第10話 安永8(1779)年2月21日 家基、最期の鷹狩り ~家基、遂に「伏魔殿」の西之丸大奥に~

 そのころ―、小野おの次郎右衛門じろえもん新庄しんじょう與惣右衛門よそえもん二人ふたり西之丸にしのまる目附めつけ西之丸にしのまるへと騎馬きばにて目指めざしていたころ西之丸にしのまる雁間がんのまには西之丸にしのまる当番とうばん奏者番そうじゃばん井上いのうえ河内守かわちのかみ正定まささだが、芙蓉之間ふようのまにはおなじく西之丸にしのまる当番とうばん大目付おおめつけ松平まつだいら對馬守つしまのかみ忠郷たださとが、そして中之間なかのまには西之丸にしのまる留守居るすい橋本はしもと阿波守あわのかみ忠正ただまさ西之丸にしのまる目附めつけ松平まつだいら田宮たみや恒隆つねたか夫々それぞれめていた。


 いや中之間なかのまにはさらに、西之丸にしのまる留守居るすい神尾かんお若狭守わかさのかみ春由はるよりめていた。


 いま刻限こくげんゆうの七つ半(午後5時頃)を四半しはんとき(約30分)ほどぎたころであり、本来ほんらいならば井上正定いのうえまささだら「一橋派ひとつばしは」の面々めんめんはとうに下城げじょうし、屋敷やしきいているころでもあった。


 本丸ほんまるより出役しゅつやく出向しゅっこうしている西之丸にしのまる当番とうばん奏者番そうじゃばん大目付おおめつけはいつもならおそくともひるの八つ半(午後3時頃)には下城げじょうする。


 一方いっぽう西之丸にしのまる留守居るすい橋本忠正はしもとただまさ西之丸にしのまる目附めつけ松平まつだいら田宮たみやであるが、二人ふたり朝番あさばんすなわち、朝五つ(午前8時頃)から夕七つ(午後4時頃)までの勤務シフトであるので、夕番ゆうばん勤務シフトもの交代バトンタッチ下城げじょうしているころであった。


 事実じじつ神尾かんお春由はるより夕番ゆうばんすなわち、夕七つ(午後4時頃)から暁九つ(午前0時頃)までの勤務シフトとして中之間なかのまめていたのだ。


 おなじことは西之丸にしのまる目附めつけにもまり、西之丸にしのまる目附めつけ用所ようしょにはいま夕番ゆうばん神尾内記かんおないき元雅もとよし夕番ゆうばんとしてめていた。


 西之丸にしのまる留守居るすい神尾かんお春由はるより西之丸にしのまる目附めつけ神尾内記かんおないきしくも同族どうぞくであり、つ、一橋ひとつばし治済はるさだ取込とりこめなかった。


 それゆえ、この神尾かんお春由はるより神尾内記かんおないき二人ふたり西之丸にしのまる姿すがたせるまえまでは、すなわち、夕七つ(午後4時頃)まえまでは芙蓉之間ふようのまにて「一橋派ひとつばしは」が寄集よりあつまっては、家基いえもとあとの「算段さんだん」―、如何いかにして一橋家ひとつばしけ嫡子ちゃくし豊千代とよちよもとへと次期じき将軍しょうぐんしょくころがりませるか、その具体的ぐたいてきな「算段さんだん」について謀議ぼうぎしていたのが、夕七つ(午後4時頃)になり、神尾かんお春由はるより神尾内記かんおないき西之丸にしのまる姿すがたせるころには彼等かれら、「一橋派ひとつばしは」は各々おのおの殿中でんちゅうせきへともどり、あるいは詰所つめしょへともどった。


 そこには本来ほんらい中奥なかおくめていなければならないはず用取次ようとりつぎ佐野さの右兵衛尉うひょうえのじょう茂承もちつぐとその相役あいやく同僚どうりょう小笠原おがさわら若狭守わかさのかみ信喜のぶよし姿すがたもあり、二人ふたりは夕七つ(午後4時頃)の直前ちょくぜんあわてて表向おもてむき芙蓉之間ふようのまより中奥なかおくにあるおのれ詰所つめしょへともどってった。


 おなじことは西之丸にしのまる目附めつけ松平まつだいら田宮たみやにも言え、田宮たみや本来ほんらい西之丸にしのまる目附めつけ執務室しつむしつである目附めつけ用所ようしょめていなければならず、そこでやはり相役あいやく神尾内記かんおないき西之丸にしのまる姿すがたせる直前ちょくぜん目附めつけ用所ようしょへともどり、そこで夕番ゆうばん神尾内記かんおないき交代バトンタッチ自身じしん目附めつけ用所ようしょると、しかし下城げじょうはせずに殿中でんちゅうせきである中之間なかのまへとあしはこんだのであった。


 松平まつだいら田宮たみや朝番故あさばんゆえすで勤務シフトけたとは言え、家基いえもと帰城きじょうするまでは下城げじょうするわけにはまいらなかった。


 何故なぜなら田宮たみや所謂いわゆる、「鷹之節たかのとき居残当番いのこりとうばん」でもあるからだ。


 これは西之丸にしのまるだけでなく本丸ほんまるにも、つまりは次期じき将軍しょうぐんだけでなく、将軍しょうぐんにも言えることだが、将軍しょうぐん次期じき将軍しょうぐん鷹狩たかがりを見送みおくった朝番あさばん幕臣ばくしん主君しゅくんである将軍しょうぐん次期じき将軍しょうぐん無事ぶじ鷹狩たかがりからかえってるまでは勤務シフトけたあと引続ひきつづき、殿中でんちゅうせきとどまり、そのかえりをたなければならないのだ。


 松平まつだいら田宮たみや勤務シフト下城げじょうせずに、殿中でんちゅうせき相当そうとうする西之丸にしのまる中之間なかのまへとうつり、そこでとどまっていたのはそのためであった。


 それは西之丸にしのまる当番とうばん奏者番そうじゃばん大目付おおめつけにも言えることで、西之丸にしのまる専従せんじゅう用取次ようとりつぎ留守居るすいは言うにおよばず、であった。


 ちなみに奏者番そうじゃばん殿中でんちゅうせき本丸ほんまる芙蓉之間ふようのまであり、西之丸にしのまる当番とうばん奏者番そうじゃばん井上正定いのうえまささだ本来ほんらいめるべきはそれに相当そうとうする西之丸にしのまる芙蓉之間ふようのまであった。


 事実じじつおなじく西之丸にしのまる当番とうばんにして、本丸ほんまる芙蓉之間ふようのま殿中でんちゅうせきとする大目付おおめつけ松平まつだいら忠郷たださと神尾かんお春由はるより神尾内記かんおないき二人ふたり西之丸にしのまる姿すがたせるまえから、いまいたるまでずっと、芙蓉之間ふようのまめていた。


 だが井上正定いのうえまささだ神尾かんお春由はるより神尾内記かんおないき二人ふたり西之丸にしのまる姿すがたせる直前ちょくぜん芙蓉之間ふようのまとなり雁間がんのまへと移動いどうしたのだ。


 西之丸にしのまるあるじが、いま家基いえもと在城ざいしょうおりには西之丸にしのまる当番とうばん奏者番そうじゃばん大目付おおめつけとも芙蓉之間ふようのまめる。


 だが今日きょうよう家基いえもと鷹狩たかがりなどで西之丸にしのまる留守るすにしているあいだ西之丸にしのまる当番とうばん奏者番そうじゃばん雁間がんのまめるのが仕来しきたりであった。


 西之丸にしのまるあるじが、いま家基いえもと外出がいしゅつおりにはたりまえだがおおくのばん警護けいごため扈従こしょうするので、そのぶん西之丸にしのまる殿中でんちゅう警備けいびすべきばんることを意味いみし、事実じじつ鷹狩たかがりなどで家基いえもと西之丸にしのまるけると、西之丸にしのまるはガランとしたものであった。


 無論むろん殿中でんちゅう警備けいびすべきばん一人ひとりもいなくなるわけではないが、それでも手薄てうすかんまぬがれず、そこで西之丸にしのまる当番とうばん奏者番そうじゃばん殿中でんちゅう警備けいび意味いみから雁間がんのまめ、西之丸にしのまるあるじかえりを、いま家基いえもとかえりをつことになるのだ。


 それならおな西之丸にしのまる当番とうばん大目付おおめつけ雁間がんのまうつり、同所どうしょまもってもさそうなところ、しかし雁間がんのま芙蓉之間ふようのまとでは雁間がんのまほう格上かくうえ大名だいみょう殿中でんちゅうせき相当そうとうするので、そこで大目付おおめつけより格上かくうえ奏者番そうじゃばん雁間がんのまへとうつるのだ。


 さて、そこへ、それも松平まつだいら田宮たみやめている中之間なかのまへと、家基いえもと鷹狩たかがりに扈従こしょうしているはず西之丸にしのまる目附めつけ小野おの次郎右衛門じろえもん新庄しんじょう與惣右衛門よそえもん二人ふたり駈込かけこんでた。


 すると小野おの次郎右衛門じろえもん松平まつだいら田宮たみや仔細しさいげたのだ。


 つまりは家基いえもと鷹狩たかがりの最中さなかに、それも食事しょくじ毒殺どくさつすることには失敗しっぱいしたことを意味いみしており、松平まつだいら田宮たみや内心ないしん舌打したうちした。


 だが小野おの次郎右衛門じろえもんとなりにはやはり、「一橋派ひとつばしは」ではない新庄しんじょう與惣右衛門よそえもんひかえていたことから、松平まつだいら田宮たみや表面的ひょうめんてきにはさも、家基いえもとあんじてせた。


 いや唯一ゆいいつの「すくい」もあった。


 それは家基いえもと鷹狩たかがりの帰途きと立寄たちよった品川しながわ東海とうかいにて、茶菓子ちゃがしくちにした途端とたん嘔吐おうとし、昏倒こんとうしたという事実じじつであった。


 その本丸ほんまるおく医師いし池原雲伯良誠いけはらうんぱくよしのぶ応急おうきゅう処置しょちこうそうしてぐにはいたらなかったが、それでも小野おの次郎右衛門じろえもん家基いえもとがぶちまけた吐瀉としゃぶつ回収かいしゅうしててくれたのだ。


 そこで松平まつだいら田宮たみやはまず、新庄しんじょう與惣右衛門よそえもんたいして、西之丸にしのまるおく医師いしもり養春院ようしゅんいん當定まささだ品川東海しながわとうかいへといそぎ、案内あんないするようめいじた。


 それから小野おの次郎右衛門じろえもんには家基いえもと吐瀉物としゃぶつおなじく西之丸にしのまるおく医師いし小川おがわ玄達子雍げんたつたねやす山添宗允直辰やまぞえそういんなおとき両名りょうめいに「鑑定かんてい」をさせるようめいじたのだ。


 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 新庄しんじょう與惣右衛門よそえもん西之丸にしのまるおく医師いしもり養春院ようしゅんいん當定まささだれてもどってたのは暮六つ(午後6時頃)をぎたころであった。二人ふたりとも騎馬きばであった。


 おく医師いし騎乗きじょう資格しかくがあるのかどうか、それはなんとも微妙びみょうなところであったが、しかしいま緊急時きんきゅうじゆえ格別かくべつもり當定まささだにも騎乗きじょうゆるされたのだ。


 さいわい、もり當定まささだうまりこなせた。


 さて、池原良誠いけはらよしのぶもり當定まささだかおてホッとした表情ひょうじょうかべた。


 それと言うのも池原良誠いけはらよしのぶ三女さんじょもり當定まささだ嫡子ちゃくしにして本丸ほんまるおく医師いしもり雲禎當光うんていまさひつもとしていたからだ。


 良誠よしのぶもり當光まさみつ岳父がくふというだけではない、おな本丸ほんまるおく医師いし仲間なかまとしてしたしく付合つきあっており、そのちちもり當定まささだにしても同様どうようであった。


 そのもり當定まささだ家基いえもと治療ちりょうくわわってくれれば、池原良誠いけはらよしのぶとしては百人力ひゃくにんりきいや千人力せんにんりきというものであった。


 事実じじつ池原良誠いけはらよしのぶはそれからもり當定まささだとのいきった、まさ絶妙ぜつみょうなるコンビネーションにより家基いえもとへの処置しょちほどこし、結果けっか家基いえもと容態ようだい安定あんていした。それがよいの六つ半(午後7時頃)であった。


 するとそれからもなくして、今度こんど小野おの次郎右衛門じろえもんもどってた。


 小野おの次郎右衛門じろえもんもどってるなり、しんじられないことをのたもうた。


「これよりただちに大納言だいなごんさま西之丸にしのまるへと…、西之丸にしのまる大奥おおおくへとうつ申上もうしあげる」


 小野おの次郎右衛門じろえもんのそのしんじられない言葉ことばいや暴言ぼうげん家基いえもと主治医しゅじいたる池原良誠いけはらよしのぶもり當定まささだ当然とうぜん猛反撥もうはんぱつした。


なにたわけたことをもうされるかっ!大納言だいなごんさまはこのとおり、ようやくに容態ようだい安定あんていされ、そこへ西之丸にしのまるへとうつ申上もうしあげるなどとは…、まんいつ容態ようだい悪化あっかあそばされたなら、なんとするっ!」


 池原良誠いけはらよしのぶがそう猛反撥もうはんぱつすれば、もり當定まささだもそれにつづいて、「正気しょうき沙汰さたとはおもえっ!」と猛反撥もうはんぱつした。


 だが小野おの次郎右衛門じろえもんはそんな猛反撥もうはんぱつなど織込おりこみであったらしく、いたって平然へいぜんとしていた。


 そこでたまねた相役あいやく新庄しんじょう與惣右衛門よそえもんが、「一体いったい…、如何いかがいたしたともうすのだ?」と小野おの次郎右衛門じろえもんにその真意しんいたずねた。


「されば…、大納言だいなごんさま吐瀉としゃぶつ西之丸にしのまるおく医師いし小川おがわ玄達げんたつ山添宗允やまぞえそういん鑑定かんていなさしめたところ、斑猫はんみょうどく検出けんしゅつされもうした」


 小野おの次郎右衛門じろえもんがそうこたえた途端とたん、そのしずまりかえった。いやこおいた。


斑猫はんみょう…、とな?」


 新庄しんじょう與惣右衛門よそえもん如何いかにもおそおそるといったてい聞返ききかえした。


左様さよう…、さればかるに…、清水宮内しみずくないきょうさま所縁ゆかりもの田沼家たぬまけ所縁ゆかりものがいるこのに、いつまでも大納言だいなごんさまとどまらせるわけにはまいらぬ…」


 小野おの次郎右衛門じろえもんのこの言葉ことば清水宮内しみずくないきょうさまこと重好しげよし縁者えんじゃである膳番ぜんばん小納戸こなんど三浦左膳みうらさぜん真先まっさき反応はんのう、それも猛反撥もうはんぱつした。


「そは…、一体いったい如何いかなる意味いみぞっ!?」


 三浦左膳みうらさぜんこえふるわせて小野おの次郎右衛門じろえもんいま言葉ことば真意しんいただした。


 それにたいして小野おの次郎右衛門じろえもんはと言うと、相変あいかわらず平然へいぜんとした様子ようすたもつづけたまま、


「されば…、これで次期じき将軍しょうぐんにあらせられる大納言だいなごんさま薨去こうきょあそばされれば、次期じき将軍しょうぐんしょく上様うえさま舎弟しゃてい大納言だいなごんさまにとっては叔父おじさまにあらせられる清水宮内しみずくないきょうさま手許てもとへところがりむやもれず…」


 そう「爆弾ばくだん」を投下とうかしたのであった。


「おのれ…、そのためにこの三浦左膳みうらさぜんおそおおくも大納言だいなごんさまにかけようとしたとでももうすのかっ!」


 そうブチれる三浦左膳みうらさぜんたいして小野おの次郎右衛門じろえもんは「左様さよう」と、やはり平然へいぜんとした様子ようすこたえた。


「されば…、三浦左膳みうらさぜん殿どの伯母おばさま清水宮内しみずくないきょうさま母堂ぼどうさまなれば、清水宮内しみずくないきょうさま三浦左膳みうらさぜん殿どのとは従兄弟いとこ同士どうし間柄あいだがらにて、三浦左膳みうらさぜん殿どのはそこで、従兄いとこ清水宮内しみずくないきょうさま天下てんがらせるべく…、大納言だいなごんさまってわらせるべく、そこで大納言だいなごんさまにかけようとたくらんだのではござるまいか?なにしろ三浦左膳みうらさぜん殿どのぜん奉行ぶぎょうとも大納言だいなごんさま召上めしあがりになられる食事しょくじ毒見どくみになたてまつれば…」


 毒見どくみしょうしてそのじつ斑猫はんみょうどく食事しょくじに…、茶菓子ちゃがし混入こんにゅうさせたのだろうと、小野おの次郎右衛門じろえもんはそう主張しゅちょうした。


 だが小野おの次郎右衛門じろえもんのこの主張しゅちょうぜん奉行ぶぎょう松野まつの六郎兵衛ろくろべえ膳番ぜんばん小納戸こなんど石谷いしがや次郎左衛門じろざえもん二人ふたりしてとなえた。


「この次郎左衛門じろざえもん三浦左膳みうらさぜん殿どのとも毒見どくみたてまつったが、左膳さぜん殿どのどく斑猫はんみょうどくれたところなどておらぬわっ!」


 石谷いしがや次郎左衛門じろざえもんがそう反論はんろんすれば、松野まつの六郎兵衛ろくろべえ膳番ぜんばん小納戸こなんどによる毒見どくみ監視役かんしやくとして、石谷いしがや次郎左衛門じろざえもん三浦左膳みうらさぜん毒見どくみを、茶菓子ちゃがし毒見どくみ監視かんししており、そのさい三浦左膳みうらさぜんどく混入こんにゅうしたところなど確認かくにんしていないと、やはりそう反論はんろんしたのであった。


 だが小野おの次郎右衛門じろえもんはそんな二人ふたり反論はんろん一笑いっしょうしてみせた。


「されば御二方おふたかたとも清水宮内しみずくないきょうさまに…、三浦左膳みうらさぜん殿どのあたりをかいして取込とりこまれているのでござろうよ…、こと石谷殿いしがやどの、そこもとは田沼家たぬまけ所縁ゆかり者故ものゆえに…」


 たしかに石谷いしがや次郎左衛門じろざえもん田沼家たぬまけ所縁ゆかりもの―、田沼たぬま意次おきつぐめいめとっていたが、「それが如何いかがいたしたっ!」と次郎左衛門じろざえもんもまた猛反撥もうはんぱつした。


「されば…、大納言だいなごんさまじつ英邁えいまいなる御方おんかたなれば…、その大納言だいなごんさまれて征夷せいい大将軍たいしょうぐん御成おなりあそばされれば、それまで上様うえさま寵愛ちょうあいかさ栄誉栄華えいよえいがいや私利しり私欲しよくかぎりをくせしおのれ立場たちばあやういと…、左様さようかんがえられた田沼たぬま主殿頭とのものかみさまはそれなればと、そのまえに…、大納言だいなごんさま将軍しょうぐん御成おなりあそばされるまえ決着けっちゃくけてしまえと…、つまりは大納言だいなごんさま将軍しょうぐん就任しゅうにん阻止そしすべく、大納言だいなごんさまいまうちがいたてまつればいとかんがえ、そこで…」


 やはり家基いえもとってわろうしている清水しみず重好しげよしんで家基いえもと毒殺どくさつはかったのではないか―、それも家基いえもと毒見どくみをもねる膳番ぜんばん石谷いしがや次郎左衛門じろざえもん三浦左膳みうらさぜん使嗾しそう毒殺どくさつ実行犯じっこうはん仕立したてると同時どうじに、やはり家基いえもと毒見どくみになぜん奉行ぶぎょう松野まつの六郎兵衛ろくろべえをも仲間なかま引入ひきいれたのではあるまいかと、小野おの次郎右衛門じろえもんはそんな推理すいりかさねたのであった。


莫迦バカな…、なにあかしでもあるのかっ!」


 石谷いしがや次郎左衛門じろざえもん小野おの次郎右衛門じろえもんってかかった。


 小野おの次郎右衛門じろえもん冷笑れいしょうかべると、


なにあかしでもあるのか…、じつ典型的てんけいてきなる下手人げしゅにん十八番おはことももうすべきめい台詞ぜりふでござるが…」


 まずはそう一発いっぱつ厭味イヤミをかましてから、


たしかにあかしはなく、この次郎右衛門じろえもん推量すいりょうにて…、なれど大納言だいなごんさま吐瀉としゃぶつ…、この品川東海しながわとうかいにて召上めしあがりあそばされ、その直後ちょくご吐出はきだされし茶菓子ちゃがしから斑猫はんみょうどく検出けんしゅつされたのはまぎれもなき事実じじつ…」


 その茶菓子ちゃがし家基いえもとしょくするまえにまず毒見どくみをしたのがぜん奉行ぶぎょう松野まつの六郎兵衛ろくろべえつづいて膳番ぜんばん小納戸こなんど石谷いしがや次郎左衛門じろざえもん三浦左膳みうらさぜん二人ふたりぜん奉行ぶぎょう松野まつの六郎兵衛ろくろべえ監視かんしもと茶菓子ちゃがし毒見どくみをしたとなれば、彼等かれら3人がグルになり、茶菓子ちゃがし斑猫はんみょうどく混入こんにゅうさせたとかんがえるよりほかにはないだろうと、そう繰返くりかえしたのであった。


 これには石谷いしがや次郎左衛門じろざえもんとしてもだまむよりほかになく、三浦左膳みうらさぜん松野まつの六郎兵衛ろくろべえにしてもそれは同様どうようであった。


小野おの…、いまはなしまことか…」


 それまでねむっていた家基いえもとますなり、小野おの次郎右衛門じろえもんただした。


大納言だいなごんさま…、御聞おききあそばされましたとおりにて…、さればここはあぶのうござりまする。一刻いっこくはよう、西之丸にしのまるへともどりあそばされ、そして大奥おおおくにて本格的ほんかくてきなる療治りょうじ御受おうけあそばされまするのが寛容かんようかと…」


 小野おの次郎右衛門じろえもん家基いえもと枕頭ちんとう近付ちかづき、そしてこしろして家基いえもとにそうささやいたのであった。


 だがこれには西之丸にしのまるそば用取次ようとりつぎ水上みずかみ美濃守みののかみ興正おきまさ猛反撥もうはんぱつした。


「されば大納言だいなごんさまにおかせられては、中奥なかおくにて療治りょうじ御受おうけあそばされるべきであろうぞ」


 水上興正みずかみおきまさ家基いえもとにぎめつつ、小野おの次郎右衛門じろえもんにそう反論はんろんしたのであった。


たしかに…、平時へいじなればそれが大原則だいげんそくでござろうが…、なれどいま非常ひじょう…、中奥なかおくにも清水宮内しみずくないきょうさま所縁ゆかりものや、あるいは田沼家たぬまけ所縁ゆかりもの跳梁ちょうりょうほしいままにしており…、さればかる中奥なかおくにてはとてもとても…」


 家基いえもと治療ちりょうなどけさせられないと、小野おの次郎右衛門じろえもん示唆しさしたのであった。


「なれど…、中奥なかおくではのうて、大奥おおおくにて療治りょうじけさせるなどとは…、上様うえさまはこのことは…」


 本丸ほんまるあるじたる将軍しょうぐん家治いえはるはこのことを諒承りょうしょうしているのかと、水上興正みずかみおきまさ小野おの次郎右衛門じろえもんただした。


無論むろん上様うえさまゆるしもてござる…、されば西之丸にしのまるそば用取次ようとりつぎ佐野さのさまかいして本丸ほんまるそば用取次ようとりつぎ稲葉いなばさまより上様うえさまへとこの…、西之丸にしのまる大奥おおおくにて大納言だいなごんさま療治りょうじたてまつけんにつき、上様うえさまへと上申じょうしんなされ、上様うえさまもこれをゆるしあそばされてござる…」


 将軍しょうぐん家治いえはるゆるしもあると、小野おの次郎右衛門じろえもんからげられると水上興正みずかみおきまさほこおさめた。


 それはおのれはらけてまで西之丸にしのまるへと家基いえもと移送いそうすることに反対はんたいしていた長谷川はせがわ平蔵へいぞう水谷勝久みずのやかつひさ酒井さかい忠香ただよし井伊いい直朗なおあきら、そして大屋おおや明薫みつしげにしても同様どうようであった。


 小野おの次郎右衛門じろえもんはそんな平蔵へいぞうたちにたいしては、


「まぁ、それでもはらされたいともうすのであらば、勝手かってされるがかろう…、それもまた立派りっぱ忠義ちゅうぎもうすものにて…」


 そう厭味イヤミをかますことで、平蔵へいぞうらへの鬱憤うっぷんらし、そのうえで、


「それに西之丸にしのまる大奥おおおくには御部屋おへやさま姫君様ひめぎみさまがおわしますゆえ…」


 そう「ころ文句もんく」をくちにした。


 御部屋おへやさますなわ家基いえもと実母じつぼ於千穂おちほかたや、姫君様ひめぎみさまこと家基いえもと婚約者こんやくしゃである種姫たねひめ、この両人りょうにん家基いえもとにとってはまさに、


「かけがえのない…」


 大切たいせつ存在そんざいであり、それは於千穂おちほかた種姫たねひめにしてもおなじことが言えた。


 小野おの次郎右衛門じろえもんによって、その於千穂おちほかた種姫たねひめ存在そんざい持出もちだされたことで、家基いえもとはらまった。


 家基いえもと水上興正みずかみおきまさほどくと、


西之丸にしのまるに…、大奥おおおくにて療治りょうじけようぞ…」


 そうせんしたのであった。


 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 そのころ西之丸にしのまる大奥おおおくにては於千穂おちほかた種姫たねひめ筆頭ひっとうに、家基いえもと帰城きじょういまいまかと待受まちうけていた。


 品川東海しながわとうかいにての家基いえもとの「変事へんじ」についてはすでに、西之丸にしのまるそば用取次ようとりつぎ佐野さの茂承もちつぐ小笠原おがさわら信喜のぶよし両人りょうにんより西之丸にしのまる大奥おおおくサイドへとつたえられていた。


 そのうえで、家基いえもとには西之丸にしのまるへと帰城きじょう次第しだい大奥おおおくにて治療ちりょうけさせたいとも、佐野さの茂承もちつぐ小笠原おがさわら信喜のぶよし両人りょうにんからそう打診だしんがあったのだ。


 これに西之丸にしのまる大奥おおおくサイドは、こと於千穂おちほかた種姫たねひめは、


いちもなく…」


 諸手もろてげて賛同さんどうしたものであった。


 いや家基いえもと西之丸にしのまる大奥おおおくにて治療ちりょうけることに諸手もろてげて賛同さんどうしたのは於千穂おちほかた種姫たねひめだけにあらず、家基附いえもとづき奥女中おくじょちゅうこと老女ろうじょ初崎はつざききゃく会釈あしらい砂野いさの笹岡ささおか山野やまの花川はなかわの4人がそうであった。


 もっとも、家基いえもと西之丸にしのまる大奥おおおくにて治療ちりょうけることについて、於千穂おちほかた種姫たねひめ初崎はつざきたちとの思惑おもわくおおいにことなる。


 すなわち、於千穂おちほかた種姫たねひめ心底しんそこ家基いえもと快癒かいゆねがっていたのにたいして、初崎はつざきたちはと言うと、


「これで治療ちりょうりて家基いえもといのちうばえる…」


 そうかんがえればこそ、家基いえもと西之丸にしのまる大奥おおおくにて治療ちりょうけることに諸手もろてげて賛同さんどうしたのであった。


 なにしろ初崎はつざきたちもまた、「一橋派ひとつばしは」だからだ。


 初崎はつざき家基いえもと乳人めのと指名しめいされながらも、家基いえもとおのれちちこばまれ、乳人めのと地位ちいうばわれたことで家基いえもと逆怨さかうらみしているならば、砂野いさのはそのめいたる。


 笹岡ささおか家基いえもと母堂ぼどう於千穂おちほかたのやはりめいたる。於千穂おちほかた実弟じっていにして本丸ほんまるそばしゅう一人ひとり津田つだ日向守ひゅうがのかみ信之のぶゆきむすめであり、信之のぶゆき嫡子ちゃくしにして中奥小姓なかおくこしょう津田つだ壱岐守いきのかみ信久のぶひさにとってはいもうとたる。


 将軍しょうぐん家治いえはるもそれゆえに、砂野いさのともに、笹岡ささおかをも家基附いえもとづき御客会釈おきゃくあしらいにんじたのであった。


 御客会釈おきゃくあしらい将軍しょうぐんあるいは次期じき将軍しょうぐん附属ふぞくする奥女中おくじょちゅうであり、将軍しょうぐんあるいは次期じき将軍しょうぐん大奥おおおく御成おなりのさい接待役せったいやくつとめ、また将軍家しょうぐんけ御三卿ごさんきょう大奥おおおくはいったさい接待役せったいやくをもつとめ、さらには御三家ごさんけ御三卿ごさんきょう諸大名しょだいみょうなどからの女遣おんなづかい接待役せったいやくをもつとめるという、おも接待役せったいやく職掌しょくしょうとしていたが、ほかにももうひとつ、大事だいじ仕事しごとがあり、


将軍しょうぐんあるいは次期じき将軍しょうぐん大奥おおおく食事しょくじとき毒見どくみやく


 ズバリそれであった。


 大奥おおおくにおける毒見どくみやくと言えばちゅう年寄どしよりになうが、しかしこの中年寄ちゅうどしより御台所みだいどころ御部屋おへやさま姫君ひめぎみ附属ふぞくされる奥女中おくじょちゅうであり、将軍しょうぐん次期じき将軍しょうぐんには中年寄ちゅうどしよりはいされていなかった。


 そこで将軍しょうぐん次期じき将軍しょうぐん大奥おおおくにて食事しょくじさいには中年寄ちゅうどしより匹敵ひってきする御客会釈おきゃくあしらい毒見どくみやくになうことになる。御客会釈おきゃくあしらい中年寄ちゅうどしよりとはちょうどぎゃく将軍しょうぐんあるいは次期じき将軍しょうぐんにだけはいされていた。


 家治いえはるもそれだけに家基附いえもとづき御客会釈おきゃくあしらいにはことほかつかい、それゆえ砂野いさの笹岡ささおか二人ふたりえらんだのであった。


 無論むろん家治いえはる初崎はつざき家基いえもと逆怨さかうらみしているなどとは、つい気付きづかず、その初崎はつざきめいたる砂野いさのならば、


家基いえもと裏切うらぎることなく毒見どくみやくたしてくれるに相違そういあるまい…」


 家治いえはるはそうしんっており、それは家基いえもと母堂ぼどう於千穂おちほかためいである笹岡ささおかにしても同様どうようであった。


 だがこの笹岡ささおかにしても初崎はつざき砂野いさの同様どうよう、そのじつ家基いえもと裏切うらぎっており、しかも一橋ひとつばし治済はるさだ取込とりこまれていたのだ。


 すなわち、笹岡ささおかじつ一橋家ひとつばしけにて用人ようにんとして治済はるさだつかえる杉山すぎやま嘉兵衛かへえ美成よししげ孫娘まごむすめであったのだ。


 笹岡ささおか杉山すぎやま嘉兵衛かへえ嫡子ちゃくし勝之助かつのすけ義貴よしたか於千穂おちほかた津田つだ信之のぶゆき姉弟きょうだいのそのまた実妹じつまいとのあいだした一人ひとりむすめであったのだ。


 杉山すぎやま勝之助かつのすけちち嘉兵衛かへえ先立さきだちてくなり、その妻子さいし津田家つだけ引取ひきとられたが、しかしつま早々はやばや再嫁さいかしたために、笹岡ささおか一人ひとり津田家つだけ取残とりのこされる格好かっこうとなった。


 笹岡ささおかおのれのこして再嫁さいかした、わるく言えばべつおとこはしった実母じつぼおおいにうらみ、そこを父方ちちかた祖父そふ杉山すぎやま嘉兵衛かへえいたのだ。


 杉山すぎやま嘉兵衛かへえ孫娘まごむすめ笹岡ささおかこころけたきずいやし、慰撫いぶすると同時どうじに、実母じつぼへのうらみを母方ははかた実家じっかである津田家つだけへのうらみへと昇華しょうか転嫁てんかさせたのであった。


 こうして笹岡ささおか津田家つだけへのうらみをつのらせつつ、その津田家つだけ於千穂おちほかた口利くちききにより大奥おおおくりをたすと、表面的ひょうめんてきにはあくまで於千穂おちほかためいとして振舞ふるまい、家基附いえもとづき御客会釈おきゃくあしらい役職ポストたのであるが、そのじつ祖父そふ杉山すぎやま嘉兵衛かへえつうじて、嘉兵衛かへえ用人ようにんとしてつかえる一橋ひとつばし治済はるさだつうじていたのだ。


 それから山野やまのだが、これは本丸新番ほんばるしんばん大河原おおがわら八十郎はちじゅうろう良房よしふさ実姉じっしであると同時どうじに、清水家臣しみずかしん大河原おおがわら喜三郎きさぶろう良寛すけひろ実姉じっしにもたる。


 大河原おおがわら喜三郎きさぶろう清水家しみずけにて普請ふしん奉行ぶぎょうとして重好しげよしつかえており、そのあねならば、それもじつあねならば、


「よもや一橋ひとつばし治済はるさだ取込とりこまれることもあるまい…」


 家治いえはるはそうしんじて、山野やまのをも家基附いえもとづききゃく会釈あしらい登用とうようしたのであった。


 だが実際じっさいにはよもや、よもやであり、その山野やまのもまた一橋ひとつばし治済はるさだ取込とりこまれていたのだ。


 山野やまのかつては竹姫附たけひめづき表使おもてづかいつとめていた。


 竹姫たけひめ薩摩さつま藩主はんしゅ島津しまづ継豊つぐとよし、本丸大奥ほんまるおおおくより薩摩藩さつまはん守殿しゅでんへと引移ひきうつると、山野やまのもこれにしたがい、引続ひきつづ表使おもてづかいとして竹姫たけひめつかえた。


 その竹姫たけひめが安永元(1772)年12月に歿ぼっすると、山野やまの守殿しゅでんて、本丸大奥ほんまるおおおく再就職さいしゅうしょくたしたのであった。


 山野やまのはまずは家治いえはる息女そくじょ萬壽ますひめちゅう年寄どしより取立とりたてられ、萬壽ますひめが安永2(1773)年2月に「病死びょうし」するや、家基附いえもとづききゃく会釈あしらい異動いどうたしたわけだが、これは初崎はつざき口利くちききによるものであった。


山野やまの清水家臣しみずかしん大河原おおがわら喜三郎きさぶろうあねなれば…」


 初崎はつざき将軍しょうぐん家治いえはる山野やまの清水家しみずけとの、ひいては重好しげよしとの所縁ゆかり主張アピールし、家治いえはるもその言葉ことばしんじ、


初崎はつざき推挙すいきょなれば…」


 山野やまの家基附いえもとづききゃく会釈あしらいえたのだが、そのころには初崎はつざきすでに「一橋派ひとつばしは」であり、山野やまの同様どうようであった。


 そして最後さいご花川はなかわだが、これは大番おおばんつとめていた川崎かわさき平八郎へいはちろう正方まさかた実妹じつまいであった。


 のみならず、やはり清水家臣しみずかしん川崎かわさき十兵衛じゅうべえ正武まさたけ実妹じつまいであった。


 いや同時どうじ一橋ひとつばし家臣かしん並河なみかわ兵蔵ひょうぞう正央まさなか実妹じつまいでもあった。


 兵蔵ひょうぞう並河なみかわごうしてはいるが、川崎かわさき十兵衛じゅうべえ実兄じっけいであり、川崎かわさき平八郎へいはちろう実弟じっていでもあった。


 その並河なみかわ兵蔵ひょうぞう小姓こしょうとして一橋ひとつばし治済はるさだつかえており、一方いっぽう川崎かわさき十兵衛じゅうべえもまた小姓こしょうとして清水しみず重好しげよしつかえていた。


 花川はなかわはその並河なみかわ兵蔵ひょうぞう川崎かわさき十兵衛じゅうべえ兄弟きょうだい実妹じつまいであり、家基いえもときゃく会釈あしらいまえ家治いえはる御台所みだいどころ五十宮いそのみや倫子ともここと心観院附しんかんいんづきちゅう年寄どしよりつとめていたのだ。


 家治いえはる花川はなかわおのれ愛妻あいさい毒見どくみやくをもつとめるちゅう年寄どしより花川はなかわ取立とりたてることについては躊躇ためらいをおぼえた。


 花川はなかわ実兄じっけい川崎かわさき十兵衛じゅうべえ重好しげよし小姓こしょうつとめているてん評価ひょうか出来できるものの、おなじく実兄じっけい並河なみかわ兵蔵ひょうぞう治済はるさだ小姓こしょうつとめていたからだ。


 それでも家治いえはる信頼しんらいしていた老女ろうじょ―、倫子附ともこづき武家ぶけけい年寄としより小枝さえだとそれに上臈じょうろう年寄どしより岩橋いわはし口添くちぞえもあり、そこで家治いえはる花川はなかわ倫子附ともこづきちゅう年寄どしより取立とりたてたのであった。


 そしてその倫子ともこが明和8(1771)年8月にやはり「病死びょうし」するや、家基附いえもとづききゃく会釈あしらい異動いどうたし、これもまた初崎はつざき口利くちききによる。


 家治いえはる愛妻あいさい倫子ともこの「病死びょうし」のトラウマから、その倫子ともこちゅう年寄どしよりとしてつかえていた花川はなかわを、今度こんど次期じき将軍しょうぐんとして本丸ほんまるより西之丸にしのまるへと移徙わたまししたばかりの家基いえもときゃく会釈あしらいとしてつかえさせることに今度こんどおおいに躊躇ちゅうちょしたものだ。


 だが初崎はつざきがそんな家治いえはる説得せっとくしたのだ。


大納言だいなごんさま大奥おおおくにて召上めしあがりになられまする食事しょくじにつきましては、きゃく会釈あしらい毒見どくみたてまつさいにはこの初崎はつざきしかと、毒見どくみ見届みとどけまするゆえ…」


 花川はなかわ毒見どくみしょしてそのじつ食事しょくじどく混入こんにゅうするのをふせぐべく、老女ろうじょたるおのれ毒見どくみ監視かんしするのでと、初崎はつざき家治いえはるをそう説得せっとくし、家治いえはる初崎はつざきのその言葉ことばをやはりうたがいもせずにしんじて、花川はなかわきゃく会釈あしらいえたのであった。


 だが実際じっさいには老女ろうじょ初崎はつざきもとより、きゃく会釈あしらい全員ぜんいんすなわち、砂野いさの笹岡ささおか山野やまの花川はなかわの4人までもが「一橋派ひとつばしは」であったのだ。


 家基いえもとはそのような、まさしく「伏魔殿ふくまでん」とも言うべき西之丸にしのまる大奥おおおくにて治療ちりょうけようというのである。


 家基いえもと命運めいうんもこの時点じてんまっていたのやもれぬ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る