ホワイトチョコレート

 バレンタインデーなんか、なくなればいい。

 自分がモテないからって、やっかんでいるわけではない。たしかにバレンタインチョコといえば、頼んでもいないのに母親や妹が渡してくる哀れみチョコか、薄っぺらい交友関係を維持するのに必死なクラスメイトからの安っぽい義理チョコぐらいなものだが、モテる男子、例えば俺の友人の光虹こうじのように毎年二十個も三十個も本命チョコを貰うイケメンに対する嫉妬心もない。

 けど、嫌いだ。どうしても好きになれない。

「いつも悪いな」光虹が、申し訳なさそうに眉尻を下げて言った。

「むしろ役得だが」俺は平気そうなふうを装って嘘をついた。

 俺たちの間──俺の部屋の中央にある白い洋風座卓の上には、上品に包装された夥しいチョコレートがあった。昨日はバレンタインデーで、これらはすべて光虹が貰ったものだった。

「毎年思うが、モテすぎるのも大変だな」俺は言った。

 光虹は甘い物が苦手なのだ。しかし、その致命的な事実を知らない女子連中は、メスっぽくはにかんだ笑みをたたえて悪気のない砂糖の塊を押しつけてくる。光虹に女の影がないこと──曰く、「恋愛に興味がない」らしい──も、彼女たちの恋心に拍車を掛けているようだった。

 食べたくないならそう言えばいいだろ、と言ったことがある。いらねーって突き返せばいいじゃん、と。

 そしたら光虹は、かわいそうだからそんなことはできない、と軟弱なことを言って、あるいは困ったように曖昧に笑っていた。しかも、いらないものへのお返しも欠かさない。

 優しいこって、とあきれたものだ。というか、今もあきれている。

 そういうわけでチョコレートが苦手なのに二月になると大量のそれを抱える羽目に陥る光虹は、甘党の、特にホワイトチョコレートに目がない俺に〈チョコの片付け〉を頼むようになった。要は、食べるのを手伝ってくれ、ということだ。

 今日も週末だというのにそのために男二人で狭い部屋で膝を突き合わせているのだ。

 蟻さん大歓喜のチョコの山を崩しては口に放り込んでいく。どれもこれも値の張りそうな市販のものばかりで非常にうまいが、本気度が窺えるんだか窺えないんだか判断に困る。本当に好きなら、その独り善がりな愛情を込めて自分の手で作るのではないのか? 本当に光虹を落とす気があるのか?

 普段はなかなか食べられない高級チョコをタダで楽しんでいる身で文句を言うべきではないのだが──いや、マジうめぇわ。もぐもぐ。

 と、見覚えのあるラッピングを見つけ、

「おっ」

 と俺は小さく洩らした。

「どうした?」と尋ねる光虹に、

「いや」とおざなりに応じて俺は、それを手に取った。

 茶色系統でまとめられたシンプルな包装のそれは、学年でも三本の指に入る美少女ともて囃されているクラスメイトの凪咲なぎさが買ったものだった。なぜ知っているのかというと、俺がその買い物に付き合わされたからだ。

「光虹君といつも一緒にいる萩哉しゅうやなら、彼の喜びそうなチョコもわかるでしょ。お願いっ、チョコ選び手伝って!」

 と文字どおり手を合わせて拝まれたのだ。

 最初は断った。しかし凪咲は、

「夜ごはん奢るから! 萩哉が行きたいって言ってたカフェに連れてってあげるから!」

 と食い下がってきた。

 そのカフェは、とあるグルメ系インフルエンサーが推していた店で、モンブランが絶品だと評判だった。もちろん俺も興味津々だった。ただし、立地のせいもあるのだろう、かなり強気な値段設定で高校生が気楽に入れる店ではなかった。

 俺は喜色を抑えてしぶしぶという顔を作り、「仕方ねぇなぁ」と恩着せがましく了承した。

「やった! ありがと!」

 凪咲は花が咲くように顔を綻ばせて無邪気に喜んでいた。

 かわいいな、と思った。こういう子が愛されるんだろうな、と考え、光虹と凪咲が手を繋いで歩いている仲睦まじい後ろ姿を想像してしまい、内心で苦笑した。

 凪咲は俺のパーソナルスペースにぬるりと不法侵入してきて、ぽんと俺の肘に手を添えると、「頼りにしてますぜ、旦那」などとおどけさえした。

 凪咲の手のひらの、ほんのり湿った温かさに嫌悪感にも似た倒錯的な親近感を覚えた。心臓が強く脈打ち、胸の奥からどこかおびえたような軋み音が聞こえた気がした。

 が、そんな個人的な感情はおくびにも出さずに、その女の子らしい白く小さな手をそっと押しのけると、

「おう、任せろ」

 と調子よくうなずいた。

 とはいえ、甘い物が苦手な人間に贈るべきチョコレートなどわからない。駅前の百貨店の一角を占拠するバレンタインデー用の陳列スペースを前にしてうんざりとした気持ちで思案し、結局、ビターチョコレートならいんじゃね? という安直極まりない発想で無責任にそう助言した。

「なるほど~、あんまり甘いのは駄目なんだね」凪咲は素直だった。

 その結果が、今、俺の手に持たれている、このビターチョコレートである。

 凪咲のことを思う。手作りというわけではないが、一所懸命にチョコを吟味する横顔は、その真摯な眼差しは、光虹への一途な恋情に満ちていた。少なくとも俺にはそう見えた。

 凪咲なら光虹とも上手くやっていける。そう思わせるだけの魅力があった。共に成績優秀で容姿のレベルも釣り合っているから、嫉妬心に駆られて難癖をつけてくる輩も少ないだろう。客観的に言って、とてもお似合いだ。

 それに何よりカフェでたんまり奢ってもらった恩がある。俺は健啖家けんたんか──いわゆる痩せの大食いなのだ。

「ちょ、ちょっと! 少しは遠慮しなさいよ!」と兎のようにかわいらしい顔を引きつらせていた凪咲のおかしみに溢れた狼狽を思い出す。

 もちろん手心は一切加えなかった。

 会計を終えた凪咲は、随分と風通しの良くなった財布を見てげっそりしていた。

 それでも最後には、

「今日はありがと」と屈託のない穏やかな笑みを浮かべ、「もし振られたら、萩哉が引き取ってね」と小悪魔な軽口を叩く余裕さえあった。あざとい女なのだ。

 ──ふっ。

 と微笑を零して俺は、

「これ、ビターチョコみたいだからお前でも食べやすいんじゃねぇか」

 と向かい側で眉間にしわを寄せながらちびちびとチョコをかじっている光虹にそれを差し出した。

「ん」咀嚼しながら受け取った光虹は、控えめなリボンのついたそれをひっくり返したり横を確認したりしてから、不思議そうに首をかしげた。「萩哉は何でこれがビターチョコレートだって思ったんだ?」

 ぎくりとした。たしかに包装された状態だと中身は知りようがない。ミスったなぁ、と思いつつ平然とした態度で、

「包みが大人っぽい色合いしてるから、何となくそう思ったんだよ」

 と無理のある言い訳。

 しかし光虹は、

「ふうん」

 と深く追及してこない。「そんなもんか。甘いもん全然食べないから知らなかった」

 俺はこっそりと胸を撫で下ろし、「開けてみろよ」と促した。

 光虹は、男にしては繊細な長い指で、しかし不器用な手つきでびりびりと破った。果たして百貨店の子洒落た箱が現れた。

「本当だ」光虹は軽く目を見開き、長いまつ毛をぱちぱちと瞬いた。「すげぇ」

「だろ?」俺はしたり顔になって言った。

 何が、だろ? だよ、と脳内からあきれ顔の突っ込みが入るも、努めて聞こえないふりをした。

 ペンケースのような細長い箱の中には、お高く止まった金ぴかの紙に包まれた一口サイズのチョコがお行儀よく並んでいた。

 光虹はその一つをひょいとつまむと、包み紙から押し出すようにして口に入れた。静かに顎を動かす。瞳を閉じたその真剣な表情は恐る恐るといったふうでもあり、じっくりと味わっているようでもあった。

 光虹の舌に合おうが合うまいが俺の評価には影響しないのだが、妙な緊張感が体を強張らせ、手汗がにじむ。

 俺はごくっと喉を鳴らして、

「……どうだ?」

 光虹はごつごつとした男らしい喉仏を上下させて飲み込むと、おもむろにやや薄い唇を開いた。「……うまいほうかな、たぶん。少なくとも食っても気持ち悪くはならなそうだ」

 ほっと息をつく。

「それはよかったな」

 よかったな、凪咲、と口の中で転がした。

 と同時に胸の奥にちくちくとした切ない痛みを感じた。鼓動のたびに胸が疼き、少しだけ息苦しくなる。

 パクッ、パクッと今までにないペースで凪咲のチョコを食べていく光虹が視界の外に行くようにそれとなく視線を下げ、俺も適当なチョコを片付けていく。

 甘いし、うまい。

 それはたしかだ。

 けど、苦いし、うまくない。

 それもたしかだった。

 やっぱり自分の気持ちを殺しつづけるのは、しんどい。つくづくそう思う。

 ──俺は光虹が好きだ。

 友達として、ではない。恋愛対象として、だ。

 どうやら俺はアブノーマル──マイノリティーなんて気色悪い言葉は大嫌いだ──らしかった。

 世の中にはこびる顔も名前も知らない偽善者どもは、多様性だ何だと耳心地のいいことをほざいては平等の尊さを謳っているが──そんなのは嘘っぱちだ。

 同性愛者に対する潜在的な嫌悪感は、誰の心にもある。自分はそんなふうには思っていない、と反論するやつは、自分は器の大きなすばらしい人間なのだという自尊心を保つために無意識的に目を背けているだけだ。例外なんかない。絶対にない。

 ふとした仕草や表情からそれはわかる。例えば物珍しそうに開かれる瞳孔、例えば口元に浮かんだ嘲笑、例えば同情めいた響きを含んだ声音。

 でも、それは仕方のないことだ。人間が社会的動物である以上、多数派に属さない異端、あるいは繁殖に適さない欠陥品は群れの安寧と発展を脅かす可能性のある存在として警戒の対象になる。本能が不快感や嫌悪感を惹起じゃっきする。

 だから、俺も諦めていた。光虹とはずっと友達のままでいようと決めていた──けっして覚られてはいけないとおびえてもいた。

 ──はぁ。

 溜め息が洩れた。

 陰々滅々とした憂いを騙すように、チョコレートのお供に用意した紅茶をすする。少しぬるくなっていて飲みやすい。

 紅茶のテアニンやカカオ豆のトリプトファンの効果か、はたまた思い込みによるプラシーボ効果か、幾分か鼓動が落ち着いた。気がする。

「チョコも意外と悪くないな」

 人の気も知らずに光虹は、呑気にそんなことを言った。見れば、凪咲のチョコはすっかりなくなっていた。

「その調子でほかの種類のチョコも克服してくれよ」

 そうすれば、このお片付けから解放される。しかし光虹は、

「それは無理」

 と言下に断じた。「人には向き不向きがあるんだよ」だそうだ。もっともではあるが。

「さいでっか」

 小さく肩をすくめて答え、たいして減っていないチョコの山に視線を戻すと、プロの技が光る隙のないラッピングとは明らかに毛色の違う、要は素人っぽさを隠し切れていないいささか不格好な蝶結びが目にとまった。橙色の箱だ。

 心当たりがあった。

 といっても、贈り主当てフーダニットを推理できているわけではない。

 いつだったか、大量の市販品の中に手作りチョコが紛れ込んでいた。それはその翌年も翌々年も続き、高校二年生の現在に至るまで途切れたことはない。

 そしてそのバレンタインチョコは、決まってホワイトチョコレートだった。

 だから、心当たりとはその内容についてだ。

 ふんわりと期待感が膨らむ。

 ホワイトチョコレートは、食べ物の中で一番うまいと俺は思うのだが、バレンタインチョコでは残念ながらあまり見ない。だから、毎年の苦行めいた片付けの中にあって、唯一の楽しみと言っても過言ではなかった。

 その一方で、手間暇掛けたであろう手作りチョコなのに第三者でしかない俺が食べてしまっていいものか、と思ってもいた。

 しかし光虹は心苦しそうにしながらも、「ホワイトチョコは甘すぎてきついんだ。最悪、吐く」と言って聞かなかった。

 それは今年も変わらなかった。

「同じ子からなんだろう? 健気でかわいいと思うけどな。食べて世辞の一つでもくれてやりゃあ喜ぶんじゃねぇか?」

 俺がこう提案しても、光虹は伏し目がちにかぶりを振るばかり。

 結局、

「そうか、まぁお前がいいならいいけどよ。でも、何かわりぃな」

 と言いつつ、今年もちゃっかり俺が頂くことになった。

 リボンをほどいて取り出したそれは、やはりホワイトチョコレートだった。きっと不器用な子なんだろう、少し歪な形をしていた。が、そんなのは些事さじである。SNSに載せるわけでもなし、味と食感がよければいいのだ。

 と、視線を感じた。そちらに顔を向けると、光虹と目が合った。

「何だよ」俺は訝った。

「いや別に。甘そうだなと思って」光虹はもごもごと言った。

 変なの、と思うも、気にせず白い一粒を口に入れた。優しくもコクのあるミルキーな甘味かんみが舌を喜ばせ、噛み砕くとそれが口一杯に広がった。

 うむ、やはりチョコは見た目ではない。非常に美味である。

「うまいか」光虹が聞いてきた。

「ああ、うめぇよ」俺は舌鼓したつづみを打ちながらうなずいた。

 光虹の口元に微笑が漂うのがわかった。

 何だその反応? と内心で首をかしげる。自分が貰った手作りチョコを俺が堪能してうれしそうにするって、何でやねん。どんな心境だよ?

 あまり出来の良くない頭を働かせ──ふと、ひらめいたものがあった。

 まさかこの手作りチョコは、密かに俺に懸想している女が、それと覚られぬように光虹を通して渡してきたものなのか……?

 そう考えると、まるで狙ったように俺の好物のホワイトチョコレートばかりを贈ってくることにも説明がつく。

 もしそうだとしたら何という悩ましい状況だろうか。どうあってもその子の気持ちには応えられないのだから。

 我知らず咀嚼のペースが落ちていく。

「何だ?」目ざとく察知した光虹が、心配そうに尋ねてくる。「変なもんでも入ってたか?」

 それには答えず俺は、質問で返した。

「このチョコって、誰から貰ったんだ?」

 今まで尋ねたことはなかった。怖かったからだ。知ってしまったら、たぶん憎んでしまう。たまたま女に生まれたという、それだけのことで勝負の土俵に立てるその子に嫉妬してしまう。ほとんど八つ当たりだ。これ以上自分を嫌いになりたくなかった。

 けれど、その子の想いが俺に向いているのなら知るべきだろう。知って、そして脈がないことを伝えなければならない。お互いのために。

 じっと光虹の瞳を見据えて返答を待つ。

「ええと……」光虹は一瞬視線をさ迷わせ、「あの子だよ、うちのクラスの凪咲」

「……は?」光虹の答えは俺の思考をひどく混乱させた。凪咲のはさっきお前が平らげただろうが。「本当か? 勘違いしてねぇか?」

「いや何でだよ? してないよ」

「お、おう?」

 どういうことだ?

 脳裏に疑問符が溢れる。なぜ嘘をついた? それとも本当に勘違いしているのか? しかし頭脳明晰で記憶力もいい光虹に限ってそんなことあるか? ないよな、うちの妹じゃあるまいし。

 光虹は場都合が悪そうにしている。目も泳いでいる──明らかに何かを隠している。

 しかし、凡人の頭では考えてもわからない。

 半ば諦め、そして何とはなしに問題のホワイトチョコレートを口に運んだ──その瞬間、推理らしきものが降ってきた。

 いや、推理と言ってよいのかわからない程度の論理性しか有さない、どちらかというと希望的憶測と呼ぶべきものだろう。

 根拠を挙げるなら、

〈光虹はモテるのに一向に彼女を作らないこと〉

〈バレンタインチョコとしては比較的に一般的ではないホワイトチョコレートを毎年毎年手作りして贈ってくること〉

〈バレンタインチョコの片付けイベントは毎年のことなのに、光虹はいつまで経っても申し訳なさそうにしていること〉

 そして〈贈り主について嘘をついたこと〉。

 これらから導かれる結論は、このホワイトチョコレートは光虹が作ったものであり、俺に食べさせることが目的なのではないか、ということ──すなわち、

「……」

 俺は呆然と光虹を見ながら胡乱な心で思う。

 ──こいつも俺のことを……?

 にわかには信じられない。そういうコミュニティーでもないのに同性愛者なんてものがそうそういるとは思えないし、都合良く実は両思いだったなどということはもっと少ないに違いない。

 期待しないほうがいい。そういうふうにも取れるってだけ。すべては玉虫色。それはわかってる。

 けど、口元が緩みそうになる。慌ててホワイトチョコレートを口に放り込み、

「ホントうめぇな、これ」

 と無理やりに誤魔化したが、その言葉に嘘偽りはなかった。

 舌に触れて溶け出す甘味が、いつになく愛おしく感じられ、口腔を満たす優しい香りが──「そうか」とささやいた、安心したような、うれしそうな光虹の表情がひどく心を掻き乱す。

 いっそ打ち明けてしまおうか、という考えが脳裏を掠めた。

 俺の口が半ば自動的に開き、

「なぁ光虹──」

 しかしそれに続く言葉は口にできない。

 何だ、と問う、俺の胸裏を見通しているかのような透明な瞳に尻込みしてしまい、

「お前が貰ったもんなんだから、俺ばっかに食わせんなよ」

 と正論を盾にして本心を隠した。

 光虹は一転、嫌そうに顔をしかめた。「それはそうだけど」

 その様が、どうしてかおかしく感じて、俺は笑いを噴き出した。

 むくれる光虹が、かわいらしい。

 バレンタインデーは好きではないが、もしかしたら嫌いでもないかもしれない。

 なんて砂糖まみれの夢を見る。正夢になればいいな、とホワイトチョコレートに願いながら。




(了)

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ニセモノの恋人 虫野律(むしのりつ) @picosukemaru

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