3rd SINGLE「祝杯」

五十嵐璃乃

01. Daffodils

 玄関のドアを、タイピングで疲れ切った腕で開けて、私は、低く小さな声で、「ただいま…」と呟いた。



 上司からのパワハラ、過酷なスケジュール、皆からの無責任な期待――――



 今まで何とか耐えてきたけど、私にとっては、もう限界の状態だった。ちゃんとしたご飯を食べたり、ぐっすり寝たり、そういう当たり前なことが出来たのは、どれほど前だっただろうか。社会に憧れてた頃の自分は弾け飛んで、今は、ただただ働かされている、婚期さえ逃した、一人のOLでしかない。



 辞めたい。



 そう思ったことは何度もあった。けれど、私は、辞表を出すのさえ面倒臭くなってしまった。それに会社を辞めて今から就職したって、長い間働いてたくせに大した業績もない私を、雇ってくれる企業は何処にもないだろう。



 こんな生活はいつまで続くんだろうか……。



 何もしてないくせに、私は、そんな弱音を吐いた。今のところ、生きていたって、いいことなんか一つもない。小学生の頃は、具体的な夢はなかったけど、「一番楽しくて、一番幸せな、お仕事がしたいです!」とよく言っていた。懐かしさと一緒に、情けない未来の実像が浮かび上がってきて、苦しくなる。こんな未来が来るなんて、考えてもなかっただろうに。



 気が付けば、もう深夜2時を回っている。近くにあるローソンで、適当に、弁当とサラダと缶ビール2本を買って、家に戻ってきた。玄関で立ちすくむ私の左手には、無機質で少し重たいビニール袋がぶら下がっている。



「おかえりぃー」





 え? 





 突然、部屋の中から、女の子の声が聞こえてきた。



 私は、数秒間固まってしまった。すると、玄関からは死角になっているリビングから、ひょっこりと、小学生くらいの女の子が顔を出して、「どうかしたー?」と、私に訊いてきた。



 いやいや、どうかしてますって! え? な、なんで、私の家に、知らない女の子がいるの!? 鍵ちゃんと掛けてたよね? ま、まさか、泥棒か何か!? いや、こんな小さな女の子が、そんなことする訳ないか……。



 思考がグルグル回って、物凄く戸惑ったけれど、何とか「ど、どちら様でしょうか……?」という形式的な言葉ワードを絞り出した。



「もー、自分のことなのに、憶えてないのぉ? 私だってば、ワ・タ・シ!」



 いかにもプンスカプン(怒)と言った様子で、女の子は、私の近くまで歩み寄ってきた。



 ところが、私は、更に驚いてしまった。



 この近さでようやく分かったけれど、その女の子は、小学生の時の私自身だった。



 な、なんで、私が二人もいるの!? 



 またもや、思考がグルグルと回った。



「む、昔っていうか……、その、小学生の時の私……?」



「そうだよー! はぁー、やっと思い出してくれたよぉ〜。あ、それより、今、すっごくお腹減ってるの。だから、ご飯作ってー!」



 いきなりかよ。ワガママだな、この子。けど、そういや、このぐらいの時の私は、お母さんによく駄々こねてたなぁ。



「で、でも、ご飯って言っても、私料理下手だし、今さっき買ってきたコンビニ弁当も、一人分しかないんだけど……」



「キッチン棚に、カップヌードルあるでしょ? それ、食べたい! あ、シーフードね!」



 な、なんでバレてるのよ……。一体、いつ漁られたんだろ……。けど、シーフードが好きなのは、今も昔も変わってない。



「う、うん、じゃあ、そうしよっか……」



「わーい!」



 可愛らしく喜ぶその子は、何の装飾もない純白のワンピースを着ていて、まさに天使と形容するのがピッタリだった(いや、自分で自分を天使って言うのは、なんかキモいな……)。ていうか、私、あんな服持ってたっけ?









「いただきまーす!」



「いただきます……」



 今まで、ご飯を食べる時に、そう言える余裕はなかった。だから、〝いただきます〟という言葉には、何処か新鮮さがあった。



 眼の前の「私」は、シーフードをとても美味しそうに食べていた。急いで食べようとしたのか、あちっ! と何回も言っていて、急ぐ理由もないのに、そうしている彼女が、とても可愛らしかった。



 あ、そうだ。この子に色々聞かないと。そもそも過去の私が今ここに居るのが、マジで意味分かんない。



「あ、あのさぁ……、その、私は、何処から来たの?」



「そりゃ、私が小学生の時から」



 当然でしょ? みたいな顔をされた。



「いや、えっと、そりゃ、そうなんだろうけど、えっと、その、どうしてさ、過去の私が、未来の私のところに来たのかなぁと思いまして……」



 私がそう訊くと、その子は、ピシッと、まるで痛いところを衝かれたような顔をした。



「……神様が降りて来たの」



「……え?」



「んー、えっと、その、簡単に言うとね、私が寝てる時に、夢の中に、神様が降りて来て、私に『未来へ行って来なさい』って言ってきたの。私も最初は、何言ってるのか、全然意味が分かんなかったんだけど、神様と色々と話している内に、『あ、これは行かないといけないな』って思ったの。で、神様に未来に行くって伝えたら、気付いた時には、この部屋の中にいたの」



「う、うん……? ま、まぁ、経緯は分かったんだけど、な、なんで、神様はさ、過去の私に『未来に行け』なんて言ってきたの? それに、どうして、過去の私は、未来へ行こうって思ったの……?」



 また彼女は、一瞬固まった。すると、何か核心に近付いたというか、いわゆる「待ってました!」みたいな顔をして、



 「えっと、未来の私は、その……何か困ってることとか、悩んでることとか、ツラいって思うこととかってある……?」



 と尋ねてきた。



 今度は、私が痛いところを衝かれた。



 その時、喉にグッときた。今まで自分の中に埋もれていた、苦しさ、悲しさ、痛さが、いきなり込み上げてきた。



 不意に、無理して背負っていたものが、この子の前なら、吐き出せると思ってしまった。何もかも、彼女に打ち明けられそうな気がした。



 そして、その理由を考えるよりも先に、口が動いていた。



 もしかしたら、その時の私は、純粋な昔の頃の私に、いっそのこと浄化されてしまいたかったのかも知れない。









 私は、過去の私に、全てを話した。



 ブラックな仕事量、古い価値観が漂う職場、煩わしい人間関係、疲労で動かない体、それらに対する愚痴、自分の惨めさ……。散々そのことを語っていく内に、ポロポロと涙が落ちてきて、いつの間にか、私は、彼女の前で、むせび泣いていた。



 情けない。本当に情けない。



 小学生の私には、よく分からないような話ばっかして、一人で勝手にいきり立って、それで、今は泣き散らして……。私は仕事ばっかしてて、もう本当の馬鹿になってしまったのかも知れない。



 お偉い人の下で働かされて、搾取される、そうやって生きていくしかない類いの人間。



――――もう私は、自分のことが大っ嫌いになりそうだった。





 けど、その瞬間、背中にほんのわずかな温もりを感じた。





 向かいにいたはずの彼女は、私の背中にギュッと抱きついていた。彼女の体は、私の全身を包み込めるほど大きくないのに、そのハグは、とても安心出来る、お母さんに抱きしめられている時のような感覚だった。いつしか、私は泣き止んでいた。



 私が泣き止むのを見て、彼女はホッと安堵の息を漏らすと、私に対して、子供らしい無邪気さを帯びた、大人の微笑を見せてくれた。



「もう、泣き止んだね。良かった良かった」



「う、うん……。ごめんね、一方的に喋った上に、泣いたりなんかしちゃって」



「ううん、全然大丈夫! 訊いてきたのは、私のほうだから」



 ブンブンと、あの子は、大げさに首を横に振った。



 そして、今までと変わらない、優しい口調で話し始めた。



「色々話してくれて、ありがとう。会った時から、すっごく暗い顔してたから、心配だったの……。



 えっとね、私が未来の私のもとへ来たのは、神様から、未来の私がすごくお仕事で苦しんでるって聞いたからなの。だから助けてあげて欲しいって、神様に言われたの。そんなこと聞いたら、行くしかないでしょ? だって、自分自身のことだもん……。



 あ、あのね、未来の私が働いてる会社の話とかは、まだ私にはよく分からないんだけどね……、え、えっと、その、未来の私が、ツライとか苦しいとかって感じてるなら、私は、もうそのお仕事は辞めたほうがいいと思うの。無理したって、何もいいことなんかないし、逃げたかったら、逃げていいと思うよ……。



 多分、未来の私は、大人になったから、色々と難しいこととか、複雑なこととかがあって、大変な気持ちになっちゃってる……。え、えっとね、そのせいで、もうどうしようもなくなっちゃってるように見えるよ……。


 

 だからね、そのお仕事は辞めて、もっといい別のお仕事に就けばいいと思うの……。お、大人の事情とかはよく分からないから、こんな単純じゃないと思うけど……。だ、だってさ! 未来の私は憶えてるかな? 私の将来の夢! 『一番楽しくて、一番幸せな、お仕事がしたい』って! 



 だから、もう、ツラいことを頑張るのは、おしまいにしない……?」





―――――そうだった。





 小学生の私からのド正論すぎるお説教を経て、私はやっと自分自身を見つめられた。



 私は、大人に成り済ましてたんだ。色々なことを理由にして、自分に言いつけておいて、結局、今のままでいるのは嫌で嫌で仕方なかったんだ。私は、大人になんかなっていなかった。きっと、まだまだ子供なんだ……。



 彼女の言葉は、甘酸っぱい感覚を伴って、私の胸に優しく突き刺さった。



 そうして、その時、私は、すっごく久しぶりに、笑うことが出来た気がした。



「……そうだね。うん、『私』の言う通りにするよ……」



「うん! そうしよ! あと、早くご飯も食べちゃお! 私のシーフードは、麺が伸びまくっちゃったけどね……」



「あははは。じゃあ、もう一個作っちゃおっか。何がいいー?」



「カレー味!」



 やっぱり今も昔も、私は私だった。









 翌日、私は堂々と辞表を出して、その会社を出て行った。会社を出たのは、秋の夕暮れ時、雲一つない空の下だった。



 あ、待ってくれてるかたが、お一人。



「待ってたよ〜。出してきたのー?」



「うん、辞めてきた。はぁー、スッキリしたぁ! まぁ、これから、新しい仕事見つけないといけないけどね……」



「そんなことより、とりあえずお祝いしようよ、お祝い! ご退職おめでとう、脱ブラック企業の会!」



「あ、そう言いつつ、どうせ、お腹減ってるから、ご飯食べたいだけでしょー?」



「えへへー、正解!」



「仕方ないなぁー。まぁ、私もお腹減ってから、そうしよっか。じゃあ、お祝いってことで、過去の私が払ってよね?」



「えええええ!? ちょ、ちょっと待って、私、お金持ってないよぉ……」



「あははは、冗談冗談。で、何処がいい?」



「駅前のファミレス!」



「あそこ、去年潰れちゃったよ」



「えええ!? ど、どうしよう……」



「もっと美味しいお店が近くにあるから、そこ行こ。ちゃんとお子様メニューもあるし」



「だ、誰がお子様だぁー!」



 その子にぽかぽかと叩かれながら、私はとても明るい気分だった。こんなに楽しかったの、いつぶりだろう。



「ところで、帰らないの? 過去には」



「うーん、神様には内緒で、もうちょっといるー」

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