第11話 安永8(1779)年2月21日 家基、最期の鷹狩り ~家基の看病を巡っての西之丸大奥での「攻防」、そして将軍・家治の「苦渋の決断」~

 家基いえもと品川しながわ東海とうかいより西之丸にしのまるへとかつまれたのは宵五つ(午後8時頃)のことであった。


 西之丸にしのまる表向おもてむきにおいてはいずれも西之丸にしのまる当番とうばん奏者番そうじゃばん井上正定いのうえまささだ大目付おおめつけ松平まつだいら忠郷たださと、それに西之丸にしのまる目附めつけ松平まつだいら田宮たみやの3人が家基いえもと身柄みがらあずかるべく、玄関げんかんにて待機たいきしていた。


 その家基いえもと西之丸にしのまる目附めつけ小野おの次郎右衛門じろえもん新庄しんじょう與惣右衛門よそえもんとによってかつがれて玄関げんかん姿すがたせるや、松平まつだいら忠郷たださと松平まつだいら田宮たみやに「選手交代せんしゅこうたい」、井上正定いのうえまささだ先導せんどうもと家基いえもと今度こんど松平まつだいら忠郷たださと松平まつだいら田宮たみや両人りょうにんかたりて表向おもてむきから中奥なかおくへとはこばれた。


 本来ほんらいならば井上正定いのうえまささだたちは中奥なかおくへは勝手かってにはあしれられない。そのはあくまで表向おもてむき役人やくにんだからだ。


 だがいま非常ひじょうということで、中奥なかおく最高さいこう長官ちょうかんたるそば用取次ようとりつぎ小笠原おがさわら信喜のぶよし佐野さの茂承もちつぐとによって、井上正定いのうえまささだたちが中奥なかおくへとあしれることがゆるされたのであった。


 なにしろ中奥なかおくいや西之丸にしのまるあるじたる家基いえもとかついでいるからだ。


 もっとも、その井上正定いのうえまささだたちもあしれられたのは中奥なかおくまで、中奥なかおくよりもさらおくおくまさしく大奥おおおくへは如何いか家基いえもとかついでいるといえどあしれることはゆるされず、中奥なかおく大奥おおおくとをむすかみすず廊下ろうかにて家基附いえもとづききゃく会釈あしらいにバトンタッチ、すなわち、砂野いさの笹岡ささおか山野やまの花川はなかわの4人の奥女中おくじょちゅうによって新座敷しんざしきへとはこばれた。


 新座敷しんざしき家基いえもと生母せいぼ於千穂おちほかた部屋へやであり、家基いえもと寝所しんじょではない。


 西之丸にしのまる大奥おおおくにおける家基いえもと寝所しんじょと言えば、かみすず廊下ろうかじょうにある小座敷こざしき上段じょうだんであり、そこで婚約者こんやくしゃである種姫たねひめねやともにする。


 家基いえもと西之丸にしのまる大奥おおおくへとかつまれるまえすなわ西之丸にしのまる目附めつけ小野おの次郎右衛門じろえもんによって、


家基いえもと不例ふれい…」


 その事実じじつ西之丸にしのまる表向おもてむきおよ中奥なかおくへとつたえられるや、大奥おおおくへはそば用取次ようとりつぎ小笠原おがさわら信喜のぶよし佐野さの茂承もちつぐがそれをつたえた。具体的ぐたいてきには家基附いえもとづき老女ろうじょ初崎はつざきへとつたえたのだ。


 初崎はつざきはそれをけ、家基いえもと生母せいぼ於千穂おちほ方附かたつき老女ろうじょ玉澤たまさわへとつたえたうえで、


大納言だいなごんさまにおかせられてはしん座敷ざしきにておむか申上もうしあげるべきやに…」


 於千穂おちほかた部屋へや家基いえもとかせるべきと、そう提案ていあんしたのであった。


 初崎はつざきのその提案ていあん玉澤たまさわかいして於千穂おちほかたへと、家基いえもと重体じゅうたい事実じじつともつたえられ、それにたいして於千穂おちほかたは、


いちもなく…」


 賛同さんどうした。


 なにしろ於千穂おちほかた家基いえもと生母せいぼ於千穂おちほかたにとって家基いえもとまさに、


はらいためた…」


 大事だいじである。


 そうであれば手許てもとにて看病かんびょうするのが当然とうぜんと、於千穂おちほかたはそうかんがえ、玉澤たまさわ於千穂おちほかたつかえる老女ろうじょとして当然とうぜん於千穂おちほかた支持しじした。


 だがそれでだまっていられないのは家基いえもと婚約者こんやくしゃ種姫たねひめサイドである。


 こと種姫附たねひめづき老女ろうじょ向坂さきさか猛反撥もうはんぱつした。


大納言だいなごんさまおくどまりさいには小座敷こざしき上段じょうだん古来こらいよりの仕来しきたりにて…、それにかみすず廊下ろうかよりは小座敷こざしき上段じょうだんほうしん座敷ざしきよりもちかく…」


 中奥なかおくよりかみすず廊下ろうかつたって大奥おおおくへとはこばれることになる家基いえもと一刻いっこくはやかせるには、かみすず廊下ろうか沿いにある小座敷こざしき上段じょうだんほうかみすず廊下ろうかからはなれている新座敷しんざしきよりもてきしていると、向坂さきさかはそう反論はんろんしたのであった。


 だがそれを初崎はつざきせたのであった。


種姫様たねひめさまにおかせられてはそのはあくまで上様うえさま縁女様えんじょさまなれば…」


 種姫たねひめはあくまで将軍しょうぐん家治いえはる養女ようじょぎず、かり家基いえもと婚約者含こんやくしゃぶくみであったとしても、正式せいしきには家基いえもと御台所みだいどころではないのだから、家基いえもと不例ふれい重体じゅうたいいま家基いえもとはその生母せいぼである於千穂おちほかた手許てもとにて看病かんびょうされるべきと、初崎はつざき向坂さきさかにそう反論はんろんし、於千穂おちほかた玉澤たまさわもそんな初崎はつざきたのもしくおもい、同調どうちょうした。


 勿論もちろん向坂さきさかけてはいない。家基附いえもとづき表使おもてづかいつとめる峯野みねの反論はんろんさせたのであった。


「やはりここは…、小座敷こざしき上段じょうだんにて大納言だいなごんさま看病かんびょうたてまつるべきでは…」


 峯野みねの初崎はつざきにそう反論はんろんいや楯突たてついたのであった。


 峯野みねのじつ向坂さきさかめいたる。


 種姫たねひめ家基いえもと婚約こんやくするまえ表向おもてむきには将軍しょうぐん家治いえはるの「縁女様えんじょさま」、養女ようじょになるまえ生家せいかとも言うべき三卿さんきょう田安家たやすけ上屋敷かみやしきにてらしていた。


 種姫たねひめじつ三卿さんきょう筆頭ひっとう田安たやす徳川家とくがわけ始祖しそである宗武むねたけ七女しちじょであり、ちなみにおなじく七男しちなん松平まつだいら定信さだのぶとは同母どうぼ兄妹きょうだいである。


 その種姫たねひめ田安家たやすけにてらしていたころより、種姫たねひめ老女ろうじょとしてつかえていたのが向坂さきさかであり、峯野みねの若年寄わかどしよりとしてつかえていた。


 向坂さきさか使つかいばん向坂さきさか藤十郎ろうじゅうろう政興まさおき実妹じつまいであり、向坂さきさか藤十郎とうじゅうろう向坂さきさか兄妹きょうだいのそのまた実弟じっていである向坂さきさか主計かずえ政賀まさよし長女ちょうじょ峯野みねのであった。


 峯野みねの種姫たねひめとはおなどしであり、田安家たやすけ女主おんなあるじ宗武むねたけ御簾中ごれんじゅうであった寶蓮院ほうれんいんがそこにけ、向坂さきさか所縁ゆかりという事情じじょう手伝てつだい、種姫附たねひめづき小姓こしょうはいされたのであった。わば種姫たねひめの「友達ともだち」に取立とりたてられたのであった。


 そして種姫たねひめが4年前ねんまえの安永4(1775)年11月に将軍しょうぐん家治いえはる養女ようじょ所謂いわゆる、「縁女様えんじょさま」として西之丸にしのまる大奥おおおくまねかれるや、向坂さきさか峯野みねのもそれにしたがい、向坂さきさか西之丸にしのまる大奥おおおくにても引続ひきつづ種姫附たねひめづき老女ろうじょとしてつかえることになり、一方いっぽう峯野みねの家基附いえもとづき表使おもてづかい取立とりたてられた。


 この人事じんじ将軍しょうぐん家治いえはるみずか発令はつれいしたものであり、峯野みねの実父じっぷ向坂さきさか主計かずえ清水しみず重好しげよし近習きんじゅうつとめていた経歴キャリア評価ひょうかしてのことであった。


 それだけ家治いえはる腹違はらちがいのおとうとである重好しげよし寵愛ちょうあいしている証左しょうさとも、かくして峯野みねの家基附いえもとづき表使おもてづかい取立とりたてられたのであった。


 それゆえ峯野みねの家基附いえもとづきながらも、そのこころ種姫たねひめにあり、


種姫様たねひめさまため…」


 それが峯野みねのの「行動基準こうどうきじゅん」であった。


 そして家基いえもと重体じゅうたいいま峯野みねのはその「行動基準こうどうきじゅん」にしたがい、


小座敷こざしき上段じょうだんにて大納言だいなごんさま看病かんびょうたてまつるべし…」


 そうこえげたのであった。小座敷こざしき上段じょうだんにて家基いえもと看病かんびょうするということは畢竟ひっきょう種姫たねひめ主体しゅたいとなって家基いえもと看病かんびょうすることになるからだ。


 うらかえせば於千穂おちほかたまくはなくなる。


 当然とうぜん於千穂おちほかた玉澤たまさわ峯野みねの猛反撥もうはんぱつし、それ以上いじょう猛反撥もうはんぱつしたのは初崎はつざきであった。


 なにしろ初崎はつざきにしてみれば、峯野みねの意見いけんは「叛乱はんんらん」、「謀叛むほん」にほかならず、


飼犬かいいぬまれたも同然どうぜん…」


 そうとしかおもえなかった。


峯野みねのっ!おの大納言だいなごん様附さまづき表使おもてづかいなのだぞっ!最早もはや田安家たやすけ女中じょちゅうあらずっ!されば大納言だいなごんさまため第一義だいいちぎかんがえるべきであろうぞっ!」


 家基いえもとためおもえば、生母せいぼ於千穂おちほかた手許てもとにて看病かんびょうするのが一番いちばんであると、初崎はつざき峯野みねのしかけたのであった。


 だがそれにたいして峯野みねのけじと言返いいかえした。


「されば大納言だいなごんさまためおもえばこそ、小座敷こざしきにて看病かんびょうたてまつるべきやに…」


 なにしろ種姫たねひめ家基いえもと婚約者こんやくしゃであり、これまでも西之丸にしのまる大奥おおおくおくどまりおりには小座敷こざしき上段じょうだんにてねやともにしたなかなれば、その家基いえもと重体じゅうたいともなれば、種姫たねひめ主体しゅたいとなって家基いえもと看病かんびょうたらせるべきと、峯野みねの初崎はつざきにそう反論はんろんしたのであった。


 かくして家基いえもとをどこで看病かんびょうすべきか、つまりはだれ主体しゅたいとなって看病かんびょうたらせるべきか、その議論ぎろん堂々巡どうどうめぐり、小田原おだわら評定ひょうじょうていしかけたが、それに決着けっちゃくけたのは西之丸にしのまるおお上臈じょうろう岩橋いわはしであった。


 岩橋いわはしかつては花薗はなぞの飛鳥井あすかいとも将軍しょうぐん家治いえはる御台所みだいどころであった倫子ともこ上臈じょうろう年寄どしよりとしてつかえ、その倫子ともこが「病死びょうし」するや、花薗はなぞの飛鳥井あすかい二人ふたり将軍しょうぐん家治附いえはるづき上臈じょうろう年寄どしより異動いどう横滑よこすべりをたしたのにたいして、萬壽ます姫附ひめづき上臈じょうろう年寄どしよりて、いま西之丸にしのまるおお上臈じょうろうおさまった。


 西之丸にしのまるおお上臈じょうろうと言えば、西之丸にしのまる大奥おおおく頂点ちょうてんち、その岩橋いわはし初崎はつざき支持しじしたのであった。


 岩橋いわはし家基附いえもとづき上臈じょうろう年寄どしよりをもねており、それゆえ初崎はつざき支持しじするのも当然とうぜんであったやもれぬ。


 ともあれ岩橋いわはしつる一声ひとこえにより、種姫附たねひめづき上臈じょうろう年寄どしより梅小路うめのこうじまでが初崎はつざき支持しじする始末しまつであり、かくして家基いえもと新座敷しんざしきにて、つまりは生母せいぼ於千穂おちほかた手許てもとにて看病かんびょうされることと相成あいなった。


 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 家基いえもと西之丸にしのまる大奥おおおく新座敷しんざしきかしつけられるや、本丸ほんまるあるじたる将軍しょうぐん家治いえはるへとそのことがつたえられた。


上様うえさま、これで御分おわかりあそばされましたでござりましょう…、清水宮内しみずくないきょう殿どのもやはりひと…」


 次期じき将軍しょうぐんしょくねらっていたのだと、本丸ほんまるそば用取次ようとりつぎ稲葉いなば越中守えっちゅうのかみ正明まさあきら家治いえはるさとようにそうかたりかけた。


 宵五つ(午後8時頃)をぎたいま宿直とのい免除めんじょされているそば用取次ようとりつぎ御城えどじょう本丸ほんまるにいることはない。


 だが家基いえもと重体じゅうたいという非常ひじょういまそば用取次ようとりつぎ惣出仕そうしゅっし、「全員ぜんいん集合しゅうごう」におよんでいた。


 稲葉いなば正明まさあきら相役あいやく同僚どうりょう横田よこた筑後守ちくごのかみ準松のりとし、それに小姓組番こしょうぐみばんがしら格奥かくおくづとめ所謂いわゆるそば用取次ようとりつぎ見習みならい松平まつだいら圖書頭ずしょのかみ忠寄ただより本丸中奥ほんまるなかおく休息之間きゅうそくのま下段げだん寄集よりあつまり、将軍しょうぐん家治いえはるかこんで善後策ぜんごさく協議きょうぎしていた。


重好しげよしが…、次期じき将軍しょうぐんねろうて、おの所縁ゆかりもの使嗾しそうして家基いえもと毒殺どくさつはかったともうすのか?」


 家治いえはるたしかめるようたずねたので、正明まさあきらもそれにたいして「御意ぎょい」とこたえようとしたところで、「あっいや、しばらく」との横田よこた準松のりとしこえ割込わりこんだ。


越中えっちゅうよ…、左様さよう言切いいきるは早計そうけいではあるまいか?」


 横田よこた準松のりとし家治いえはる稲葉いなば正明まさあきらとのあいだってはいるや、正明まさあきらにそう反論はんろん、もとい、清水しみず重好しげよし弁護べんごした。


なに早計そうけいなものか…、大納言だいなごんさまにおかせられては茶菓子ちゃがしくちにされた途端とたん嘔吐おうとされ、不例ふれいおちいりあそばされ…、その茶菓子ちゃがしだが毒見どくみたてまつりしは…、その一人ひとりである膳番ぜんばん小納戸こなんど三浦左膳みうらさぜん清水宮内しみずくないきょう殿どの所縁ゆかり…、従弟いとこにて、今一人いまひとり膳番ぜんばん小納戸こなんど田沼家たぬまけ所縁ゆかり石谷いしがや次郎左衛門じろざえもんなれば、清水宮内しみずくないきょう殿どの田沼たぬまめとにぎられて大納言だいなごんさま一服いっぷくったに、それも斑猫はんみょうどくったに相違そういあるまいよ…、されば大納言だいなごんさま吐瀉としゃぶつよりは西之丸にしのまる奥医おくい小川おがわ玄達げんたつ鑑定かんていせしところ斑猫はんみょうどく検出けんしゅつされたゆえ左様さようかんがえるよりほかにはあるまい?」


 稲葉いなば正明まさあきらにそう言われてしまっては横田よこた準松のりとしとしてもさら反論はんろんすることはむずかしかった。


 わりに見習みならいの松平まつだいら忠寄ただより反論はんろんした。


「なれど毒見どくみにはぜん奉行ぶぎょう存在そんざい相成あいなるので?ぜん奉行ぶぎょうがまずはじめに毒見どくみたてまつり、いで膳番ぜんばん小納戸こなんどによる二度目にどめ毒見どくみさいにはぜん奉行ぶぎょうがそれを監視かんしし…、さればかり膳番ぜんばん小納戸こなんど三浦左膳みうらさぜんか、石谷いしがや次郎左衛門じろざえもんか、そのいずれかが毒見どくみしょうしてそのじつ茶菓子ちゃがし斑猫はんみょうどく混入こんにゅうしたとして、監視役かんしやくぜん奉行ぶぎょう気付きづかれるは必定ひつじょう…、なれど此度こたび大納言だいなごんさま放鷹ほうようしたがたてまつり…、品川東海しながわとうかいにて茶菓子ちゃがし毒見どくみをもたてまつりしぜん奉行ぶぎょう松野まつの六郎兵衛ろくろべえなるものたし清水宮内しみずくないきょう殿どの所縁ゆかりものでもなくば、田沼家たぬまけ所縁ゆかりものでもないはず…」


 それなら三浦左膳みうらさぜんなり石谷いしがや次郎左衛門じろざえもんなりが二度目にどめ毒見どくみさいどくを―、斑猫はんみょうどく混入こんにゅうしようにも監視役かんしやく松野まつの六郎兵衛ろくろべえひかっているのだから無理むりだろうと、忠寄ただよりはそう反論はんろん疑問ぎもんていしたのであった。


 だが稲葉いなば正明まさあきら忠寄ただよりのその疑問ぎもん反論はんろんは「想定そうてい範囲内はんいない」であったらしく、あわてる素振そぶりもせずに一笑いっしょうしてみせた。


いや清水宮内しみずくないきょう殿どのとの所縁ゆかりなればあるぞえ?」


 正明まさあきらにそう指摘してきされて、忠寄ただよりも「えっ?」とこえげた。


 正明まさあきらはそんな忠寄ただよりたいして、それに将軍しょうぐん家治いえはる横田よこた準松のりとしたいしても、


「さも得意気とくいげに…」


 西之丸にしのまるぜん奉行ぶぎょう松野まつの六郎兵衛ろくろべえ清水しみず重好しげよしとの所縁ゆかりについてかたってかせた。


 すなわち、松野まつの六郎兵衛ろくろべえ妻女さいじょ清水家臣しみずかしん一尾いちお市郎左衛門いちろうざえもん通度みちのりであるのだ。


 これには忠寄ただよりおどろくと同時どうじに、


「それならば…」


 正明まさあきら推量すいりょう成立なりたつやもれぬと、そうかんがなおした。


 正明まさあきら忠寄ただより様子ようすからそうとさとるや、さら調子ちょうしり、


「それもただの家臣かしんあらず…、近習きんじゅうばんとして清水宮内しみずくないきょう殿どの側近そばちかくにつかえておるのだ。それも宮内くないきょう殿どのがその幼名ようみょうにあらせられる萬次郎まんじろうぎみ御名乗おなのりあそばされしおりより近習きんじゅうばんとしてつかたてまつり、まさ昵近じっきんしんもうせようぞ…、さればかる一尾いちお市郎左衛門いちろうざえもん実妹じつまいめとりし松野まつの六郎兵衛ろくろべえなれば、妻女さいじょかいして、清水宮内しみずくないきょうさま天下てんがのぞんだとしても不思議ふしぎではあるまい?」


 清水家しみずけにおける一尾いちお市郎左衛門いちろうざえもんの「立位置ポジション」にまでれて、松野まつの六郎兵衛ろくろべえもまた、家基毒殺いえもとどくさつはかった一味いちみ相違そういないと印象いんしょうけようとした。


 だがそれはいささか、蛇足だそく気味ぎみであった。


 それと言うのも、家治いえはる疑問ぎもん呼起よびおこさせてしまったからだ。


正明まさあきらよ…」


「ははっ…」


うもそこまでくわしくぞんじておるな…」


「えっ…」


当人とうにん兄弟きょうだい清水家臣しみずかしんなればまだしも…、その程度ていどなれば用取次ようとりつぎたるそなたが把握はあくしていても別段べつだん不自然ふしぜんではないが、なれど妻女さいじょ兄弟きょうだい清水家臣しみずかしんなどとは…、事前じぜん調しらべでもせぬかぎりはからぬとおもうのだが…、ましてや松野まつの六郎兵衛ろくろべえはここ本丸ほんまるぜん奉行ぶぎょうあらずして西之丸にしのまるぜん奉行ぶぎょう…、本丸ほんまるよう取次とりつぎたるそなたが、ってみれば畑違はたけちがいとももうせる西之丸にしのまるぜん奉行ぶぎょうについてそこまでくわしくぞんじておるとは、事前じぜん調しらべたとしかおもえぬのだが…」


 家治いえはるによってはなたれたその「」は、稲葉いなば正明まさあきらにしてみればおもいがけぬものであり、一瞬いっしゅんこたえにきゅうした。


 だがそれもつかぎず、正明まさあきらぐに体勢たいせい立直たてなおすと、もっともらしい弁明べんめいつとめた。


如何いかにも上様うえさまおおせのとおりでござりまする…」


「ともうすと?」


「されば此度こたび大納言だいなごんさま放鷹ほうようにおかせられましては、この正明まさあきら西之丸にしのまるそば用取次ようとりつぎ小笠原おがさわら若狭わかさ佐野さの右兵衛うひょうえ、そして水上みずかみ美濃みのとも人選じんせんに…、放鷹ほうようしたがたてまつらせる面々めんめん人選じんせんたりましてござりまする…」


 それは家治いえはる承知しょうちしていたので「うむ」とおうじた。


 西之丸にしのまるあるじたる次期じき将軍しょうぐん家基いえもと鷹狩たかがりなどで外出がいしゅつさいだれ扈従こしょうさせるかについて、事前じぜん本丸ほんまるそば用取次ようとりつぎ西之丸にしのまるそば用取次ようとりつぎ協議きょうぎうえ決定けっていする。


 西之丸にしのまるあるじ外出がいしゅつさいして、何故なにゆえ本丸ほんまるそば用取次ようとりつぎまでが関与かんよくちはさむのかと言うと、それは本丸ほんまる小姓組番こしょうぐみばん書院番しょいんばん所謂いわゆるりょうばんも「西之丸にしのまる供番ともばん」として扈従こしょうすることになるからだ。


 本丸ほんまる小姓組番こしょうぐみばん書院番しょいんばんりょうばんには本丸ほんまるでのおつとめのほか西之丸にしのまるでのおつとめもあり、西之丸にしのまる勤番きんばん西之丸にしのまる供番ともばんがそれであった。


 西之丸にしのまる勤番きんばんとは西之丸にしのまる殿中でんちゅう警備けいびであり、一方いっぽう西之丸にしのまる供番ともばんとは西之丸にしのまるあるじ鷹狩たかがりなどで外出がいしゅつするさい扈従こしょうすることであった。


 西之丸にしのまる勤番きんばんにしろ西之丸にしのまる供番ともばんにしろ本来ほんらい輪番制りんばんせい当番制とうばんせいであり、そば用取次ようとりつぎくちはさ余地よちはないようにおもわれた。


 だがいまいささ事情じじょうことなる。それと言うのも、


家基いえもと鷹狩たかがりなどで外出がいしゅつさいには本丸ほんまるよりは一橋家ひとつばしけ所縁ゆかりもの扈従こしょうさせたくない…」


 将軍しょうぐん家治いえはるより、本丸ほんまるそば用取次ようとりつぎ稲葉いなば正明まさあきら横田よこた準松のりとし、それに見習みならいの松平まつだいら忠寄ただよりにその「内意ないい」をつたえていたのだ。


 家治いえはる一橋ひとつばし治済はるさだ豊千代とよちよまれてからというもの、治済はるさだによる家基いえもと暗殺あんさつ警戒けいかいするようになり、そこでこのような「内意ないい」をくだしたのであった。


 家治いえはるとしては本来ほんらいならば西之丸にしのまるにもくちしたいところであった。


 すなわち、家基いえもと扈従こしょうする西之丸にしのまる小姓組番こしょうぐみばん書院番しょいんばんりょうばんもとより、西之丸にしのまる新番しんばん小十人こじゅうにん組番ぐみばんについても家治いえはるくちはさみたいところであった。


 だが西之丸にしのまるりょうばんしんばん小十人こじゅうにん組番ぐみばん本丸ほんまるのそれとくらべてかずすくなく、それゆえ、「一橋派ひとつばしは」を完全かんぜん排除はいじょするのは不可能ふかのうであった。


 そこで家治いえはる西之丸にしのまる供番ともばんとして家基いえもと鷹狩たかがりなどに扈従こしょうする本丸ほんまるりょうばんだけでも「一橋派ひとつばしは」を排除はいじょしようとかんがえ、そのような「内意ないい」をくだしたのであった。


 稲葉いなば正明まさあきら横田よこた準松のりとし、それに見習みならいの松平まつだいら忠寄ただより将軍しょうぐん家治いえはるのその「内意ないい」をけて、交代こうたい人選じんせんたった。


 すなわち、前回ぜんかい家基いえもと鷹狩たかがりの人選じんせんたったのは見習みならいの松平まつだいら忠寄ただよりであった。


 ちょうど一月前ひとつきまえ正月しょうがつ21日、家基いえもと葛西かさいすじ二之江にのえ鷹狩たかがりへと出向でむいたのだが、そのさい西之丸にしのまる供番ともばんとして扈従こしょうした本丸ほんまるりょうばん、その人選じんせんたったのが忠寄ただよりであり、さらにそのまえ正月しょうがつ9日に家基いえもとがやはり葛西かさいすじ小松川こまつがわへと鷹狩たかがりに出向でむいたさいには横田よこた準松のりとし西之丸にしのまる供番ともばんとして家基いえもとのその鷹狩たかがりに扈従こしょうさせるべき本丸ほんまるりょうばん人選じんせんたった。


 そして今回こんかい新井宿あらいじゅく鷹狩たかがりにさいしては稲葉いなば正明まさあきらがその人選じんせんたるばんであり、正明まさあきら西之丸にしのまる供番ともばんとして家基いえもと鷹狩たかがりに扈従こしょうする本丸ほんまるりょうばんから「一橋派ひとつばしは」を排除はいじょしたのみならず、清水家しみずけ所縁ゆかりものめさせ、それはぜん奉行ぶぎょうにもおよんだ。


 すなわち、家基いえもと食事しょくじ毒見どくみにな西之丸にしのまるぜん奉行ぶぎょうもまた「一橋派ひとつばしは」ではない、それどころか清水家しみずけ所縁ゆかりのあるもの鷹狩たかがりに扈従こしょうさせたほう家治いえはる安心あんしんだろうと、そこで正明まさあきら西之丸にしのまるぜん奉行ぶぎょう家族かぞく徹底的てっていてき調しらげ、その結果けっか松野まつの六郎兵衛ろくろべえ妻女さいじょかいして清水家しみずけ所縁ゆかりがあることがかり、松野まつの六郎兵衛ろくろべえ扈従こしょうさせることにしたのだ。


 正明まさあきらのその「弁明べんめい」はケチのつけようがどこにもないほど完璧かんぺきなものであり、家治いえはるとしても「うむ」とうなずくよりほかになかった。


 正明まさあきらはそのうえで、鷹狩たかがりにはかせない医師いしについても同様どうように、西之丸にしのまるおく医師いしではなく本丸ほんまるおく医師いし池原良誠いけはらよしのぶ扈従こしょうさせることにしたのだと、家治いえはるにそう「弁明べんめい」したのだ。


「されば…、西之丸にしのまる奥医おくいなかにもあるいは、一橋派ひとつばしはなるものまぎんでいるやもれず…、そのてん池原雲伯いけはらうんぱくなれば、おそおおくも上様うえさま清水宮内しみずくないきょう殿どの同様どうように、ふか寵愛ちょうあい御寄およせあそばされます田沼主殿たぬまとのも所縁ゆかりものなれば、そこで…」


 きわめて異例いれいではあるが、西之丸にしのまるおく医師いしではなく、本丸ほんまるおく医師いし池原良誠いけはらよしのぶ家基いえもと鷹狩たかがりに扈従こしょうさせることにしたのだと、正明まさあきらはそうも「弁明べんめい」をほどこしたのだ。


 正明まさあきらのその「用意ようい周到しゅうとう」ぶりには家治いえはるをはじめ、横田よこた準松のりとし松平まつだいら忠寄ただよりしたかせた。


 横田よこた準松のりとしにしろ松平まつだいら忠寄ただよりにしろ、西之丸にしのまる供番ともばんとして家基いえもと鷹狩たかがりに扈従こしょうする本丸ほんまる小姓組番こしょうぐみばん書院番しょいんばんりょうばんから「一橋派ひとつばしは」を排除はいじょするだけでしとかんがえていた。言うなれば、将軍しょうぐん家治いえはる命令めいれい、「内意ないい」にただしたがうだけでしとしていた。


 だが稲葉いなば正明まさあきらさらに、そのさきすすんでいたと言える。


上様うえさま…、斯様かよう一橋派ひとつばしは排除致はいじょいたしましても大納言だいなごんさま暗殺あんさつふせぐことは出来できませなんだ…」


 正明まさあきら家治いえはるにそうこえをかけた途端とたん、「越中えっちゅうっ!」と準松のりとし怒声どせいひびかせた。


大納言だいなごんさまいま健在けんざいにあらせられるぞっ!」


 準松のりとしがそうこえ張上はりあげるや、家治いえはる右手みぎてかかげてそれをせいした。


かまわぬ…、正明まさあきらもうとおりぞ…、されば正明まさあきらよ…、今後こんごは…、家治いえはる病床びょうしょうには一橋家ひとつばしけ所縁ゆかりものはいせともうすのか?」


 うらかえせば清水家しみずけ所縁ゆかりものを、あるいは田沼家たぬまけ所縁ゆかりもの家基いえもとそばから排除はいじょしろともうすのかと、家治いえはる正明まさあきらにそうたずねていたのだ。


「いえ…、一橋ひとつばし民部卿みんぶのきょう殿どの清水宮内しみずくないきょう殿どの同様どうよう次期じき将軍しょうぐんねろうているやもれず、上様うえさま一橋ひとつばし民部卿みんぶのきょう殿どのを…、一橋殿ひとつばしどの所縁ゆかりもの警戒けいかいあそばされまするは当然とうぜんのこと…」


 これまでどおり、一橋家ひとつばしけ所縁ゆかりもの家基いえもとそばから排除はいじょするのは当然とうぜんとしても、


「なれど…、清水宮内しみずくないきょう殿どのや、その宮内くないきょう殿どのたずさえているやもれぬ田沼主殿たぬまとのもをこれまでどおり、しんじあそばされますのも如何いかがなものかと…」


 清水家しみずけ所縁ゆかりもの田沼家たぬまけ所縁ゆかりもの家基いえもとそばからとおざけたほういのではないかと、正明まさあきら家治いえはるにそう主張しゅちょうしたのであった。


 これには家治いえはるとしてもやはり、「うむ…」とおうずるよりほかになかった。


 いや家治いえはるいまでも重好しげよし意次おきつぐのことをしんじていた。


 だが、正明まさあきらがこれまで、家治いえはるまえ積上つみあげてきた「事実じじつ」には家治いえはるこうなかった。


 正明まさあきらはそのよう家治いえはる足元あしもと見透みすかすと、


「されば…、大納言だいなごんさまにおかせられては西之丸にしのまる大奥おおおくにて療治りょうじけあそばされるとして、その側近そばちかくには一橋殿ひとつばしどの所縁ゆかりもの勿論もちろんのこと、清水殿しみずどのや、あるいは田沼家たぬまけ所縁ゆかりもの近付ちかづけにはなられぬよう…」


 正明まさあきらにこう言われては家治いえはるとしてもやはり「うむ」とおうずるよりほかになく、そのうえで、西之丸にしのまる大奥おおおく警備けいびおよ家基いえもと側近そばちかくにて治療ちりょうたる医師いし人選じんせんについて正明まさあきら準松のりとし、それに忠寄ただより一任いちにんすることにした。

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入鹿転生記 ~天明4年にタイムリープした俺は江戸幕府のフィクサーになる~ 意知遭難篇 @oshizu0609

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