
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