第30話 陽の当たるカフェ
横道を真っ直ぐ行って、さらに公園の中に入り、階段を上がった先にそのカフェはあった。クリーム色の壁に店名の「ensoleille」というプレートが埋め込まれていたが、尊斗は読み方がわからなかった。よく磨かれている窓から店内を覗くと、尊斗たちより上の世代の女性客が多いように見える。学生服は一つも見当たらない。
「ここ、だよな」
「ここで間違いない。じゃ、入るか」
店の雰囲気に気後れしている尊斗に構わず、円野見がさっさと扉を押して入ってしまう。からんころんと涼やかなドアベルが鳴った。奥からぱたぱたと店員がやってくる。
「いらっしゃいませ。ええと、2名様ですか?」
入店した男子高校生2人にも店員は笑顔を見せたが、少し戸惑ったように何度も二人の顔を見比べていた。特に自分の顔を見て驚いているように感じた尊斗は、さっと顔を反らした。さっき入ってきた扉を見て、今からでも帰ろうかとじりじり後ずさる。
そこへ、明るい声が近づいてきた。
「ようこそいらっしゃいませ、アンソレイユへ。やっと来てくれてうれしいわ。……あ、大事なお客様だから私が接客するわね」
「わかりました、オーナー。それでは、失礼します」
奥からやってきたオーナーがうれしそうに二人に声をかけて、対応していた店員に戻るように指示を出す。それは、あの日老婦人を迎えに来た娘であることに尊斗は一瞬遅れて気づいた。あの日慌ててジャージ姿でやってきた人と目の前で白い開襟シャツと黒い腰エプロンを着こなしている凛とした人が重ならなかった。
円野見が礼儀正しく頭を下げるのを見て、尊斗も少し遅れて同じように頭を下げる。
「今回はお招きいただいてありがとうございます」
「その、あざっす」
「やだ、お礼を言うのはこっちのほう。あのときは本当に助かりました、ありがとうございます。……さ、こんなところへ立っていないで。ちょうど奥の一番いい席が空いてるわ」
オーナーに案内される二人を、食事をしながらお喋りを楽しんでいた女性客たちがちらちらと横目で見てくる。やはり、この店で男子高校生は目立つようだった。肩を縮めながら歩いていた尊斗は、案内されたのが一番奥の観葉植物に囲まれた人目があまりつかない席だったことにほっとした。
どうぞと促されて座った席は、驚くほど腰が沈む柔らかいソファだった。尻の位置がわからずにもぞもぞと動く尊斗の前にメニューが置かれる。
「お代はもちろんいらないから、何でも好きなものを頼んでね。甘いものは好きかしら? 男の子だったらがっつり食べたい? お食事だったら、オムライスカレーなんておすすめよ」
「じゃあ、オムライスカレーでお願いします。大浦は?」
「俺も、同じのをお願いシャッス」
「オムライスカレーを2つね。飲み物は? 遠慮しないでデザートも頼んでいいからね」
まだまだ頼んでほしそうだったが、そこは円野見がまた後でほしくなったら頼むからと言って、その場は遠慮することにした。
「じゃ、ゆっくりしていってね」
店員が持ってきた水とおしぼりをテーブルに置いて、オーナーは注文の品を準備するために行ってしまう。ふうっと息を吐いて、尊斗は全身をソファにもたれかからせた。くるくると天井で回っているプロペラの名前もよくわからなかった。
しばらく天井を見つめてから、起き上がった尊斗は水を飲んでいる円野見に問いかけた。
「で、話の続きは?」
「どの話だった?」
真顔で聞き返す円野見に、尊斗はもう少しでおしゃれなガラス製のローテーブルに拳を叩きつけるところだった。
「おい、さすがにクソだせぇぞ」
「……わかってる、逃げない。それにこんなところで言い争いなんてできないしな。結構緊張しているんだ」
「お前緊張とかすんのかよ?」
「するぞ。僕を何だと思ってるんだ」
そんなことを言いながらも、円野見のいつもと同じ様子でおしぼりで手を拭いている。尊斗には、発言のどこからどこまで本気なのかがわかりづらかった。
おしぼりを丁寧に畳んで戻して、円野見は顔を上げた。
「それで話の続きだ。どこから話すか」
「また、下手に逃げられると困るから最初から話せよ」
「そうすると、僕の子どもの頃の話からする必要がありそうなんだが」
「それでいいからさっさとしろよ。逃げねぇんだろうが」
「わかった」
わかったと言ってから、円野見はグラスを手に取ってまた水を飲んだ。時間稼ぎでもしてんのかと尊斗がテーブルを指で叩いていると、本当に喉が渇くんだと言う。
「それで、僕の幼かった頃から話すんだったな。そもそも催眠術を使うようになったきっかけは母親だったんだ。僕の母は若い頃に男に騙されて捨てられて、僕を一人で生んで育てた人だった。いつもいつも働いていて、でも空いた時間には僕と一緒に遊んでくれる優しく一生懸命な理想的すぎる母親だった。だけど、いつも疲れた表情でどこかを見ていた」
「なんか、他人事みたいに話しやがるな」
「そうか? そういうつもりはないが」
自分のことを話しているはずなのに、授業で教科書を音読しているようなに尊斗には聞こえた。円野見は否定したが、誤魔化しているわけでもなく自分でもよくわかっていない様子だった。首をかしげて不思議そうにしながら、淡々と自分の話を続けて話す。
「母親が自分のせいで苦労しているというのは、子どもの自分にもわかっていた。どうすれば笑ってくれるか考えたとき、知ったのが催眠術だ。たまたま見ていた動画か何かで、催眠術をかけられた人の笑いが止まらなくなるというパフォーマンスを見た。これだと子どもの僕は思った」
「楽しくもないのに笑わされるって拷問かよ……」
「よくわかるな、大浦。あのときの僕は気づかなかった」
笑いが止まらなくなるという言葉に、両腕を掴んで無理矢理脇腹をくすぐられる嫌なイメージが尊斗には浮かんだ。その気持ちのまま呟いただけの言葉に円野見が身を乗り出して勢いよく頷いてきて、尊斗は驚いた。いつもの何を考えているかわからない表情なのに、妙な気迫のようなものを感じる。
円野見は穏やかな顔のまま、妙に高揚した口調で話し続ける。
「僕は、ネットの情報や子ども向けの遊びのような本や雑誌で子どもなりに催眠術を研究した。そして、本来ならばうまくいくはずもないのに成功した。僕は才能があったんだな」
「催眠術の才能かよ」
「そう。母を笑わせることに僕は成功した。これで、人を助けられるんだと、ヒーローや神様になった気持ちでどこでも催眠術を使ってたな。……催眠術は魔法じゃない。種も仕掛けもあるし、守らないといけない境界線もある」
「そんなこと、初めに言ってたな」
「ああ。催眠術は必ず短い時間で解かなければいけないし、相手が激しく拒否することを行ってはならない。無理をすれば、心と身体のバランスが崩れる。嫌いなものを好きにさせる催眠術もあるが、ああいうものは長時間かけてはいけないんだ」
催眠術の細かい技術は尊斗にはよくわからない。だが、円野見が真剣に母親のために催眠術の研究をしたということはわかった。
そこまで流れるように話していた円野見が、何故かそこでぴたっと止まった。口を閉じて、視線は下を向き、表情はごっそりと抜け落ちて空虚だった。電池を抜かれたロボットのように動かない。
尊斗は黙って待っていたが、回復しそうにもないので声をかけた。
「電池入れ直したほうがいいのか? それとも充電式か?」
「僕は人間だ。……そうだ、母に催眠術を使ったところの続きだな」
声をかけると、ぎこちなく円野見は再起動した。がくがくと何度か首や肩を回したかと思うと、また話の続きを何でもなかったかのように話し始める。もともと人間味が薄かったが、本当にロボットのような挙動だった。
「僕は催眠術を母にかけ続けた。笑ってくれるように、楽しいように、明日もこんな毎日が続くように。そうすると母は僕を笑って抱き締めてくれた。だが、その日はいつもと違ってぴくりとも動かなかった。不思議に思って顔を覗き込むと、いつもどおり笑っているのに、目から涙が溢れてきた。僕が母を呼ぶと、思い切り突き飛ばされた。母は頭をかきむしって、やめてやめてとずっと金切り声で叫んでいた。僕を見て、悪魔と指差した。それで、それで……」
「続くのか?」
また円野見の話が途切れた。何となく話の終わりを察することができた尊斗は、もう続けなくてもいいという意味で聞いたつもりだった。しかし、円野見のほうは続きを促されたのかと思ったのか、空虚な顔で話を再開する。
「それで、僕はまた母に催眠術をかけた。僕を嫌いにならないで、泣かないで、もう一度笑ってくれと勝手なことを言い続けた。結果、母は、獣のようなうなり声を上げて倒れた。意識を失った母の姿は現実味がなくて、僕はただ呆然と突っ立って見ていた。叫び声を聞いた隣人が来てくれなければ、いつまでも母は冷たい床で寝ていただろう。救急車が呼ばれて、僕も保護された。そこで、周りに何があったのかと聞かれて、それに……」
「おい、話は大体わかったって。もういい」
「まだ全部話してない。逃げるなと君も言っていただろう」
「……言ったけど。でも、俺なんかの言葉を真に受け止めてんじゃねえよ」
逃げるとか逃げないとか以前に、円野見はもう限界だった。平凡に擬態しているいつもの姿を取り繕うことができていない。見開いた目の奥に光はなくがらんどうだ。
それぐらいは尊斗にもわかる。でも、上手く止める言葉が見つからない。
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