【短編小説】光と影の禅堂 ―影を見る黒猫―(約6,700字)
藍埜佑(あいのたすく)
【短編小説】光と影の禅堂 ―影を見る黒猫―(約6,700字)
●第1章:影見の章
私は影を見る猫。人の言葉で言えば「影見の猫」とでも呼ぶべきか。この昂源院に住まうこと、もう五百年になる。開山以来、代々の僧侶たちの生と死を見守ってきた。人の言葉を理解し、人の心も読める。しかし、人間に理解されることはない。それが私の宿命だ。
黒猫である私の毛並みは、月光を吸い込むように漆黒で、目は琥珀色。禅堂の柱に腰を下ろし、日々、人間たちの修行を観察している。彼らには私の姿は見えているはずだが、誰も特別な関心は示さない。ただの寺猫として扱われ、時折餌をもらう程度の関係だ。
それでいい。むしろ、それがあるべき姿なのだ。
今日も私は、いつものように本堂の梁の上で、朝課の様子を見守っていた。木魚の音が響き渡る中、円庭咲夜の澄んだ声が、夜明け前の薄闇を震わせている。
「色即是空、空即是色……」
咲夜は三十三年の人生のうち、すでに十五年をこの昂源院で過ごしてきた。その声には、確かな重みがある。しかし、私の目には彼女の内なる迷いも見えている。光の中の影のように、微かだが確かな存在感を持って。
咲夜の隣では、月輪詠子が背筋を伸ばして座っている。三十一歳の彼女は、咲夜と同時期に修行の道に入った。以来十五年、互いを支え合いながら精進してきた。
だが、私には分かっている。詠子の命の灯火が、風前の灯のように揺らいでいることを。
人間には見えない影が、すでに彼女の周りに集まり始めているのだ。それは死の気配。私は五百年の時を生きる中で、何度となくこの影を目にしてきた。そして、それが意味することも。
般若心経を唱え終えると、東の空がわずかに明るみを帯び始めていた。
「咲夜さん、今朝は随分早かったですね」
詠子が柔らかな微笑みを浮かべる。その丸みを帯びた目元はいつも暖かな光を湛えているが、今日は何か違う。私には見える、その光の中にちらつく翳り。
「ええ。なんだか、心が落ち着かなくて」
咲夜は正直に答えた。彼女も何か感じているのだろうか? しかし、人間の感覚は鈍い。死の足音を聞き取るには。
私は静かに立ち上がり、梁の上を歩き始めた。朝日が差し込み始めた本堂の中で、私の影が長く伸びる。その影は、まるで何かを予告するかのように、詠子の方へと伸びていった。
昂源院は、開山以来五百年の歴史を持つ由緒ある禅寺である。現在は住職の澄明和尚のもと、十名ほどの僧侶と尼僧が修行に励んでいる。この五百年の間、私は多くの人間たちの生と死を見てきた。
開山の頃の記憶は、今でも鮮明に残っている。まだ若かった私は、山中で道に迷った開山和尚に出会った。和尚は私を導き手として信じ、この地に寺を建立した。以来、私はこの寺を離れることなく、代々の僧侶たちを見守り続けてきた。
もちろん、普通の猫ならばとうに寿命を終えているはずだ。しかし、私は違う。それが何故なのか、私自身にも分からない。ただ、使命があるのだと感じている。人間たちの修行を見守り、時には導く使命を。
本堂の外に出ると、初夏の爽やかな風が吹き抜けていった。青々とした楓の葉が、風に揺れている。詠子と咲夜は、朝の日課である庭の掃除に向かっていた。
私は、本堂の縁側に腰を下ろした。陽の光を浴びながら、二人の様子を見守る。表面上は、いつもと変わらない朝の風景。しかし、私の目には、確実に近づきつつある影が見えていた。
●第2章:予兆の章
夏の日差しが強くなり始めた頃、私の予感は次第に強まっていった。
詠子の周りの影が、日に日に濃くなっていく。人間たちには見えない影。死の気配を帯びた、漆黒の影。それは、私の毛並みと同じ色をしていた。
ある日の夕方、本堂での写経の時間に、私は詠子の様子を観察していた。彼女の筆運びが、わずかに乱れている。目に見えない痛みに耐えているような、そんな表情。
「詠子さん、大丈夫ですか?」
咲夜が心配そうに声をかける。
「ええ、ただ少し疲れているだけです」
詠子は優しく微笑んだ。しかし、その笑顔の下に隠された苦痛を、私は見逃さなかった。
私は静かに彼女の元へと歩み寄った。普段は人間たちに近づくことはないのだが、今日は違う。何か伝えなければならない。たとえ、それが理解されなくても。
「あら、珍しいわね」
詠子が私に気付き、手を伸ばしてきた。私は彼女の膝に乗り、身を寄せた。暖かな体温。しかし、その下に潜む冷たさも感じる。
「寺の黒猫って、あまり人には懐かないって聞いていたけど」
咲夜が不思議そうに見つめてくる。
私は黙って詠子を見上げた。琥珀色の瞳に、できるだけの思いを込めて。しかし、人間に私の言葉は届かない。それが、この世界の決まりなのだから。
その夜、私は本堂の屋根に上り、月を見つめていた。
五百年の時を生きてきた私には、人間の生命の儚さが、あまりにも痛々しく感じられる。しかし、それは自然の摂理。私にもどうすることもできない。
ただ、見守ることしかできない。そして時には、最期の瞬間に寄り添うことしか。
数日後、私は住職の澄明和尚の元へ行った。和尚は庵室で、静かに目を閉じて座っていた。
私は、和尚の前に座り、じっと見つめた。和尚は目を開け、私を見た。
「何か、伝えたいことがあるのかな」
さすがは住職。私の異常な様子を感じ取ったようだ。
私は、ゆっくりと頷いた。そして、詠子の方向を見た。
和尚は、しばらく考え込むように黙っていた。
「なるほど……」
やがて、静かにつぶやいた。和尚は何か感じ取ったのかもしれない。しかし、それが具体的に何なのかまでは、恐らく理解していないだろう。
それでも、私にできることはそれくらいしかない。
次の日の朝。
いつものように本堂で朝課が始まろうとしていた時、それは起きた。
詠子の筆が、突然止まる。
私は、すでにその場に居合わせていた。梁の上から、すべてを見ていた。
影が、ついに実体化する時が来たのだ。
「詠子さん!?」
咲夜の叫び声が、静寂な寺院の廊下に響き渡る。
私は、静かに梁を降り、詠子の側へと歩み寄った。
人間たちには見えないだろうが、詠子の周りには、すでに漆黒の影が渦を巻いている。それは、まるで私の毛並みのような色。
それは、死の色。
●第3章:別離の章
救急車のサイレンが、昂源院の静寂を引き裂いた時、私は本堂の屋根で、すべてを見守っていた。
脳動脈瘤破裂――。
医師の告げた診断名が、風に乗って私の耳に届く。意識不明の詠子は、すぐに救命救急センターへと運ばれた。咲夜が付き添い、住職も後を追う。
私は、本堂に残った。
人間たちには見えない影が、救急車の後を追うように流れていく。それは、もう止めることのできない運命の流れ。
私は五百年の時を生きる中で、何度も同じような場面を目にしてきた。突然の死。残される者の悲しみ。そして、それらが教えてくれる真理。
しかし、今回は少し違った。
詠子は、死を予感していたのではないか。あの「透明になっていく感覚」という言葉。それは、彼女なりの死の予兆の感じ方だったのかもしれない。
数時間後、住職が戻ってきた。その表情を見た時、私にはすべてが分かった。
詠子は、逝ったのだ。
本堂に静寂が満ちる。
私は、ゆっくりと仏壇の前に歩み寄った。ロウソクの灯りが、私の影を大きく揺らめかせる。
人間たちには理解できないだろうが、死は終わりではない。むしろ、新たな始まり。詠子の意識は、今頃どこを彷徨っているのだろうか。
葬儀の日。
小さな本堂には、寺の関係者たちが集まっていた。読経の声が響く中、私は屋根裏から、すべてを見守っていた。
咲夜の悲しみが、濃い影となって彼女を包み込んでいる。それは、詠子の周りに見えていた死の影とは違う。生きることの苦しみが生み出す影。
しかし、その影もいずれは晴れるだろう。それもまた、私は知っている。
五百年の時を生きていると、人間の感情の移ろいもまた、自然の摂理のように見えてくる。悲しみも、喜びも、すべては流れの一部。
夜になり、人々が帰っていった後。
私は、静かに本堂に降り立った。
月光が、障子を通して差し込んでいる。
その光の中に、かすかな人影を見た気がした。
詠子の面影だろうか。
しかし、それはすぐに消えた。幻か、現実か。五百年を生きる私にも、確かなことは言えない。
ただ、確かなことが一つある。
これから咲夜が歩む道のりが、決して平坦ではないということ。
しかし、その道のりこそが、彼女を真理へと導くのだ。
私は、それを見守る。
それが、影を見る猫である私の役目なのだから。
●第4章:迷いの章
詠子の四十九日法要が終わっても、咲夜の心の影は晴れなかった。
私は、本堂の梁の上から、彼女の様子を見守り続けた。
毎朝の読経の時間。詠子の不在が、重く咲夜の心にのしかかっているのが見える。掃除の時も、食事の時も、写経の時も、すべての日常が虚ろな影に包まれている。
ある日、住職が咲夜を呼び止めた。
「円庭」
私は、庵室の窓の外で、その会話に耳を傾けた。
「苦しいのはわかる。しかし、その苦しみにとらわれすぎてはいけない」
住職の声は、慈愛に満ちていた。しかし、同時に厳しさも秘めている。
「詠子の死は、お前への大切な教えなのだ」
「教え、ですか?」
咲夜の声が強くなる。私には、その声に潜む怒りの影が見えた。
「人の死を、教えとして見ろというのですか?」
私は、静かに目を閉じた。人間の感情の起伏は、時として激しい。それもまた、自然なことなのだが。
その夜、咲夜は久しぶりに本堂で一人座禅を組んでいた。私は、いつもの梁の上から見守る。月明かりが障子を通して差し込み、仏壇の金具がかすかに光っている。
咲夜の周りの影が、さらに濃くなっていく。しかし、それは必要な過程なのだ。影が濃くなればなるほど、やがて訪れる光は鮮やかになる。
それを、私は知っている。
数日後、咲夜は図書館に通い始めた。脳科学、量子物理学、認知科学――現代科学が解き明かそうとしている謎について、貪るように本を読んでいる。
私には、その姿が面白く映った。人間は、理解できないものに出会うと、必ず説明を求めようとする。それが科学という形を取ることもあれば、宗教という形を取ることもある。
しかし、真理はその両方の遥か先にある。それを、咲夜はこれから学んでいくのだろう。
●第5章:探求の章
秋風が境内を吹き抜けるようになった頃、咲夜の中に新しい光が芽生え始めているのを、私は感じ取っていた。
図書館で得た知識は、彼女に新しい視点を与えたようだ。特に量子物理学への関心は深く、観測者と観測対象の不可分性という概念に、強く惹かれているようだった。
私は、本堂の縁側で日向ぼっこをしながら、そんな咲夜の変化を見守っていた。人間の探求心は、時として思いがけない場所に真理を見出すものだ。
ある日の夜、咲夜は住職に報告していた。
「量子物理学では、観測者と観測対象は分離できないと考えるそうです」
私は、庵室の窓の外で耳を傾けていた。
「つまり、主観と客観の区別は、実は幻かもしれない。それは、禅の教えと通じるものがあるように思うのです」
なるほど。面白い気づきだ。しかし、住職の返答も的確だった。
「それは本で読んだ知識だ。お前自身の体験ではない」
その通りだ。真の理解は、体験を通じてしか得られない。それは私自身、五百年の時を生きる中で学んできたことだ。
その夜、咲夜は本堂で長い座禅を組んだ。
私は、いつもの場所から見守っていた。彼女の周りの影が、少しずつ変化し始めている。それは、もはや純粋な悲しみの影ではない。探求と理解を求める意志が、その影に新しい質を与え始めていた。
月光が、障子を通して差し込む。
私の影が、長く伸びて、咲夜の影と重なる。
そこに、何か不思議な共鳴を感じた。
●第6章:試練の章
冬の寒さが厳しくなり始めた頃、予期せぬ出来事が起こった。
その夜、激しい雨が降っていた。本堂で夜坐をしていた咲夜が、突然、激しい頭痛に襲われたのだ。
私は、すぐにそれに気付いた。彼女の周りの影が、突如として激しく渦を巻き始めたからだ。
まるで、詠子の最期の時のような――。
しかし、今回は違った。これは死の影ではない。むしろ、生の苦悩が生み出す影。パニック発作という、人間特有の病気らしい。
咲夜は、座禅の姿勢を崩した。
「ああ……」
そして、その時、不思議な現象が起きた。
咲夜の意識が、まるで部屋全体に拡がっていくのを、私は感じ取った。それは、かつて詠子が体験していた「透明になっていく感覚」に近いものかもしれない。
しかし、今回はそれが、死への予兆ではなく、より深い気づきへの入り口となっているようだった。
私には見えた。咲夜の中で、観察する意識と、パニックを経験している意識が、はっきりと分離している様子が。
そして、それら全てを包み込むような、さらに大きな意識の存在。
これこそが、彼女が求めていた体験による理解なのだろう。
雨の音が、異常なほど克明に響く。
私は、静かに目を閉じた。
人間の修行の道のりは、時として予想もしない形で展開する。それもまた、私は知っている。
やがて、夜が明けていった。
咲夜は、何か大きな理解を得たような表情で、静かに目を開けた。
私は、そっと彼女の膝から離れ、いつもの梁の上へと戻っていった。
このできごとが、彼女の修行の重要な転換点となることを、私は知っていた。
それは、影から光へと向かう道程の、重要な一歩となるはずだ。
●第7章:悟りの章
春の気配が近づき始めた頃、咲夜の修行は新たな段階に入っていた。
毎朝の座禅で、彼女は以前には気づかなかった微細な感覚を捉えられるようになっていた。呼吸の間隙にある静寂。心の動きの束の間の停止。そして、それらを観察している意識そのものへの気づき。
私は、いつものように本堂の梁の上から、その変化を見守っていた。彼女の周りの影が、次第に薄まり、代わりに微かな光が漂い始めていた。
ある夜のこと。
本堂での座禅中、咲夜は、これまでにない深い気づきを得たようだった。
私には見えた。彼女の意識が、まるで大きな川のように拡がっていく様子が。
表面には様々な想念が泡のように浮かんでは消えていく。
しかし、その底には深い静けさが広がっている。
それは、かつて詠子が体験していた「透明になっていく感覚」の本質なのかもしれない。死の予兆ではなく、存在の本質への気づき。
私は、静かに目を閉じた。
五百年の時を生きる中で、私自身も同じような気づきを得てきた。生と死は、光と影のように、決して分けることのできないもの。それは、存在の本質的な在り方なのだ。
月光が、静かに本堂を満たしていく。
私の影が、咲夜の影と重なる。
そこには、もう暗い影はなかった。
代わりに、静かな光が満ちていた。
●第8章:光明の章
桜の蕾が膨らみ始めた頃、昂源院に新しい風が吹き始めていた。
新たに二人の修行僧が加わり、境内はいつもより活気に満ちている。
咲夜は今、妙心と共に新入りの指導を担当していた。私は、その様子を見守りながら、彼女の中に宿る新しい光を感じていた。
それは、単なる悟りの光ではない。
経験を通じて得られた、深い理解の光。
ある日、住職が咲夜に新しい任務を告げた。
「来月から、医療機関での布教活動を任せたい」
私は、庵室の窓の外でその会話を聞いていた。
なるほど。人間の苦悩を理解し、それを超える道を示す。それこそが、咲夜に相応しい道なのかもしれない。
詠子の死を通じて得られた理解が、今度は他者を助ける光となる。
私は、静かに微笑んだ。
私は、笑いだけを残して消えたりしない。
●第9章:永遠の章
満開の桜が、静かに舞い落ちる頃。
私は本堂の屋根の上で、夕暮れの空を見つめていた。
五百年の時を生きる中で、私は多くの人間たちの生と死を見てきた。そして、それらが教えてくれる真理を、静かに受け止めてきた。
詠子の死。
咲夜の成長。
そして、これから始まる新しい物語。
すべては、大きな流れの一部。
永遠の時の中の、一瞬の輝き。
私は、静かに目を閉じた。
月が昇り、境内を銀色に染める頃。
本堂から、読経の声が聞こえてきた。
新しい修行僧たちと共に、咲夜の声が響く。
「色即是空、空即是色……」
その声に、かつての詠子の声が重なって聞こえた気がした。
私は、ゆっくりと目を開けた。
満月の光が、私の漆黒の毛並みを優しく照らしている。
影の中にも、光は宿る。
光の中にも、影は存在する。
それが、この世界の真理。
私は、これからも見守り続けるだろう。
永遠に。
それが、影を見る猫である私の宿命なのだから。
(了)
【短編小説】光と影の禅堂 ―影を見る黒猫―(約6,700字) 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi
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