佐久間信盛と超絶ブラック織田株式会社!

白狐姫と白狐隊

第1話 佐久間信盛と超絶ブラック織田株式会社!

織田信長の有名な家臣のひとりに佐久間信盛という武将がいます。

大永8年/享禄元年(1528年)生まれなので、信長より6歳年上、

信長が織田家の家督を継いで以降、天正8年(1580年)8月に追放されるまで、

信長に仕えていました。


佐久間信盛の追放劇は、彼の無能さ故とされ、それを断行した信長を評価する向きもありますが、私はこれが信長の最後を早め、織田家を崩壊させた大きな要因だった様に思います。今回はそれについて書いてみたいと思います。


まず佐久間信盛の業績を見ると、今日言われている「退き佐久間」という、撤退戦における活躍というのは一次資料には残っていません。彼は信長最初期の尾張統一戦の頃から信長軍団の武将として戦い、上洛戦では近江国の六角義賢・義治父子との観音寺城の戦いで箕作城を落とす等の戦功を上げ、吏僚としても、家康の領地と接する西三河を任されるなど、多方面で活躍しています。そう、彼は天正8年、53歳で追放されるまで、織田軍団の筆頭軍団長だったのです。織田株式会社の専務取締役…

みたいなポジションに30年以上いたのですね。


その彼がある日突然、信長の命で追放される訳です。

では、何故そんな事になったのか?これに関しては信長自ら折檻状を

書いているので、その理由が現在でもわかるのですが、19条もあるので、

それを簡単に要約すると、

・【諸事怠慢である】

・【口答えをして信長の面目を潰した】

・【欲深くケチである】

・【報連相がない】

になります。

この4つを事例を上げながらくどくど繰り返し書いているのがこの折檻状の特徴です。信長の粘着気質なめんどくささが良くわかる内容ですが、果たして本当にそうだったのか?というと、本当にそうならあの厳しい時代、これだけ長く織田軍の軍団長筆頭を続けられる訳ないでしょ?と私は思う訳です。一次資料から見る彼は、

織田家の主要な戦いの多くに参加しており、確かに失敗もありますが、

総じて及第点だった様に思われるからです。


本願寺攻めが上手く行かなかったのは、本願寺は門徒からの寄進で資金力があり、

それにものを言わせて兵数が多い上に、雑賀衆の様な最新鋭の鉄砲を持つ強力な集団も味方に付けている為、守りが固く、更には毛利氏の様な強力な大名のバックアップがあったからです。加えて織田と共闘するはずの荒木村重や松永久秀等の裏切りが相次いだ事、織田水軍の実力が中々毛利水軍に及ばず、海上補給路を長く断てなかった事などもあります。実際、信長の命令で本願寺を無理攻めした塙 直政は、

鉄砲に撃たれて討ち死にしていますし、この時は明智光秀も絶体絶命の窮地に陥っていますから、誰がやっても上手くは行かなかったのです。最終的には包囲孤立させ、

兵糧攻めで降伏させたので、結果オーライとも言える訳で、上手く行かなかった事を佐久間信盛ひとりのせいにするのは、お門違いではないでしょうか?

これ、色々裏切られまくった信長本人の原因による所も大きいのです。


中でも特に酷いと思うのは、この19か条の折檻状の18条で、

【こうなればどこかの敵をたいらげ、会稽(かいけい)の恥をすすいだ上で帰参するか、どこかで討死するしかない】と、再度チャンスを与える様な内容を書いている

くせに、実際には佐久間信盛が兵を集められない様に配下の武将に指示し、

彼が恥をそそぐ機会を完全になくしている事です(これは筒井順慶に宛てた信長書状でわかる)。


なので、佐久間信盛は最後の19条、

【親子共々頭をまるめ、高野山にでも隠遁し連々と赦しを乞う】…

しか出来なかったのです。高野山に行くときはほんの数名の供回りしかおらず、

金子も僅かで、窮乏した佐久間信盛は、その後2年も経たない天正10年1月に

同地で亡くなります。享年55歳。


いやいや、これはいくら何でもやり過ぎでしょう。信長が厳しい状況にあった

家督相続の頃から、30年以上も信長の為に尽くしたのに、最終的には、

【怠慢で口答えしてケチで報連相がない】とか、殆ど言いがかりみたい理由で

追放されるなんて、当の本人も物凄く屈辱だったでしょうし、周りの武将も

相当同情していたのではないかと思います。信長の部下の中にはかつて信長に

敵対し、その後降って配下になった者も大勢いるのです。


信盛はそうではありません。彼は最初からずっと信長の味方で、敵対も裏切りもしていません。その彼をこんな形で追放したら、過去に少しでも後ろめたい事があった

武将は、みんな追放されてもおかしくない。処罰の基準の閾値が大きく下がると共に、理由も曖昧になる。しかもこの後、重臣だった林秀貞や安藤守就等も、

同様の殆ど言いがかりに近い理由で追放されます。

若返りを断行するにしても、こんな事をするくらいなら、過去の功績を称え、適当な隠居料でも与えて隠居させるとか、穏当な方法はいくらでも取れたはずです。この当時60代後半の年齢だったと思われる明智光秀(当代記の記載だと、本能寺の変の時の光秀の年齢は67歳)がこれをどう思ったか?

推して知るべきでしょう。大半の武将達が明日は我が身と思って恐怖したに違いありません。【殺られる前に殺っちまえ!】、この時代の武将なら普通にそう思いそうなんですけど、皆さんは如何思われますか?


いやはや、織田株式会社は、現代も蔓延るブラック企業に負けず劣らず、

どころか、一方的に、【怠慢で口答えしてケチで報連相がない】とか

言いがかりを付けて、長年功労のあった重鎮を、退職金もなしに

無一文に近い状態で追放する、超絶ブラック企業と言って良いと思います。


佐久間信盛の追放は、当時も衝撃を持って受け止められた様で、彼の事を評価していたルイス・フロイスは残念がっていますし、天正10年(1582年)3月に武田氏を

滅ぼした時、軍団長の不足から、信長は滝川一益を上野方面の統括司令官として配置しています。


ド田舎に派遣される滝川一益は、これが物凄く嫌だったみたいですが(愚痴を書き綴った手紙がある)、佐久間信盛が健在なら、彼をそれに充てて、滝川一益は別の方面で使う事も出来たはずです。でも、これだけ大きな領地を支配させるだけの

実績や信頼、器量をもった部下が他にいなかったのですね。

信長本人も一時の感情の昂ぶりで佐久間信盛を追放した事を後悔したのか、

先の折檻状で、【罪状を書き並べればきりがない】と評した信盛の息子の

佐久間信栄(のぶひで)を、その後息子の織田信忠付けの家臣として

復職させています。そんなんだったら初めから追放するなよと小一時間…(笑)。


【信長公記】という、太田牛一の書いた信長の伝記は、信長の一次資料として有名ですが、この内容を良く読むと、信長という人は活発に活動している時期と、何をしているのかよくわからない、空白とも言える時期が交互にあるのがわかります。

身なりや整理整頓、住まいの清潔さにも凄くうるさい人だった様なので、

要は躁鬱的な気分屋で潔癖症なのです。

その上、口答えされるのが嫌い…絶対上司には持ちたくないタイプ、自分が部下からどう思われいるかなんて、殆ど気にしていない。その割に妙に大胆な所があって、

部下の軍団長に物凄い権限移譲をして大兵力を委任していたりする…。


安国寺恵瓊はこういう所をみて、【たかころびにあおのけに】滅びると見たのでしょう。これ、恵瓊の人物眼が優れていたと言うより、当時からそう思っていた人が多かったのだと思います。そうしてそれを決定的にしたのが、この佐久間信盛の追放と

19条の折檻状だったのではないでしょうか?


織田信長という人が何故あんなに多くの裏切りを受け、最後も裏切りで死ぬ事に

なったのか…これは彼の性格に起因する必然だった事は間違いないと思います。


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