フリマアプリでサイン売るな、売るなら燃やせ

@knmatt

第1話

 劇的できれいな言い方をするならばそれは衝撃、正直に言えば憤怒だった。点滅しかかった照明の下で、大粒の汗をまき散らしながら、熊みたいな図体で熊毛のような髪を振り乱し、アコースティックギターをバリバリかきまくる、タンクトップにブリーフで、はだしの男。所々がめくれ上がり、欠けたタイルの床をペチンペチン踏みしだきながらグルグル回って弦を掻き切らんと動いて残像だけが見える左手。荒々しい鼻息。逃げ出せなくて、絶えず視界の外へ飛び出てゆくそのギタリストを何とか目でとらえる。ようやく汗でまとまった髪の隙間からその顔が見える。学食の焼きそばそっくりに焼けた肌、呼吸のためにせわしなく動く口元、つやつやした鷲鼻、の上で血管が浮くほどきつく閉じられた瞼。やがてその大男はゆっくりと、しかし対応できない速度で、上体をかがめつつこちらへ歩みを進める。なんだこいつ。なんだこの弾き方。なんて熱い。けれどもあの敬愛するイギリスのミュージシャンの、特に私の好きな曲を弾くこいつの指先から、あの美しい旋律がこんな味に変えられてしまうのが、私は恐怖で、心外で、いらだった。だから、なんなんだこいつは、と思った。期待と底知れぬ怒りで、腰が抜けて、動けなかったのだ。あ、というと同時に、これまた大きな上腕二頭筋がわたしめがけてタックルをかます。次に目が覚めたのは、瞼の裏の反射光がまぶしくて耐えきれない、白い白い病室だった。


                 -


 こちらに背を向けて小さなパイプ椅子に座るタンクトップ姿の男。熊毛のような髪を揺らしながら、猫背で何かをぼやいている。ひじをつかって何とか上体を起こすと、窓から入る陽光がまぶしい。さえずる鶯。愛らしい春の日。右手でそれを遮ろうとすると、動かした右肩のあたりに鈍痛と重さを感じてうめき声が出る。するとタンクトップの男がさっとこちらに振り返って

「あ、起きた」という。続けて、

「ごめんな。鎖骨折れてるよ、君。俺のせい。二か月入院。俺鎌田。」

少し方言交じりのイントネーションでとりあえず気になる情報を聞き取りやすい速度ですべて言った鎌田という男。

と同時に、脳内に滑り込む、現実と、現状と、思い描いていた理想の崩壊。

「終わっ……た……私の大学生生活……」

せっかく起こした上体から力が抜けて、ばさりとベッドに倒れる。張り切って入学初日からサークル見学なんてするんじゃなかった。二か月も休んだら授業も友達も、浦島太郎不可避。さようなら、私をすべてが追い抜いてゆく。はぁあ、留年?退学?チェックメイト?止まらない思考の津波に襲われる私をよそに、

「ほれリンゴどうぞ」

と鎌田はウサギの形に皮を切ったリンゴを手づかみで私の口に押し込もうとする。

「いらない!」

と、多分今ならまだ許される八つ当たりをすると、あれ、女子はウサギ好きじゃないのなんて言うので無視を決め込む。昂った感情のせいで出た無駄な涙で視界がにじむ。リンゴが嫌いなのよっ!という言葉は飲み込んで目を閉じる。

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