第31話 オムライスカレー2つ

「水、飲めよ。お前話しすぎなんだよ」


 どうにか話をそらそうと尊斗は水の入ったグラスを前に押し出した。ぼうっと水を見下ろした円野見は感情のごっそり抜け落ちたような顔をしている。そのまま微動だにしない、かと思えば不意に腕を持ち上げて手元の水のグラスをつかんだ。そして、ぐいっと一気に飲み干してしまう。がんっと結構な力でグラスはテーブルに戻されたが、ほかの席が離れているおかげで誰にも気づかれなかった。


「君は、逃げなかっただろ」

「は?」


 急に言われても尊斗は何のことかさっぱり検討がつかなかった。円野見はぐいっと濡れた口元を手の甲で拭った。


「僕は逃げた。大人から事情を聴かれたとき、自分が催眠術を使ったことを言わなかった。責められるのが恐かったんだ。それから、証拠を隠すように催眠術を使わなくなった。話題に出されても無視するようになった。……だから、カグチのような人間が目の前にいると消してしまいたくなる。まるで過去の自分が追いかけてきて罪を暴こうとしている気がする。正義感でもなく、怒りでもなく、自己保身の恐れだ。わかっていてもどうしようもなく、あいつがいることが許せなかった。それだけの話だ」


 話し終えた円野見は柔らかいソファの背もたれにぱたっと倒れ込んだ。いつも隙のない優等生の格好がぐしゃぐしゃになっている。これが隠していた本当の姿なんだろうかと考えて、それもまた違うなと尊斗は否定した。これもこいつの一面ではあるが、全部じゃない。

 ぐったりしたまま円野見の前には、空っぽのグラスがある。尊斗は自分のグラスのから半分水を注いだ。


「足りねぇなら、飲めば?」

「……ああ」


 円野見は力ない返事をすると、ソファにもたれただらしない格好のまま腕を伸ばしてグラスの水を飲んだ。また、グラスは空っぽになる。尊斗は自分のグラスの中身を全部入れてやった。

 聞きたいことは聞いたが、だからといって何を言うべきかは尊斗にはわからない。カグチへの対応は八つ当たりだったと言われても、そこを責めようとは思わなかった。不良として喧嘩に明け暮れていた人間がどうこう言えない。ただ、一つ不思議に思うことがあった。


「お前、催眠術は使わなくなったって言ったよな。俺に使ったのは、まぁ咄嗟に自分の身を守るためだとしてだ。じゃ、あの日ばあちゃんに催眠術をかけたのは何でだよ?」

「あれは、最初声をかけるだけのつもりだったんだ。催眠術を使う気なんてなかった。でも、君が来ただろ」

「俺が来たから何だよ。一回使ったらどうでもよくなったのか?」

「……よく考えたら結構失礼だな、これ。言ってもいいのか?」

「そこまで言ったなら言えよ」


 失礼なことを言うつもりだからか、円野見はだらしなかった姿勢を正して、また水を飲んだ。グラスを空にして、少し気まずそうに言う。


「君が婦人を助けたいように見えた。だから、それを理由にした。君が助けたそうだったから僕は催眠術を使ったんだと責任を君に押しつけたんだ。今のところ、君がいるところ以外で催眠術は使ってない。……僕は君を軽く見たのかもしれない。有名な不良だし、責任を押しつけてやってもいいと。ごめん」

「そんなことかよ。他人に不良だと軽く見られんのも今更だし、いちいち謝んじゃねぇよ。それに押しつけられたところで責任なんてとらねぇぞ、俺は」

「そうか? 君、意外と律儀だろう」


 だんだんといつもの調子に戻ってきたらしい円野見が、いつもの落ち着いた表情で首を傾げた。弱っていると調子が狂うが、いつもどおりだとそれはそれでむかつくなというのが尊斗の素直の感想だった。

 二人が話していると、良い匂いが近づいてきた。ぐうとお腹が鳴る、カレーの匂いだ。


「お待ちどうさま、オムライスカレー2つです」

「あれ、ばあちゃん?」


 オムライスカレーをテーブルに持ってきたのはオーナーではなく、母である老婦人だった。湯気が立ち上る大きな皿を難なく両手で運んで、二人の前に並べていく。


「お久しぶりねえ。来てくれてうれしいわ。娘が来たよって連絡してくれたから、私もお礼を言いに来たのよ。本当にありがとうねえ……ええっとお名前を聞いてもいいかしら。学校に連絡したときに教えてもらったんだけど、忘れちゃって」

「円野見巡です。今日は、こちらこそありがとうございます」

「大浦尊斗っす。……ばあちゃん、話すならこっち座れよ」


 改めて自己紹介をしたところで、尊斗は自分の座っているソファのスペースを空けた。それほど大きくはないが、尊斗が足を閉じれば2人でも座れるぐらいのスペースになった。

 いいのかしらと何度も確認しながら老婦人は尊斗の隣に座った。


「そういえば、私も自己紹介をしていなかったわね。日向ひなたアキコです。改めて、今日は来てくれて本当にありがとうねぇ」


 あの日の震えて丸まっていた姿と今の姿では別人のようにアキコは明るく笑っていた。笑うとえくぼがくっきりと頬に浮かびあがる。

 そして、テーブルの上を見てあらと声を上げた。


「まぁお水がないわ。……こちらのテーブルにお水をお願いねぇ」


 アキコが手を振って呼びかけると、ピッチャーを持った店員がぱたぱたとやってきた空になった二つのグラスに水を入れた。

 店員がごゆっくりと言って席を離れると、アキコはどうぞと声をかけた。


「さ、遠慮しないで食べてちょうだいな。成長期の男の子はいくら食べてもお腹が空くでしょう?」


 そう言われてスプーンを取る。両手を合わせた尊斗を見て、スプーンを動かそうとしていた円野見もならうように同じポーズを取った。


「いただきます」「いただきます」

「どうぞいただいて」


 オムライスカレーの、まずオムライス部分に尊斗はスプーンを入れた。卵はつやつやに光ってとろけるように柔らかい。中のライス部分はケチャップではなく、香ばしいバターライスだった。スプーンでくずしたオムライス部分を赤みの強いカレールーにひたし、煮込まれてほろほろになった肉も一緒に頬張る。口の中にじわっとカレーの旨味とぴりっとした辛さが走って、柔らかな卵が風味をまろやかにした。もう一口、ほくほくのじゃがいも。もう一口、さくさくの揚げたいんげん豆。また、オムライスとカレールーを一口。ついつい無言になってかきこんでいた。

 食べることに夢中の二人をアキコがにこにこ笑って見守る。それに気づいて、尊斗は一旦食べるのをやめて水を飲んだ。


「これ、うまいっす」

「あら、うれしいわ。このカレーは元は私のレシピなのよ。それを娘がアレンジして、オムライスカレーってしたの。トマトによくよく火を通して、ルーに溶け込ませているのがポイントなの。たくさん食べてね」

「いや、さすがに晩飯があるんで」

「あらそう? なら、デザートは?」


 娘であるオーナーと同じくどんどん食べてほしそうなアキコに、半分ほどオムライスカレーを食べた円野見が話題を変えるように声をかけた。


「そういえば、アキコさんはあれからお元気でしたか?」

「おかげさまで元気よ。あのときは、家にこもりっきりでちょっと気がふさいじゃっていたのね。2人は、学校どうかしら? 楽しい?」

「最近は忙しくて、大変だったことぐらいしか覚えてないです」


 愛想笑いをしながら答える円野見に、あらあらとアキコは頬に手を当てる。そして、今度は尊斗のほうに視線を向けてきた。何か良いことでも言おうかと考えたが、結局口から出てきたのはつまらないことばかりだった。


「いつも空回ってばっかだ。一番良いようにしてやろうって思ってるのにいつも失敗してる。……俺、頭悪ぃんだよ」

「あらあら。2人とも大変な毎日なのねえ」


 アキコは二人の話を聞くと、ふふふと楽しそうに笑った。別に笑うようなこと話してないんだがと尊斗が顔をしかめていると、ごめんなさいねと笑いながら謝られる。指輪の光る指がアキコのパーマのかかった髪を耳にかけた。


「あなたたちぐらいの年のとき、私も毎日上手くいかなくって、最低で最悪でいますぐ消えちゃいたいって思ってたわ。今でもたまにそのときの悪夢を見るぐらいなのよ」

「何かあったんですか?」

「あなたたちが聞いたら、何だそんなことって思うかもしれないけどねぇ」


 悪夢を見るほどひどい過去だと言ったのに、なぜかその顔は幸せそうだった。口元に微笑み浮かべて、アキコは自分の過去について話す。


「憧れの人とデートの約束をしたの。大喜びではしゃいでみんなに相談して、服も何日も前から用意してたわ。興奮してしばらく寝られなくて、デート当日なのに寝坊したの。急いで着替えて走っていたら、その人は待っていたけれどひどく罵倒されたわ。遅刻なんて信じられない。それに、そんな格好の子と並んで歩きたくないって。私、急ぎすぎてボタンをかけちがえてたし、靴下も左右で違うし、髪もバサバサのひどい格好だったのよ。今でも、デートに遅刻したって思って飛び起きるわ。……2人はデートしたことある?」


 二人そろって首を横に振ると、じゃあ将来が楽しみねと言われた。そもそも楽しみになるような将来なんて俺にあるんだろうかと尊斗は思う。

 アキコは、ゆっくりと辿るように自分の思い出を話した。


「憧れの人が帰っちゃって、しばらくして偶然通りかかった知り合いに声をかけられたの。何だその格好って言われた瞬間に、大泣きしてバッグで殴りつけてやったわ。……そんなひどい日だったけど、あれも幸せだったのかなって今は思うの」

「何でだよ?」


 純粋に疑問を口にした尊斗をアキコはやさしい目をして見つめた。そして、薬指にはまっている指輪を撫でた。


「今思えば、それが夫との馴れ初めだったと思うからよ。偶然通りかかった知人で、後の夫が大泣きする私を家まで送ってくれたの。次の日から恥ずかしくなって無視する私に、何度も何度もしつこいぐらい心配して声をかけてくれたわ。……ずっとずっと不幸な日だと思っていたけど、40年以上たってからあれも幸せだったかもと思えたの。人生ってそういうこともあるのね」

「じゃ、俺たちの今もいつか幸せになんのかよ……」


 尊斗にはとてもはそうは思えなかった。そんな気持ちが滲み出ている言い方に、アキコはふふふっと堪えきれずに笑った。


「とてもそうは思えないわよね。それに若いうちから40年も待ってられないわ。私にも幸福に思うことができなかった日々がある。でも、いつか幸せに思えるかもなって考えてくれたらうれしいわ。だって、あなたたちは暗い気持ちの私を助けて、幸せに引き戻してくれたんだもの。だから、あなたたちが幸せになるようにって私に祈らせてちょうだい」


 祈ると言われて、尊斗は不思議と嫌悪感を抱かなかった。訳のわからない力に祈っているわけじゃなかったからかもしれない。それと同時に祖母が両手を合わせている姿も思い出した。今も見たくもない光景だが、祖母は自分の幸せを祈っていたのだろうかとふと思えた。

 鼻の奥がつんとして、尊斗は気をまぎらわすためにオムライスカレーを口に運んだ。ぴりっと辛くて少し涙が出た。さりげなく目をこすろうとしたところで、あらっとアキコが立ち上がった。


「そんなに辛かった? ラッシーを持ってきましょう。甘くて、カレーと相性ぴったりの飲み物よ」


 そう言うと、ラッシーを持ってくるためかアキコはお店の厨房のほうへ行ってしまった。

 ふっと笑う声が向かいから聞こえて、尊斗が睨んだ。円野見が腕で顔を隠しながら肩を揺らして笑っている。この場にアキコはいないので、遠慮なく低い声でおいっと威嚇する。それでも震え続ける円野見は、弁解するように手をひらひらと振った。


「いや、ごめん、ちょっと想像したんだ。40年後、僕たちが無二の親友になっていたらどうしようと思って」

「ありえねぇこと言ってんじゃねぇぞ」

「だから、笑ってるんだろ」


 円野見はなかなか笑いが収まらないようだった。笑うのをやめようと息を止めて、またすぐに吹き出すのを繰り返していた。

 馬鹿らしくなって、尊斗はもう一口オムライスカレーを頬張った。


「……悪くねぇな」


 想像して、尊斗もこっそりと笑った。

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催眠術とカタレプシー 運転手 @untenshu

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